62.ナゾとウソ
「ありがとうございましたー」
夕方五時五十五分。『黒猫カフェ』の客がほぼ同時に引き上げた。
最後の客を見送りに出た凪人は客の後ろ姿が見えなくなってもしばらくその場に佇み、きょろきょろと辺りを見回す。
テーブルの片づけをしていた福沢がたまらず愚痴った。
「店長、なんか今日凪人くん落ち着きがないんですよ。お店のドアベルが鳴るたびに過剰に反応しちゃって。まるでだれかを待っているみたいに」
「いやね七海ちゃん。待ち人と言ったらひとりしかいないでしょう?」
本人に聞こえていると承知でわざと大声で会話するふたり。店内に戻ってきた凪人は気まずそうに訂正した。
「べつにおれはアリスを待っているわけじゃないからな」
「やっぱりアリスちゃんだったのね」
「うっ」
「凪人くんって自覚している以上に顔に感情出やすいから気をつけた方がいいよ」
「う、うるさい……」
精いっぱい強がってみても図星だった。
『レイジがいた』というメールの内容が頭から離れない。未だにアリスからの返信はなく、いっそマンションまで押しかけようかと考えていた。
「閉店まであと五分あるけどCLOSEにしちゃっていいわよ。少しでも早くアリスちゃんのところに行きたいでしょう?」
母親の勘とでも言うのだろうか、桃子はなにもかもお見通しだ。凪人はいつまで経っても敵わないと自覚する。
すると福沢が意外なことを口にする。
「でもこういう閉店間際に奇妙なお客さんが来るかもしれませんよ?」
「なになに、奇妙なお客さんって?」
桃子は興味津々で身を乗り出す。
「この前見た『黒猫探偵レイジ』がそういう話だったんです。毎週水曜日、閉店五分前に来てコーヒー一杯だけ飲んでいく奇妙なお客さんの事件」
「会社帰りだったんじゃないの? それなら時間帯が同じでも不思議じゃないわよね?」
「それが頭から爪先まで全身黒ずくめなんですよ。マスクとサングラスをしているので人相もわからない。コーヒーを飲むときは決まって窓際のカウンター、奥から二番目。それからしばらくして、近所で連続放火事件が起きたんです。なんと、窓際のカウンター席から見える場所からいつも火の手が上がるんです。つまり放火魔が自分の犯行を確認しているんじゃないかってレイジは疑うんですね」
「それでそれで? お客さんが犯人だったの?」
「じつは……」
福沢は表情を曇らせる。
「これから種明かしってときに友だちから電話がかかってきて結末を見られなかったんですよ。いま特別セレクションって銘打って順不同で放送しているので何話なのかも分からなくて」
「それは残念ね。――ねぇ凪人は知ってる?」
母に言われる前から凪人も考えていた。
しかし考えていたのは「黒ずくめの客の目的」ではない。
「なぁ福沢、それ本当に『黒猫探偵レイジ』のエピソードか? 他のドラマと混同してないか?」
「当然じゃん。オープニングはちゃんと見たし、黒猫が生意気に喋るドラマなんて他にないよ」
「そう、だよな」
凪人はレイジを演じていた。
300話ほどあるすべてのエピソードを覚えているわけではないが、いまのように印象的な事件なら大よその台本を思い出せるはずだった。
けれど。
「……憶えてない」
黒ずくめの奇妙な客。放火事件。
点と点がまったく自分の中でつながらない。
「仕方ないよ、本放送は随分と前だしね。大丈夫、ちょっと気になっただけだから」
「悪いな。本当になにも思い出せないんだ」
「いいのいいの。あ、そういえばドラマを何話か観ている内に気づいたんだけど、主役の小山内レイジ、すこし変じゃない?」
変。と言われた瞬間どきりと心臓が跳ねた。
また自分のことを言われるのではないかと思ったのだ。
しかし福沢が指摘したのは予想だにしないことだった。
「なんとなくだけど顔がちがうような――」
チリリン、背後でドアベルが鳴った。
凪人はハッとして振り返る。
「いらっしゃいま……うわっ」
イノシシのごとく飛び込んできた客はそのままタックル……もとい抱きついてきた。あまりの勢いに尻もちをつく凪人をよそに、客は大声で叫ぶ。
「あんなやつ、絶対に絶対にぜーったいにレイジじゃないんだから!!!」
言わずもがな、アリスだった。
※
「ふぁー。やっぱりここのエスプレッソおいしー」
コーヒーを飲んだアリスは落ち着きを取り戻し、ソファーに背中を預けておおきく息を吐いた。凪人はその隣で一部始終を聞いたところだ。
自らを「小山内レイジ」と認めた赤髪の同級生、来島怜史のことを。
「で、そいつは確かに『レイジ』だと認めたんだな」
「でも私は絶対に納得しないんだから!」
顔をしかめてムキになるのは心のどこかでレイジだと認めている裏返しでもある。
アリス曰く、凪人からのメールには気づいていたが昼間からずっと悶々としていて、返信すべき言葉を見つけられなかったらしい。整理のつかない頭で感情の赴くままに書いたら凪人を戸惑わせると思い、だから直接会いに来たのだという。
いずれにせよ本物のレイジである凪人としては複雑な心境だ。
(なんでそいつは嘘をついたんだ? いや、本当に嘘なのか――?)
先ほど福沢が言った事件。
凪人はそれを知らない。
単純に忘れているだけならいいのだが、どうにもスッキリしない。
子役時代は毎回欠かさず放送を見ていた凪人だったが、芸能界から身を引いて以降、嘔吐の症状もあって極力視界に入れないよう心掛けていた。
母が朝に視聴するようになったのも凪人が高校に入ってからだ。
最初はなんの嫌がらせかと思ったが、いまにして思えば過去と向き合って欲しいとの思惑があったのだろう。そうしなければ本当の意味で前に進めないと知っていたのだ。
(顔がちがう? そんなことありえるか?)
一度きちんと全編を見てみる必要があるな、などと考えていると、
「そんな深刻そうな顔しないで」
自分との関係を不安に思ったと勘違いしたアリスが声音を変えた。
マグカップを置いたその手を凪人の手の甲に重ね、そっと握りしめる。
「私はレイジのファンだけどLikeとLoveはちがう。凪人くんの方が百倍好き」
「ひゃくばい?」
どこから出てきた数字だろう。
「じゃあじゃあ一億倍でどう? それなら信じてくれる?」
どこか必死な様子のアリスは不安にならないようにと自分を気遣ってくれているのだと分かる。
こそばゆいような気持ちになり、アリスに触れられていた手を翻して柔らかな手を包み込んだ。
「知ってるよ。アリスがおれにぞっこんだってこと」
ぞっこん。
口にしてみるとちょっと恥ずかしい。
けれどアリスも恥ずかしそうに肩をすくめる。
「私も知ってるよ、凪人くんが私にぞっこんだってこと。ぞっこん同士だね」
互いに視線を合わせて微笑んだ。見慣れたものとは違う制服姿のアリスはどこか新鮮であり、また、可愛い。
肩にかかるやわらかそうな髪に触れてみたい。
マグカップに口をつけてグロスが剥がれた唇に触れてみたい。
あぁ自分はこんなにもアリスのことが好きなんだな、と思った。
「てんちょーぅバカップルがいまーす、もう見ていられませーん」
カウンター席でまかないのケーキを頬張っていた福沢がたまらず非難の声を上げる。
「青春ねー。わたしも若い頃を思い出してキュンキュンしちゃう」
まんざらでもないように頬を染める桃子。福沢は呆れ顔だ。
外野のことを完全に忘れていた凪人たちは慌てて体を離した。互いにあさっての方向を見つめて体のほてりを鎮めるのに必死になる。
「ねぇところでアリスちゃん。その彼、名前はなんといったかしら」
「来島くんです。来島怜史。レイジじゃなくてサトシと読むそうです。芸能コース在籍なので小山内レイジで間違いないと思うんですけど……知り合いですか?」
芸能コースは芸能事務所の推薦と審査を経て入るコースだ。当然実績も考慮される。そこにいる以上、ある程度のメディア上の露出があると考えて間違いない。
「いいえ。でも来島といったら来島小夜子を思い出すわね」
だれ? とばかりに二人は顔を見合わせた。
凪人は芸能人そのものに興味がないし、アリスもモデルを中心とした知識しかない。
ただひとり食いついたのは福沢だ。
「『
「そうそう。国内の賞をほぼ総なめにした映画ね。来島小夜子は主演女優として随分もてはやされていたのよ。わたしとそう年の違わない年下の女性だと知ってびっくりしたことを覚えているわ」
福沢はスマホで検索した『来島小夜子』を読み上げる。
「なになに、『極夜』のヒット後、二十歳で大企業の御曹司と授かり婚をして、三年後に離婚。当時の恋人を追って海外へ移住、テレビへの露出は極端に減る。その後も次々と恋人を作っては別れてを繰り返し、いまでは消息不明。精神科病院に入院しているとの噂もある。……たしかに二十歳で産んだ子どもはあたしたちと同い年になりますね」
「大女優の息子なら芸能コースに入っていてもおかしくないわよね」
桃子が放ったセリフは他でもない凪人に向けたものだった。母として息子の不安を感じ取っていたのだ。
(母さんの言うことは納得できる。だとしたら来島はどうして?)
考えながらも自然と視線を向けていたのはアリスの顔だ。本人は不思議そうに顔を傾ける。
「なに?」
「いや、なんでもないよ」
そう微笑んでみせたが、心の中は晴れない。
(やっぱりアリスはレイジが誰なのか気になるんだな)
ファンではあっても恋心はない。
それは真実だろうが、どうでもいいとは思っていない。自身がモデルとして芸能界に身を置いているため、手を伸ばせば情報が掴めるかもしれないという心理もあるのだろう。
ただ凪人としては……正直、面白くない。大好きな彼女が他の男を気にしていることが。
自分のことだけを見ていてほしい。
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