64.私はちょっぴり濁ってる

「あー美味しかった。凪人くんってほんと料理上手だよね」


 マンションまでの道、凪人は自転車を押してアリスの横を歩いていた。

 満月に浮かび上がるふたりの影。頬を撫でる夜風が気持ちがいい。


「べつに難しいことしているわけじゃないぞ。火と水と砂糖と塩の加減さえちゃんとしていば大抵はうまくいく」


「そうでもないよ。私のママは壊滅的に料理が下手でね、たまーに作ってくれてもしょっぱいか味がしないかで全然美味しくないの。「目分量」を「テキトウ」でいいって履き違えているんだよ」


 アリスの母と聞いて一度だけ顔を合わせたときのことを思い出した。

 ニュージーランドと日本のハーフである母は家具のバイヤーとして海外を忙しく飛び回っているらしい。その顔立ちはアリスより鼻筋がくっきりしていて、瞳の大きさも相まってひと睨みされると身動きがとれなくなる。


「私は未成年だから柴山さんがママに今後のスケジュールや掲載雑誌、出演するCMのことを頻繁に連絡してくれているんだけど、いつも『任せます』って返ってくるだけだって。笑っちゃうよね、ぜーんぜん興味ないみたい」


 そう言いながらも笑顔がぎこちない。

 母がいない間、アリスは広いマンションにひとりきりだ。


「お父さんやアリッサは連絡くれたり来てくれたりするのか?」


 離婚しているとは言え以前目にした限り夫婦仲は悪くないようだ。アリッサも姉であるアリスのことを気にしている様子もある。


「あんまり。月に一回『元気?』って報告し合う程度。アリサは基本引きこもりだから仕事以外では外に出ないし、パパはアリサのマネージャー兼プロデューサーだから単独で来日することもないし」


 諦めたような表情に胸を締め付けられる。

 自転車を転がしていなければ今すぐにでも肩を抱いてやりたい。


 どうしたらいいかと考えて思いついたのはこれだった。


「アリス。これ」


 ポケットから片手で取り出したのは自宅玄関の鍵だ。以前にアリスがくれたキーホルダーがついているのでそれを外してから差し出した。


 アリスは宝物でも受け取るように両手に包み込み、ひたすら目を丸くしている。


自宅うちの鍵、預けておく。早朝でも深夜でも構わない。淋しくなったら――いや淋しくなくても、いつでも来いよ」


「いいの?」


「あぁ。ただし事前にメールくらいはくれよ。朝起きてアリスが隣にいたら心臓飛び出しちゃいそうだから」


 牽制すると悪そうな顔で笑った。


「隣にいる私、ハダカだったりして?」


「や・め・ろ」


 互いにクスクスと笑いながらそう遠くはない道を進む。

 もっと話をしたかったがあっという間にマンションについてしまった。

 凪人は一階の管理人室に自転車を預け、部屋まで送っていくことにした。


「ただいま! なんてね」


 玄関扉を開けると身震いしたくなるような闇が押し寄せてきた。

 桃子が待っている家に慣れた凪人にとって、無人の家ほど不気味なものはない。


 けれど孤独という名の冷気に包まれたアリスはなんてことない様子で電気をつけ、靴を脱いで上にあがった。もう慣れたとばかりに。


「送ってくれてありがとう。お茶でも飲んでいく?」


 長居したいのは山々だが時刻は九時すぎ。明日も学校がある。


「いや、帰るよ。おやすみ」


 手を振ってきびすを返した瞬間、唐突な足音とともに後ろから服をぐいっと引っ張られた。


「ちょっなに…………アリス?」


 先ほどとは打って変わって深刻そうな表情を浮かべている。


「さっきは桃子さんたちがいたから言わなかったけど、私、キスされたの」


 凪人は沈黙した。

 言葉が出てこなかったのだ。


 アリスはおずおずと自らの唇に触れる。


「相手は来島くん。不意打ちで、無理矢理だったけど――でも私、ほんの一瞬、一瞬だけ、うれしいって思っちゃったの。小さかったころの、レイジが大好きだったころの自分が急に顔を出して『憧れのレイジにキスされた』って飛び跳ねた。でもすぐに『こんなの良くない』って我に返って、彼を突き飛ばした」


 所々つっかえながら吐き出される言葉。

 小刻みに震えるアリスの腕。


「こんな……こんなこと言ったら凪人くん私のこと嫌いになるかもしれないと思ったけど、隠していたらやましいことをしていたみたいで、苦しくなると思って、だから謝りたかったの。ごめんなさい」


 キスしたと告白されなければ凪人はなにも知らないままだったろう。心に波風立たず、穏やかにアリスとの日々を過ごせたはずだ。


 けれどアリスは自分を許せなかった。だから嫌われる覚悟で罪を告白した。


「ごめんね。私キレイでいたいのに。凪人くんだけを好きな、まっしろで純粋な自分でいたいのに、こんなふうに濁った恋をしてしまってごめんなさい。だからどうか嫌いにならないで――――おねがい――」



 どくん。

 言葉にならない感情があふれた。




「……なぎと、くん?」


 気がついたときにはアリスを抱きしめていた。

 悲痛な訴えを丸ごと受け止めるよう、強く、熱く、胸に抱く。


「なんで謝るんだよ、許すとか許されないって話ならおれも同じだ。おれだって前に福沢と付き合っていたし一回だけキスもした。濁っているんだ。これまでアリスがいろんな男と付き合っていたことも知っている。構わないと思った。いま腕の中にアリスがいる。それが答えだろう」


 「好き」は決してキレイなものじゃない。

 凪人は福沢、アリスは複数人。いろんな相手の感情を揺さぶり、揺さぶられてきた。

 その結果いまのふたりがあるのだ。


「私のこと……好きでいてくれる?」


 おずおずと背中に手を伸ばしてくるアリス。凪人も同じように抱き返した。


「あぁ好きだよ。不安なら何べんでも言ってやる。――好きだアリス。大好きだ」


 眼鏡を外してキスをした。

 互いの想いを確かめ合うような長いキスを。


 熱い吐息をもらすアリスから少しだけ体を離し、囁くように問いかける。


「来島に、どんなキスされたんだ?」


「なんでそんなこと訊くの?」


「だって悔しいから。同じことする。上書きしてやるんだ」


「……よくばり」


 笑われた。


「じゃあ私も。福沢さんとキスしたって初耳だったけど、どんなキスしたの?」


「あっえっ? それは……もう、一年近く前のことで……」


「だーめ。私も上書きしたい」


 そんなこんなで凪人が帰宅したのは十一時前。

 腫れた唇を目にした桃子は「明日寝坊しないようにね」と笑顔でたしなめるのだった。




 ※




「首輪にリード、ゲージにトイレシーツにドッグフードにおもちゃ。犬を飼うって大変なんだねぇ」


 木曜日。学校帰りの凪人は約束通り福沢の買い物に付き合っていた。

 両手に提げている袋の中には取り急ぎ必要な首輪やドッグフードが入っている。ちなみに凪人の買い物はクロ子用のおやつだけだ。

 福沢は店員にあれこれ相談しながら一時間半もかけてやっと必要なものを買い揃えた。


(話には聞いていたけど女の買い物って長いんだな……)


 教えてくれたのは国見だった。

 あれ以来いつの間にか昼食の席に混ざってくるようになり、女性と付き合うことの大変さをレクチャーしてくれるようになった。


『――いいか黒瀬。女の買い物が必要以上に長いのは宿命というより本能に近い。もしうっかり『遅い』とか『早くしろ』『なんでもいい』なんて口を滑らせてみろ、たちまち逆切れする。態度に出してもダメだぞ。誤った対応をした場合、機嫌を直すためにはパフェとかパンケーキとかタピオカを進呈しなくちゃいけないがそこらの安物じゃだめなんだ。行列に並んででも有名な店に行かなくちゃならない。長い長い行列の果てにようやく中に入れてもインスタだ映えだなんだってそれこそ買い物の数倍はかかる。そこでやっと後悔しても遅いんだ』


『ところで国見はなんでそんなに詳しいんだ?』


『おっそろしい姉がふたりもいるからだよ。いやでも鍛えられる。あーおれも他校生で美人で胸のおっきい彼女が欲しいなー』


 つまりは愚痴りたいだけらしい。

 国見のアドバイスそのものはよく理解できたが、それを福沢の前で言うのはどうなのだろう。当の福沢はスマホを見ていてちゃんと聞いていなかったようだが。


「あ、ねぇあそこのカフェ寄って行かない?」


 少し先にある店を指し示した福沢はすでに行く気満々になっている。

 もしや機嫌を損ねたのか、と警戒していると「大丈夫、付き合ってくれたお礼に奢るから」と満面の笑みが返ってきた。


 ガラスに囲まれた店内はやわらかな間接照明と適度な薄暗さで落ち着いた空気が流れていた。他店のカフェに入るのは数える程度だが、テキパキと動くスタッフや流れるような手順、机の配置やBGMなど見るべき要素も多い。メニューは比較的シンプルだがコーヒー豆にこだわっているのが見て取れる。


「ターゲット層は社会人なのかな。うちの店とはだいぶ雰囲気が違う」


 運ばれたコーヒーに舌鼓を打ちつつ、つい周囲を観察してしまう。

 客の多くはスーツを着た大人たちで、各々好きな場所でスマホや本を読んでいる。とても静かだ。


「『黒猫カフェ』はファミリー向けだもんね。あたしみたいな高校生はこういうお店は気後れしちゃうけど、だからこそお忍びデートには打ってつけだと思わない?」


 にやりと笑った福沢は店のことを事前にリサーチしていたようだ。


「有名なモデルがいて騒ぐのって基本的に若い子たちなんだよね。だからデート場所の年齢層を把握していれば選びやすいのかなって。あたしがお膳立てしてもつまらないだろうからあとは凪人くんが頑張って調べてよ」


「分かった。ありがとうな」


 あんなに手ひどく振ったのに自分たちのことを第一に考えてくれる。それだけで胸があたたかくなった。


「よし、じゃあどこがいいかな。アリスが好きそうなのは――」


 ふと、視線を感じた。

 店の扉を開けて入ってきたのは若い女性。自分たちと同い年くらいだろうが、着ている服は白いシャツに紺の膝丈スカートという私服だ。なんてことはない格好だがスタイルがいいので目を惹く。

 濃い色の眼鏡をしているが傍からでも整った鼻梁が見て取れ、市松人形のような黒髪が胸元まで垂れていた。


「ねぇ」


 突然福沢が体を寄せてきた。ひそひそと耳元で囁く。


「あの人もしかして新妻愛理じゃない?」

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