69.みっともなくて笑ってしまうくらい最高のデート
イチゴ狩りと昼食を終えたアリスは満足げに背もたれに寄りかかった。
「ふぅーイチゴ美味しかったね。お昼の信州牛やお野菜も噛んだ瞬間から甘くてとっても新鮮だった」
なんだかテレビの食レポみたいな言い回しだ。
ただイチゴを三十個もたいらげるレポーターなんてそうそういないだろうが。
「今日は随分食べているけどカロリー制限はいいのか?」
「せっかくのデートだもん、我慢するのはよくない。明日減らせばいいの」
「たしかにな」
頷きつつも自分の胃をそっと撫でる。
気をつけていたつもりだが少し不安定だ。間食も含めふだんの倍以上食べているせいで消化が間に合わない。
じわりとこみあげる吐き気をペットボトルの水を飲み込むことで押さえていた。
大通りを抜けたバスは広大な駐車場へと入っていく。立ち上がったガイドが最後の気力を振り絞るように声を張り上げる。
『さて最終目的地である善光寺に到着いたしました。こちらで二時間の自由散策をしたあと新宿へと戻ります。お荷物、お土産、思い出そして同行者を忘れずに時間通りバスまでお戻りくださいね』
「ここが終わったらもう帰らなくちゃいけないんだ。なんだか淋しいな」
並んで参道を歩くアリスは元気がない。それだけこのバスツアーが楽しくて仕方なかったのだろう。バスガイドだけでなく車内の客とも仲良くなり、ここに来るまでのあちこちで写真を取り合っていた。凪人の役はもっぱらカメラマンで次から次へと渡されるカメラやスマホにてんてこ舞いだった。
アリスはどこか遠くを見つけながら今回の旅のことを振り返る。
「ガイドさんやツアーの人たちもみんないい人だったし、上田城の桜もイチゴもお昼もここもすごくステキ。きっとこれからバスを見る度にこのデートのことを思い出すよ。初デートで凪人くんが連れてきてくれた街や目に飛び込んできた景色、交わした言葉を心に焼きつけておくんだ。これからどんな辛いことがあっても忘れないようにする。最高の一日だったって」
まぶしい笑顔に胸が苦しくなった。
凪人はつないでいた手を強く握り返す。
「また来よう。ここでも、ここじゃなくても。いつでも、どこへでも。おれ十八になったらすぐ免許とるつもりだから車での遠出もできる。海、山、湖、滝……いっぱい行こう、いっぱい。時間はいくらでもあるんだから」
それは約束というよりも決意だった。
今回の旅のいちばんの収穫は「Alice」であることを忘れたアリスの姿。見るものすべてに目を輝かせ、時には甘え、時にはワガママを言いながら常に寄り添ってくれた。
「うん、約束だよ――」
次はどこへいこう。
アリスはどんな顔を見せてくれるだろう。
想像するだけでワクワクしてくる。
本堂に飲み込まれていく人の流れにのって参拝を済ませた。残り時間は一時間と少し。どこへ行こうか考えているとスマホを見ていたアリスが「ここがいい!」と声を上げた。
「栗あんソフトだって。栗あんを練り込んだソフトクリーム。美味しそう!」
(ソフトクリームかぁ……)
凪人はそっと胃をさすった。
ただでさえ食べ過ぎで重いのにさらに冷たいものが入るのは心配になる。
「……胃、つらいの? もしかして発作が」
ぎくりとして慌てて首を振った。
「ちがう。食べすぎてお腹いっぱいなんだ。吐き気とかは全然ないけどソフトクリームは一口だけもらえばいいかな」
こんなに楽しそうなアリスを心配させたくない。その一心で嘘をついた。
初デートだ。最初から最後まで楽しい思い出だけにしてやりたい。
「ほら行こう。栗あんソフトの写真撮って愛斗さんに送ってあげたら喜ぶだろうな」
「まさか、大の甘党の愛斗さんだよ。『オレも食べる!』って凪人くんを拉致してすっ飛んでくるのがオチだよ」
「それは困るな」
「あ、柴山さんや桃子さんへのお土産も買わないと」
「じゃあソフト食べたら土産物屋さんも回ってみるか」
「うん」
山門を抜けて大通りに出ようとしたところで横断歩道の信号に足止めされる。仲見世は通行禁止のため丁字路になっていてごく狭い空間に車や観光客たちがごった返している。
「日曜だけあって混んでるね」
参拝を終えて駅方向に帰る客が次々と信号待ちの列に加わってくる。アリスとはぐれないようにとそっと肩を抱き寄せた。
やがて歩行者信号が青に変わる。
人々が一斉に歩き出す。善光寺から駅へ向かう客と駅から善光寺に向かう客とが狭い空間ですれ違い、瞬間的に激しいうねりとなった。
「……あっ!」
強引に進んできた男とアリスの肩が当たる。激しく突き飛ばされたせいで帽子が吹っ飛んでいくのが見えた。
男は謝罪ひとつせずそのまま走り去ってしまったがアリスの注意は別の方に向いていた。
「いけない、ママの帽子」
繋いでいた手をぱっと離して逆走をはじめる。他の人々に押し出されながらアリスを振り返った凪人は背中に揺れるミルクティー色の髪を見て思わず叫びそうになった。
(ウィッグが!)
帽子を弾き飛ばされた衝撃で黒髪のウィッグも飛んでいる。しかしアリスはそれに気づかず無我夢中で帽子を追いかけていた。
少し先の路地に転がった帽子を近くの通行人が拾ってくれる。二十歳そこそこの若い女性の二人組だ。アリスは頭を下げながらそこへ駆け寄っていく。
「すいませんそれ私の……」
「あ!」
アリスの顔を見た女性たちの顔が一変。
凪人が「まずい」と思ったときにはもう手遅れだった。
「――モデルのAliceだ!!!」
響き渡った声。
横断中の通行人たちが一斉に振り返った。
「Aliceってあの?」
「モデルだっけ」
「芸能人だ」
混沌。そうとしか呼べない状況に陥った。
様子を窺うため立ち止まったり興味なさそうに通り過ぎたりスマホをかざしたりあからさまに逆走したり。狭いスペースはまたたく間に高密度の人であふれた。
凪人がいくら叫ぼうとも暴走した人々を止める手立てはなにもない。
「あ、ちょ、ごめんなさい今日はお休みなので」
アリスの必死の声もあっという間にかき消されてしまう。
このままではまずい。
凪人はなんとかアリスを助けようとしたが視界に入った光景に体が固まってしまった。
数えきれない人々の手、声、目、目、目……。
(レイジだ)
(レイジがいる)
(こっち見て)
(逃げないで)
フラッシュバックするのは幼いころの光景。
出待ちをされ、ファンたちにもみくちゃにされたあの日。
(まずい)
慌てて口を覆う。
胃がぶるぶると痙攣して中身を押しだそうとしている。
(なんでこんなときに。アリスを助けないといけないのに……!)
歩行者用の信号が赤に変わっても人々は退かない。
一刻も早くアリスを救出しないと大パニックになると頭では分かっているのに突き上げるような吐き気のせいで身動きがとれない。必死に息を吸っても後から後から胃液が逆流してくる。
(どうにかしないと、どうにか)
必死に顔を上げた。けれど視界に入ったのは黒く歪んだ塊。それはあの日凪人が逃がしてしまった黒猫の無惨な死骸に似ていた。
(――――)
もう一歩も動けない。
手近なポールに寄りかかって息をするのがやっとだった。
情けない。
涙があふれてきた。
なんてみっともないんだろう。
押し寄せる人々の中にあってアリスの行方はもう分からない。
よく見れば先ほどの黒い塊もアリスのウィッグだ。
自分の無力感に唇を噛んだそのとき。
「来て!」
だれかに腕を掴まれた。帽子を手にしたアリスだ。いつの間にか集団から抜け出したらしく、周りの声やスマホのフラッシュには目もくれずに足早に進んでいく。
「向こうで鍛えられているからね、人を撒くのは得意なの」
迷いなくズンズンと進む背中。
凪人は吐き気をこらえながら黙ってついていくしかなかった。
「すいませんお手洗い貸してください!」
アリスが飛び込んだのは裏路地にある蕎麦屋。驚きに目を瞠る店員たちに手短に事情を説明して凪人をトイレへと連れて行く。
個室に入った途端抗いようのない波が襲ってきた。
堰を切ったように胃の中身が逆流してくる。もう我慢できなかった。
「遠慮しなくていいよ、ぜんぶ吐いちゃった方が楽だから」
アリスは優しく背中をさすってくれる。
「うっ……」
嘔吐するとき生理現象で涙が出ることはあるが、今回は恥ずかしいのと申し訳ないのとでポロポロと涙があふれた。
哀しかった。どうしようもなく悔しかった。
アリスとともに食べた焼き鳥やイチゴや昼食の料理、いろんな人が丹精込めて作ってくれたものが失われていくのだ。なにひとつ自分の中には残らない。
こんなはずではなかった。
アリスに引きずられるのではなく自らが
胃の内容物をすべてを吐いて落ち着いたところを見計らい、アリスがぽつぽつと口を開いた。
「さっきはごめんなさい、ウィッグ外れてたなんて。取り囲まれるのは慣れているけどあそこまで騒ぎになるとは思わなかった、自分でも反省している。――――でも私ちょっぴり凪人くんに対しても怒ってるの。どうしてか分かる?」
硬い感触から、アリスが背中に顔を押しつけているのだと分かった。
「なんだか具合悪そうにしていたでしょう。辛いのなら言って欲しかったし我慢できないのなら言って欲しかった。私はバカだから大丈夫って笑われるとすぐに騙されてしまう。凪人くんが望むのならバスの中で待っていても良かった」
背中を通してアリスの震えが伝わってくる。
「私を楽しませてくれようとしたのは分かってた。心配させたくないっていうのも、ちゃんと分かった。でも私は凪人くんが心の底から笑っているデートがいい。どっちかが無理するデートなんてイヤ」
次第にアリスの声が上ずり、鼻声まじりに変わっていく。
「嘔吐しちゃう自分を恥ずかしいなんて思わないで。ダメなところも恥ずかしいところも全部含めて、自分を好きになってあげて。私はいまの凪人くんが丸ごと好きだよ。愛しているよ」
こんな告白があるだろうか。
初デート中の、お蕎麦屋の、よりによってトイレで。
こんなデートは一生忘れられるはずがない。
※
帰りのバスの中はとても静かだった。
乗客たちはみな疲れて寝込んでいる。アリスも同じで、凪人に寄りかかってスヤスヤと寝息を立てていた。
胃の痛みが残っている凪人はなかなか寝つけず窓の外を通り過ぎていく夜景をぼんやりと眺めていた。
「あんた、そのお嬢さんに感謝しなきゃならんぞ」
小声で話しかけてきたのは隣のアレアレおじさんだ。
「具合が悪くてトイレに閉じこもっていたんだってな。そのお嬢さんはひとりで戻ってきて集合時間に遅れることを乗客全員に頭下げて詫びたんだ、何度も何度も」
嘔吐したあとは倦怠感のせいでなかなか動けない。アリスは一度バスに戻りガイドや乗客ひとりひとりに事情を説明してくれたという。
「もちろん誰も怒らなかったさ。あんたたちのお陰で随分楽しい旅ができたからな。だからあんたは大切なしなくちゃならねぇ、そのお嬢さんのことを一生をかけて守らなくちゃいけねぇ。アレなんだろ」
そうですね、と頷きかけたところでとある疑問が浮かぶ。
「ずっと思っていたんですけど『アレ』ってなんですか?」
「そのお嬢さんアレだろ。テレビとかネットとかに出てる有名人の……名前でてこねぇや。んでおまえさんはコレなんだろう」
と言ってこれ見よがしに小指を立てた。もはや笑うしかない。
「――はい。おれの大切な
強く頷いてアリスの方を見るとうっすら目を開けていた。
ターコイズの瞳は凪人を映して淡く輝く。
「今日は楽しかったね……また来ようね……一緒に、ね」
ほんの寝言だったらしくまた目を閉じてしまう。
「そうだな、また来よう。絶対に」
初めてのデートはおおむね成功。ただ最後にとんでもない失態をおかしてしまった。アリスが言うとおり、きっとこれから何度も思い出すことになるだろう。
恥ずかしくて情けなくてもっとみなくて、笑ってしまうくらい楽しかった最高のデートを。
(ありがとうな、アリス)
おれを見つけてくれて。
おれと出会ってくれて。
おれを好きになってくれて。
ありがとう。
大好きな人の寝顔を目蓋に焼きつけ、凪人も瞳を閉じた。
汗とシャンプーのほのかな匂いに包まれながらゆっくりと意識が沈んでいく。
バスはもうすぐ都内に入ろうとしていた。
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