67.「おれの彼女だ」

『皆様お待たせしました。バスは高速道路をおりまして国道18号線を北上中、上田市街地に向かって走行しております。こちらは標高が高いためちょうどいま桜が八分咲きで沿道を華やかに彩っております』


 心地よい振動とともにバスが進んでいく。乗客たちは身を乗り出して沿道の景色を楽しんでいた。


「わぁーすごい、初めて来た」


 はしゃぐアリスに窓際の席を譲った凪人は知らず知らずのうちに胃を押さえていた。どうも先ほどから様子がおかしい。嘔吐とはまた違う重苦しい感覚だ。


 じつはバスでの長距離移動は今回が初めてである。


(昔から酔いやすくて遠足も修学旅行も欠席したんだよな。新宿から三時間とはいってもこんなに長く乗っていたの初めてだ)


 酔い止めの薬はちゃんと飲んだ。

 胃の薬もちゃんと飲んだ。

 やるべきことはすべてやった。あとは天に祈るしかない。


「ねぇねぇ桜すっごくキレイだよ!」


 アリスが嬉しそうに腕を引いてきた。

 最初こそ戸惑っていたもののいまやすっかりリラックスして子どものような笑顔で窓の外を見つめている。


「私、ロケバスでの移動はたまにあるけど観光バスでの遠出ってすごく久しぶりなんだ。小中学校の修学旅行は仕事やレッスンで不参加だったから。たまに思い出すのは幼稚園児のころにママやパパやアリサ、園のお友達とバスで動物園に行ったときのこと。バスの中でお歌を歌ったりしりとりゲームしたりチョコやお菓子を分け合ったりしたの。あぁ楽しかったなぁって懐かしさでいっぱいになる。だからバス旅行好きなんだと思う。いまだって胸がどきどきして弾けそう」


 本音を言うとずっと不安だった。

 申し込みを済ませた後も「アリスがガッカリしたらどうしよう」そんなことばかりを考えて昨夜もほとんど眠れなかった。


 けれどここを選んで良かったと心から思う。

 ここにいるのはどこからどうみてもただのアリスだ。

 バス旅行を純粋に、心から楽しんでいるひとりの少女だ。


「ほら、お花見の人がいっぱいいる。あ、ベビーカーの赤ちゃんがこっち見」


 ゴン!


 派手な音がして何事かと身を乗り出すとアリスがおでこを押さえていた。

 どうやら興奮しすぎて窓ガラスに頭をぶつけたらしい。


「大丈夫か!?」


 びっくりして身を乗り出すと、


「いたいー」


 と呻いておでこをさすっている。


「ケガは? ちょっと赤くなってる気がするな……ハッ、ガラス割れてないよな!?」


 アリスも大事だが窓ガラスの方が気になった。傷をつけて弁償なんてことになったらお小遣いだけではとても足りない。


 おでこのせいで白く曇っているが、目を皿にして確認したところ幸いキズは見当たらない。


『ご安心ください。当バスは強化ガラスを使用しており、小さなお子様が身を乗り出しても簡単には割れません』


 すかさずアナウンスが入り車内には笑いが起きた。逆に凪人とアリスは恥ずかしさで体を縮こませる。


「ごめんね、目立つことして」


 申し訳なさそうに声をかけてくるアリスのおでこはまだ赤い。

 なんだか笑えてしまう。自分がモデルだということをすっかり忘れているみたいだった。


「おれは平気だよ。そっちは大丈夫か?」


「……」


 アリスは黙って下を向く。

 心なしか顔全体が赤い。ぶつけたのは額だけのはずなのに。


「ちょっと痛いかも。だから…………して、ほしい」


 ぼそぼそと囁かれた言葉がうまく聞き取れない。凪人は顔を寄せて必死に声を聞こうとする。


「ん? なにをしてほしいって?」


 アリスは益々顔を赤くしていく。

 太股の上で握りしめていた腕を伸ばして凪人の手首を掴んだ。


「だから……『痛いの痛いの飛んでけ』って、してほしい」


「いたいのいたいのとんでけをしろって!!?」


「声おっきい!」


 はっと我に返ったときには車内中の注目を浴びていた。

 すでに孫ができている年代の老人たちにとって初々しいカップルほど物珍しいものはない。しかも大声で「痛いの痛いの飛んでけ」をする・しない口論をしていたら尚更。


『えー……あ、皆様、進行方向右手をご覧ください。上田城跡公園を取り囲むようにして咲き誇る約千本の桜がご覧になれます。この上田城はかの有名な真田幸村こと真田信繁の父・昌幸によって築城され、徳川軍による侵攻を二度にわたって撃退し――』


 ガイドのナイスフォローに感謝しつつ、手を握ったまま離さないアリスの顔を覗き込んだ。口をへの字に曲げてふて腐れている。


(ほんと、しょうがないな)


 あまりの無邪気さに呆れるよりも先に笑ってしまう。

 空いている右手を伸ばしてそっと額に触れた。自分の手の大きさよりもアリスの顔の小ささがよく分かる。


(手じゃだめだ。もっと近くに)


 吸い寄せられるように額と額とを合わせた。

 まさか本当にしてもらえる(しかもおでこ合わせ)とは思っていなかったアリスはひたすら目を瞬かせる。


「悪いけど気が散るから目閉じてくれ」


「う、うん」


 素直に目を閉じたところで呪文をとなえる。


「いくぞ。痛いの痛いの飛んでけ――――。ほらもう痛くないだろう」


 そっと体を離し、最後に手のひらで額に触れてやると満足したらしく「うん」と顔をほころばせる。


「ありがと……。なんか、すごく、ドキドキした」


 潤んだ瞳で見つめられると凪人の心臓も早鐘をうつ。


(キスしたいな)


 バスは座席が隣り合っていることもあり互いの距離が異様に近い。その上目隠しになるものが多いので閉鎖的な空気もあってつい気持ちがゆるむ。


 どちらからともなく唇を寄せ合い、あと少しで触れるというところで――。


(視線!)


 視線を感じて動きを止めた。

 見れば前の座席の隙間から目が覗いている。軽くホラーだ。


「なんじゃ、やらんのかい」


 先ほどまでアレアレ言っていた隣の男性がつまらなそうに吐き捨てる。

 いつの間にかガイドの説明も終わっていて、気がつけば衆人環視の中で公開キスをするところだった。


『あー皆様、本日のメインは桜を観賞することです。若いカップルの観察ではありませんのでくれぐれもお忘れなく』


 ふたり揃って顔を真っ赤にしている間にバスは駐車場に滑り込んだ。




 ちょうどお祭りの時期とあってたくさんの花見客でごった返している。色とりどりの屋台も軒を連ね、辺り一面に香ばしい匂いが漂っている。花より団子だ。


 バスツアー一行は博物館の見学と櫓門の前で集合写真を撮ったあと、三十分後にバスに集合という形で自由散策となった。


「お城といっても本丸は残ってないんだね。なんだか不思議な感じ」


 到着したときからアリスは眼鏡をかけてばっちり変装している。恋人らしく手をつないでお堀の周りの桜を見て回った。


(数年前までは考えられなかったな。こうして混雑の中を歩くことも、バス旅にでることも、観光地に来ることも。ましてや――だれかをこんなに「すき」になるなんて)


 変装しているとは言っても大勢の人間がいる中で手をつないで「普通」にデートしているこの時間がとても新鮮で貴重に感じた。


 目が合えばアリスは微笑んでくれる。


 忙しいアリスは今日のためにスケジュールを調整してくれたのだ。自分にはそれだけの価値がないなんて卑屈な気持ちになっている場合ではない。アリスが用意してくれた時間を幸せなものだけで埋めるのだ。それが使命といってもいい。


「……あ、ごめんアリス。ちょっとトイレに行ってきていいか? すぐ戻るから」


「うん。眞田神社でお参りしているね」


 アリスを残して急いでトイレに駆け込んだ。

 ボディバッグの中から取り出したのは綺麗にラッピングされた小箱だ。今日のアリスの服と同じ淡いピンクのリボンがかかっている。


「よし、ちゃんとあるな」


 現物を確認して丁寧にバッグの中に戻す。今日の目的はデート……だけではないのだ。




「ねぇどこから来たの?」

「一緒に食事しない?」


 眞田神社に向かうと絵馬を手にしたアリスが数人の男性に取り囲まれていた。

 モデルのAliceだとはバレていないようだが腰の高さや足の長さといったスタイルの良さに男たちが群がってきているのだ。立ち姿ひとつ見ても爪先から頭の位置までが一本の線になるような凛とした佇まいで、どうすれば自分がもっともキレイに見えるかという鍛錬を積んできたことが分かる。


 当のアリスはナンパには慣れているらしく興味なさそうに髪の毛をいじっていた。愛想笑いのひとつもない。




 どうしよう。

 凪人は一瞬迷った。




 自分は特別に体が大きいわけではないし顔が怖いわけでもない。相手にすごまれたら萎縮して情けない姿をさらしてしまいそうだ。


(それでもおれはアリスの彼氏なんだ)


 ゆっくりと深呼吸。胃をなでる。大丈夫、いける。

 意を決して男たちに近づいて行く。


 これも演技のひとつだと思えばなんてことはない。

 役にのめり込むのは得意だ。


 意識を研ぎ澄まし深いところまで潜っていく。たとえるなら音も光もない深海に沈むような感覚だ。自分が酸素で呼吸する生き物だと忘れるほど集中した先に、もうひとりの自分が浮かび上がる。




「――どいてくれ」


 自分より背の高い男たちを乱暴に押しのけた。「なんだオマエ」という暴言をものともせず、アリスを背に守る形で相手に向き直る。


「おれの彼女だ。気安く話しかけるな」


 声音も態度も息遣いも普段の凪人とは異なる。

 あまりの迫力に気おされた男たちは捨て台詞もなくそそくさと去っていく。闘わずして自らの敗北を悟ったのだ。


(騒ぎにならなくて良かった)


 ほっと一安心。

 も束の間、後ろから突然羽交い絞めにされて「ぐぉ」と悲鳴を上げてしまった。

 手加減を知らないアリスである。


「凪人くん……ちょー……ちょーかっこいい。惚れ直しちゃったよぉ」


 感激と興奮が相まってぎりぎりと首を絞めてくる。


「あ、あり……ぐるしい……んだけど」


 抱きしめてくる手の中にちらりと絵馬が見えた。

 アリスの可愛らしい字で、



『凪人くんの病気が治って筋肉ムキムキの男らしい人になっていつまでもイチャイチャできますように!』



 と、マッチョな男のイラストつきで願いごとがしたためてある。


 なんと言うか……気恥ずかしい。いろんな意味で。

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