70.凪人と来島、相対す

 予定より数十分遅れて新宿駅に到着したバスの車内はさながらアリスとのファンサービス会場のような熱気になっていた。


「元気でね」

「幸せになれよ」

「結婚したら連絡くれな」


 好き放題言われているがアリスは遅くなったことを改めて詫びて下車し、後ろ髪を引かれるようにタクシーに乗り込む。

 本来であれば電車を乗り継いで帰宅するつもりだったが嘔吐した凪人の体調が優れないことやアリスのウィッグが回収できなかったこともあってタクシーを使うことにしたのだ。

 タクシーの硬い座席に背を預けた凪人は隣のアリスに何度目かの謝罪をする。


「ほんとごめんな。迷惑かけて」


 アリスはうんざりしたように息を吐く。


「またそれ? もう聞き飽きたよ。どうせなら同じ回数だけ『愛してるよ』って言って欲しいな」


「……あ、あい……して、る」


「きこえなーい。もう一回」


 などとやりとりしながらタクシーが到着したのはアリスのマンション近くのコンビニだ。時刻は七時。閑静な住宅街は暗闇に包まれ、コンビニの照明だけがスポットライトのように光っている。


「買い物まで付き合ってくれてありがとう。ここでいいよ。家すぐそこだし」


 ひと気のない交差点でアリスは凪人からビニール袋を受け取った。中身はコンビニで買った食材だ。マンションは目と鼻の先だというのに別れを告げられて悲しくなる。


「玄関まで送って行かなくていいのか?」


「今夜は珍しくママが帰ってくるの。鉢合わせしたくないでしょう? 夕ご飯食べてないだろうから準備しておこうと思って」


「鉢合わせしたって平気だよ。料理するならおれも手伝」


「んもう、今日は疲れているでしょう。平気だから無理しないで。これ食べて早く元気になって」


 そう言ってコンビニで買った胃に良さそうなゼリーを二つくれる。アリスなりの気遣いだ。


「……分かってるよ。男の子だもん、格好つけたいよね。自分の無理を押してでも頑張ろうとしちゃうよね。でももしそれが不安の裏返しだとしたらそんなの要らないってはっきり言っておくよ。いいところも悪いところも含めて凪人くんが好きなの」


 振り返ればいいところばかり見せようとした。立派なところばかり見せようとした。

 初デートだから台無しにしてはいけないと過度に意識して、無理に大きく見せようとしていた。


(すごいな。なにもかもお見通しなんだ)


 アリスほどの美人なら代わりの男はいくらでもいる。けれど自分にとってアリスのかわりはいない。その不安が見栄につながっていたのだ。


「自慢じゃないけれどこれまで自尊心の塊みたいな人たちと付き合ってきたからね。弱いところを覗かせてくれればフォローできたかもしれないのに、みんな怖がりで意地っ張りだった」


 芸能界にいるアリスは異性には慣れっこといった様子だったが、ふと、これを言ったら見たこともない顔をするだろうと思える言葉が浮かんできた。

 

「なぁアリス。お母さんへの挨拶いつすればいいかな」


「……それって……」


 びっくりしたような、それでいて待ち望んでいたような顔つきに変わる。


 凪人の覚悟はもう決まっている。まっすぐアリスの瞳を見て続きを舌に乗せた。


「結婚を前提に付き合っているって挨拶したいんだ」


「あっ……」


 泣き笑いのような顔。

 動揺を隠せないアリスの脳裏には様々が思いが渦巻いているのだろう。

 凪人のこと、芸能界のこと、自分のこと、母のこと。


「……嬉しい」


 アリスはゆっくりと笑った。滲んだターコイズの瞳に星が映る。


「嬉しいよ、ありがとう。でもそれはまた今度にして。私もママにちゃんと話しておきたいの、将来結婚したい人がいるって。もしかしたらママは反対するかもしれないけど――そのときまでに私も覚悟決めておくから」


 覚悟。

 どれほどの意味が含まれているのか凪人には想像することもできない。


 モデルであるアリスにとって「結婚」は芸能人生を左右するかもしれない大事件だ。いくら本人たちに意向があってもそう易々と事は運ばないだろう。


 それに初対面の凪人に対して敵意を剥き出しにしたあの母親があっさり承諾するとも思えない。


(交際や結婚を反対されたらアリスはどうするつもりだろう)


 反発して家を飛び出したり大ゲンカしたりするだろうか。

 できれば何事もなく認めてもらい良好な関係を築きたいところだが、簡単ではないかもしれない。


「分かった。アリスがいいと言うまで挨拶は待つよ」


「ごめんね」


「気にするな。それよりもこれ、本当はデート中に渡すつもりだったんだけど」


 そう前置きしてゼリーを入れる代わりにバッグから取り出したのは例の小箱だ。

 ずっとバッグに入れていたせいで多少凹んでいるが中身は問題ないだろう。ピンクのリボンがしっかりと結ばれていることを確認し、目を白黒させているアリスにそっと差し出す。


「誕生日、5月1日だろう。内緒で柴山さんにスケジュールを聞いたら泊りがけの仕事があるって言われたからどうしても今日渡したかったんだ」


「……私に?」


「気に入るか分からないけど、似合うと思うんだ。開けてみろよ」


 ビニール袋を置き、震える指先でリボンをほどいていくアリス。


「あっ」


 その背中がおおきく震えた。

 箱の中から現れたのは「A」のイニシャルを象ったネックレスだ。筆記体のAの丸まったところに緑色の石が埋め込まれている。


「その石はエメラルドで5月の誕生石なんだって。意味は幸運とか希望とかだったと思う」


「きれい。これ凪人くんが買いに行ってくれたの?」


「うん。さすがに未成年ひとりじゃジュエリーショップの店員さんに相手にされないと思ったから母さんにもついてきてもらったけどな。つけてやるよ、後ろ向いてくれ」


 指先にとったネックレスの端をアリスの肌の上で合わせる。金の鎖を選んで良かった、白い肌によく似合う。


「ハッピーバースデー、十七歳おめでとうアリス。おれの小遣いじゃこれが精いっぱいだけど、いつかちゃんとしたもの贈るから」


 突然のことに言葉少なだったアリスは胸元のAと凪人の顔を交互に見つめてからやっとの思いで「ありがと」と呟いた。


「私もらってばかりだね。指輪、ネックレス、あったかい腕の中、優しい言葉、楽しい思い出、もう数えられないよ」


 感極まって胸に飛び込んできたところを抱きとめ、優しく背中に手を回す。


「逆だ。アリスはいつもおれにくれてばかりじゃないか。『大好き』だって気持ち。アリスが教えてくれたんだ」


 アリスに出逢わなければ知らないままだったろう気持ちばかりだ。

 いくら感謝してもしきれない。


「じゃあさ、もうひとつプレゼントが欲しいんだけど」


 ぱっと体を離したアリスは甘えるように顔を寄せてくる。

 キスをねだるときは瞳がきらきら輝くのだと最近ようやく分かってきた。


 凪人は内心どきっとしつつ丁重に断ることにした。


「今日はダメだ」


「なんで」


 声が低い。


「おれ吐いたんだぞ。うがいしたり水を飲んだりはしたけど、さすがに――」


 言ってる傍からアリスが背伸びして強引に唇を押し当ててきた。

 「待て」状態が長引いてもう我慢できなかったのだ。彼女はケダモノだったと今更ながらに思い出す。


(ったく)


 アリスの背中を支えるようにしてキスを続けた。

 こうして味わうと確かに甘酸っぱいイチゴの味がする。




「――――ずいぶんと騒がしいカップルだな」


 近くで声がし、びっくりして顔を上げた。

 そこでまた驚く。自分によく似た男が自販機の前で炭酸ジュース片手に佇んでいたのだから。


「来島くん……?」


 口を開いたのはアリスだ。相手は一瞬怪訝そうな顔をする。


「驚いた。だれかと思ったら兎ノ原アリスじゃないか。こんな往来でよくキスできるな」


「私のことはいいから――来島くんこそどうしてここに?」


 来島怜史。アリスの同級生にして「小山内レイジ」を名乗る人物。

 こうして相対すると確かによく似ている。まるで鏡を見ている気分だ。


 来島はゴミ箱に向かって空き缶を放り投げると肩をいからせて近づいてきた。眺めつ眇めつ凪人の顔を確認したあと感嘆するように息を吐く。


「もしかしておまえ黒瀬凪人?」


「どうしておれの名前を?」


 問いかけには応えずピュウ、と口笛を吹いた。


「兎ノ原アリスの彼氏って黒瀬凪人のことか。なるほどな。んで、オレと同じ顔をしているってことはそいつが――」


 小山内レイジだろう、そう指摘される気がして身構えた。


「ん――――あぁそうか、そういうことか。兎ノ原アリスはのか」


 来島がなにを察したのか、凪人だけは理解した。

 自分と瓜二つ――小山内レイジである可能性の高い男――とキスをする間柄でありながら自分に対して「小山内レイジか?」と問うたアリスは、なにも聞かされていないということを一瞬で見抜いたのだ。


(まずい、よな)


 しだいに心音が大きくなってくる。

 自分の正体がばれたときのアリスの反応を想像するだけでくらくらと眩暈がした。


 そんな凪人を尻目にアリスが一歩踏み出す。


「さっきからなに言ってるのか分からない。そもそもどうしてここにいるの?」


「黒猫カフェだっけ、あそこにいたんだよ」


 いやな汗が流れた。

 今日は日曜で休みのはずだ。しかもこの時間帯はとっくに夕飯の支度をしているはず。


「――母さんになにもしてないだろうな」


 思いのほか低い声が出た。来島は一瞬目を丸くする。しかしすぐ笑顔になった。


「そんな怖い顔するなよ。店長さんいい人だな、黒猫探偵レイジを一緒に観てくれた。疲れていたのか寝落ちしちゃったから起こさないように店を出てきたんだよ。これでも気を遣ったつもりなんだぜ」


「……」


 凪人の眼差しは険しいままだった。

 相手の目的が分からない。黒猫カフェになにしに行ったのか、そもそも何故自分の名前を知っているのか。


 気まずい空気の中で先に動いたのは来島だった。


「分かってる分かってる、カップルの邪魔して悪かった。オレはさっさと帰るよ。用事は済んだからな」


 しおらしく詫びたかと思えば凪人に向かってズンズンと歩いてきた。


 目が合った瞬間にニヤリと笑って片腕を振り上げる。「殴られる」と咄嗟に身構えた凪人の首に腕をまわした来島は自分にだけ聞こえるような小声でささやく。



「おまえの、ぜんぶ確認させてもらった。これから一個一個奪っていってやるよ。楽しみにしててくれよな、小山内レイジ」



「――ふざけるな!」


 突き飛ばされた来島はよろめきながらも体勢を立て直す。その顔に浮かんでいたのは凪人が想像していたような敵意や怒りや憎しみといったものとはまったく違った。


 ただただ、虚無だ。


「凪人くん大丈夫? なに言われたの?」


 来島が立ち去ったところでアリスが心配そうに抱きついてくる。言葉では言い表せない複雑な思いが去来していたが、いまは彼女を心配させまいと「なんでもない」を繰り返すしかなかった。


(あの表情かお、知ってる)


 すべてを諦め、すべてを拒絶する死んだような

 小山内レイジをやめて間もなかったころの自分と同じだ。


(一体なんなんだよ)


 街灯に近づきすぎた虫がジジッと音をたてて焼け落ちる。来島の姿はとっくに見えなくなっているのに、暗闇に目を凝らすと少し猫背の背中が浮かび上がる気がした。


 言い知れない不気味な予感にざわりと胸が騒ぐ。



(つづく)

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