68.桃子と来島とのろけるアリス

 どうしたものか、と桃子は困り果てていた。


 突然店にやってきた来島と名乗る少年。以前にアリスが話していた人物だとすぐに見当がついた。

 言われていたような横柄な態度は見せず、いまは店のソファーに座ってクロ子と遊んでいる。無表情でにこりともしないくせに猫じゃらしの操り方は巧みで、クロ子は無我夢中で追いかけている。


「来島さん。申し訳ないけど凪人は今日出かけているのよ。何時に戻るか分からないの」


「構いません待たせてもらいます。ここじゃお邪魔だと思うので、外ででも」


「外ってベンチもなにもないけど?」


「地べたにでも座ります。近所の方の目があるのでしたら近くの本屋かコンビニででも時間を潰してきます」


 そう言って腰を浮かせたので「待って待って」と引き留めざるをえなかった。

 どうあっても凪人を待つつもりだ。突然押しかけてきたのは失礼だが言葉や態度はごく丁寧で好感がもてる。事情もきかずに追い返すのも気が引けた。


 旅程表どおりなら凪人の帰宅は夜だ。彼には頃合いを見計らって帰ってもらうとしても、このまま帰すのは得策ではないように思える。


「三時頃に外出する用事があるの。あと四時間くらいね。それまでならいてもらって構わないわ」


「ありがとうございます。今日はどうしても家にいたくないんです」


 なにか複雑な事情があるようだ。


「ところで来島さんは凪人のお友達なの?」


 凪人と来島に面識はないはずだ。

 なのに来島はなぜかフルネームと自宅の場所まで知っている。そこは確認しなければいけないだろう。


「名前を知っているだけです。オレ――ぼくの知人から聞いたんです、双子のようにそっくりな高校生に遭遇したと。興味があったのでどうしても会ってみたくなったんです」


 先日凪人が出くわした『新妻』という女性の名前が浮かんだ。

 しかし逃げるように店を出て、自宅どころか本名すら明かしていないと聞いている。


「オレと息子さん、そんなに似ていますか?」


 どこか期待するような眼差しだったが桃子はゆっくり、しかしはっきりと首を振った。


「いいえ、わたしからすれば全くの別人よ。16年育ててきた息子と今日会ったばかりのあなたを見間違えるはずないでしょう」


 たしかに顔の印象は息子によく似ている。目鼻の形やほくろの位置も同じだ。

 しかし良く知っている者ならさほどかからず「別人」だと分かる。そもそもの体つきが違うのだ。心因性嘔吐を克服しつつある凪人はここ数ヶ月で背丈も体重もぐんと変化したか、目の前の来島は痩せ細っていて骨が透けて見えそうだ。

 

「あなたのお母さまだって同じじゃない?」


 推理が正しいのなら彼は来島小夜子の息子だ。かつて大女優として名をとどろかせながら、いまはメディアから姿を消してしまった女性。

 来島の二重瞼や目の形は母親そっくりだ。母譲りの長い睫毛を伏せて足元の一点を見つめている。


「あいにくですが……オレの母親はもう息子がいたことすら忘れてます」


「どうして?」


 ドキッとして身を乗り出した。

 心を病んで精神病棟に入院した噂は本当だったのか。


「いまに始まったことじゃなくて、あいつ……最初の男と別れたときからずっと変だったんですけどね。俺自身も何度も殺されそうになった。今こうして生きていることが不思議なくらいです」


 来島はそれきり口を閉ざしてしまう。


 気まずくなった桃子は『愛蔵版・黒猫探偵レイジ』のDVDを引っ張り出してきた。


「一緒に観ない? 面白いわよ」


 来島が黙っていたので勝手に流しはじめる。全300話。これだけあれば暇を持て余さずに済む。


「そう言えばバイトの子が言っていたのよね、黒ずくめの客と放火魔の事件。あれ何話かしら」


「九話ですよ」


 突如来島が口を開く。


「探偵だ天才だなんだって持ち上げられて調子に乗っていたレイジが思い込みから推理を誤り、危うく母の店に放火されそうになる回ですよ。



 ※



 バスに戻ってからというもの、アリスは変だった。


「『おれの彼女だ』」


 走り出したバスの窓の外を見ていたかと思えば突然独り言を口にする。


「なんだよ」


 隣の凪人は屋台で買った美味おいだれ焼き鳥を頬張りつつ怪訝そうに声を潜めた。


「『気安く話しかけるな』」


「だからなんだよ」


「『指一本触れてみろ、許さないぞ』」


「そんなこと言ってない」


「『四肢を切り刻んで焼き鳥にして食べやるぅ!』」


「お腹空いてるんだったら最後の一個食べていいから」


 爪楊枝に刺した焼き鳥を差し出すとアリスは振り向きざまにぱくんと口に入れた。美味しそうに噛み締めながら頬をゆるませる。

 

「むふ……ふふふ、彼女だって! おれの彼女だってっ!」


(もう勘弁してくれ)


 アリスはずっとこんな調子だった。よほど嬉しかったのだろう。所々に脚色を加えながら何度も同じセリフを繰り返している。凪人としては恥ずかしいことこの上ない。


「なぁアリス、いい加減やめてくれないか。おれだってあのときは必死で我を忘れて」


「おれの彼女おれの彼女おれの彼女……」


「しーずーかーに」


 周りに迷惑なので軽く口を押さえた。しかしアリスはめげない。


「やだよー彼女だもん!」


 凪人の手を無理やり引っ剥がしてまで愛を叫ぶ。いつのメロドラマだ。


『お客様、よほど嬉しいことがあったんですね』


 ガイドに聞かれたアリスはここぞとばかりに強く頷く。


「はい! 大好きな彼氏が私をナンパから助けてくれたんです! ちょーちょー格好良かったんですよォ!!」


『なんて若……じゃなくて、それはとても嬉しいですね』


「アレは!? ぶちゅーってアレしたのか!?」


 なぜか隣のアレアレおじさんも会話に加わってくる。

 アリスは残念そうに眉を下げた。


「キスはお預けなんです。人の目がないところでこそっとやってくれると期待してるんですけどね。ご馳走を前に『待て』させられている気分ですよ」


「男ならさっさとやっちまえ。だらしねぇな」


「ですよねー」


 まるで親戚の集まりかと思うほど打ち解けている。

 一方の凪人は針のむしろ状態。居たたまれない。


「聞いてくださいよ。私の彼氏って顔がいいのは勿論ですけど優しいし料理もすっごく上手くてホントに人間かって疑うことがあるんです。気が弱いところもあるんですけどいざって時には男らしくて、昨年の夏なんて私を追いかけてきて公衆の面前で愛を――」


「もういいから!」


 あまりの羞恥に耐えかねて強引に抱きしめた。しかし諦めの悪いアリスは胸の中でジタバタしている。


「やだ話したい、彼氏の自慢したいー! こんな話めったにできないもん!」


 その言葉にはっとする。

 モデルという職業柄もあってアリスは凪人の存在を口外できず我慢していたのだろう。

 自分の彼氏がいかに素晴らしいのか、どれほど好きなのか。

 本当はあちこちに言いふらしたいのをぐっとこらえ、時には会えない寂しさも我慢して過ごしていたのだ。


(ふだん我慢している分、デート中くらいは甘やかしてやってもいいのかな)


 意思が通じ合ったのか腕の中のアリスと目があった。

 キスする?と口が動く。


 凪人とて本能のままにキスしたいのは山々だが車内が静かすぎる。明らかに注目されているのが分かった。


「……あとで、こっそりな」


 ぼそっと濁す。その一言でアリスは満足したらしく、鼻歌を口ずさみながら腰に抱きついてくる。


「凪人くんのキスって優しいから好きなんだー」


 まったく。のろけすぎだろう。



『さて車内があまーい空気に満たされたところでバスは広大な果樹園へと入って参ります。こちらでは旬のイチゴ狩りをお楽しみください、甘酸っぱい初恋の味がするかもしれませんよ』

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