58.あとどれくらい好きになってもいいの?
「――――行っちゃった、ね」
静まり返った教室に、後片付けをする福沢と凪人だけが残った。
アリスはつい先ほど柴山の車で去っていった。見送りに出た大勢の生徒たちは名残り惜しそうにグラウンドに残っていたが、しばらくしてそれぞれ帰途についた。あの男子生徒の姿もある。
「結局あの人はなにしたの?」
「アリスの席で見つけた落とし物をすぐには返さなかっただけだよ。記念品として自分のものにでもするか、あるいは後日会う口実にでもしたかったんだろうな」
「それ泥棒って言わない?」
「盗まれた相手が泥棒って言わなければ、ただの善良な拾い人じゃないか」
「そうかもしれないけどさ。……あの人、たしか不登校の人だよ。進級できなくて来月三年生になるはず。兎ノ原さんに会いたくて出てきたのかな」
「へぇ、引きこもりを引っ張り出すなんてすごいなアリスは」
自分のことのように喜ぶ凪人。
福沢は拗ねたように唇を尖らせる。
「でもいいの? ずいぶんあっさり別れたけど、もうここでは会えないんだよ」
「時間を作るよ、いくらでも。時には学校を休むかもしれない。それくらいの覚悟がなくちゃアリスの彼氏なんて言えないだろう」
「あっそ。好きにして。あたし帰るから、またお店でね」
心底あきれた様子で教室を飛び出していく。
ひとり残された凪人は自分の席にゆっくりと腰を下ろした。
空っぽになった隣席を見つめていると、彼女との思い出が次々と蘇ってくる。
『私、あなたに一目ぼれしていたみたい』
それが彼女との奇妙な関係の始まりだった。
彼女――ミルクティー色の髪にターコイズの瞳を輝かせる現役高校生モデルのA。
『これからよろしくね、黒猫くん。いろいろと』
出会った当初は炎上モデルと揶揄されていたアリス。
いまや中高生から絶大な人気を誇るタレントだ。
肩を並べて授業を受けた回数はそれほど多くはない。
けれど、どんなに遠くに行ってもここに帰ってくるのだと思うと不安はなかった。
(もう、いないんだな)
仕事をする中では凪人には想像すらできないような苦労や精神的ストレスを受けることもあるだろう。
それなのに、いつだって笑顔を絶やさない。アリスの口から出てくるのは前向きな言葉ばかり。
(福沢にはああ言ったけど、おれはアリスの彼氏でいいんだろうか。彼氏として相応しいんだろうか)
ふと疑問が浮かぶ。それはいまに限ったことではない。
アリスという大きすぎる存在を前に、自分は無力だ。
受け止めきれないことも多い。
いつか捨てられてしまうんじゃないか。
もっと相応しい相手のところに行ってしまうのではないか。
そのとき自分は祝福できるだろうか。
アリスのためならと身を引けるだろうか。
それとも、子どもみたいに駄々をこねて引き止めるだろうか。
「なぁアリス。アリスはおれのこと、どう思ってる?」
答えはない。
――――はずだった。
「好きだよ?」
拍子抜けするくらいあっさりと返事があった。
教室の戸口に佇んでいるのはアリス本人だ。
「なんでここに!?」
「嘘ついちゃった、本当のフライトは夜なの。だからUターンしてきたんだよ。あ、柴山さんは車の中で寝てます」
そう言って自分の席に座り、ふわりと体を傾けてくる。
甘い匂い。お気に入りのシャンプーだ。
「さっきのなに? あんなの聞き逃せないよ?」
聞かれていたかと思うと無性に恥ずかしくなってくる。
「た、ただの独り言だよ。アリスはどれくらいおれのこと好きなのかなって」
「愚問だね。凪人くんがいなくなっても心臓が動いていれば生きていられるけど、凪人くんがいないなら私も死んじゃおうって真剣に思うくらい好きだよ」
びっくりするくらい重かった。
「お、おおげさ……」
「じゃあどんな返事が良かったの? 言いなおすからもう一回聞いてよ」
「いや、もういいよ。よく分かったから」
「良くない。電話やメールだって毎日したいし、道行く人たちに『私の彼氏です』って紹介して回りたいし、なんならテレビや雑誌の取材で言いふらしたいくらい好き」
嬉しい。
けれど、恥ずかしい。
何度言われても「好き」は慣れない。
「凪人くんは違うの? ほらさっきの寄せ書き」
「なんだよ『またな』って書いただけだろ」
福沢も思わせぶりな笑い方をしていたが、ごく当たり障りのないことを書いたつもりだ。
「ちがうよ、名前。他の男子はみんな苗字だけかフルネームなのに、あなただけ『凪人』って書いてあった。それだけ親密な間柄だってみんなにアピールするつもりだったんじゃないの?」
「えぇ……」
思い返せばそうだ。
たしかに名前だけを書いた。まったく無意識に。
愕然としている凪人を横目にアリスはため息をついた。
「なによー、期待したのに」
アリスはふてくされたまま腕を絡ませてきた。ぐっと距離が近くなる。
「そんなんだから時々、不安になっちゃうんだよ」
「不安?」
「うん。恋愛ってバランスだと思うの。お互いが同じくらいの比重で寄りかかっていれば倒れることはないけど、私は好きすぎる気持ちが強くて、いつか凪人くんの負担になるんじゃないかって。それで考えるの。もし――フラれたら、私、息できるのかなって、普通でいられるのかなって、考えるだけで怖い。きっと凪人くんのこと思い出していっぱい泣くだろうし、仕事もやめちゃうかもしれない。もしかしたら理性を失ってストーカーまがいのことをしでかすかもしれない。そんな自分が恐ろしくてたまらないのに、好きなのは止められない」
そこで言葉を切り、まるで機嫌を窺うように上目遣いになった。
ターコイズの瞳が一層輝く。
「……ねぇ私、あとどれくらいなら凪人くんのこと好きになってもいいの?」
切なげな眼差しにぐっと胸が締め付けられる気がした。
(おれのせいだ。おれが安心させてやらないから)
前のめりなまでの愛情を真正面から受け止めてやればいいのに、気恥かしさを理由に逃げていた。だからアリスは不安になって、ひとりで抱え込んでしまった。
「おれ……好きになるよ。アリスのこともっと好きになる。同じくらい重たい気持ちで支え合えば、倒れることはないだろう」
「ほんと? それなら私はもっともっと大きくするね。この学校くらい」
「ならおれは恐竜くらい」
「え、じゃあ私は東京タワー」
「なにを、サンシャインだ」
「スカイツリー」
「じゃあおれはドバイの、ええと……とにかくもっともっともっと……」
競い合うように手を伸ばしたところで、大笑いした。
腹を抱えてひとしきり笑いあったあと、どちらともなく抱き合う。
「こうするの、久しぶりだね」
そうだな、と答えるかわりに桃色の唇を奪った。
会えなかった時間を埋める、短いキスを。
「祝、教室での初キスだね」
「なに言ってるんだか」
「不思議なんだよ。イヤなこととか辛いことがいっぱいあったはずなのに、キス一回で全部どうでも良くなっちゃう」
「おれもだよ。頭の中まっしろだ。昨日までアリスが元の学校に戻ったら捨てられちゃうんじゃないかって怯えていたのに、いまはどうでもいい」
「そんなことあるわけないじゃん。芸能人の集まりと言ってもふつうの学校と変わらないよ。一般的に知られているキャラとの違いでびっくりすることはあるけどね、秀才キャラがテストで赤点とったり、運動好きって謳っているのに徒競走ではいつもビリだったり。変わらないよ、みんな人間。結構みんな仲良しなんだよ?」
「なら良かった、安心した」
「そう、安心して。私が本気で好きになったのはレイジと凪人くんだけだから」
話してみればなんということはない。
心の内に抱いていた氷塊も一瞬で溶ける。
「……ねぇ」
くい、と袖を引かれた。
間近にあるターコイズの瞳は心なしかうるんでいる。
「うん」
凪人は先ほどより少し乱暴に抱きしめて二度目のキスをした。
アリスは背中に手を回して応えてくれる。
「ん……」
舌先が熱い。
まだ足りない。
もっと欲しい。そんな欲が芽生えてくる。
「ちょ、ちょっと待って!たんま!」
なにかを察したアリスが焦って腕を外そうとする。しかし凪人は放さなかった。
「ヤダって言ったら?」
「ここ教室!とにかく落ち着いて。どうどう」
そうなだめられ、仕方なく体を引いた。
アリスは制服の乱れを直しながらどこか不安そうに口を開く。
「あのね、話、全然ちがうんだけど。ウチのママ、相変わらず海外を飛び回っているんだ。だから桃子さんにいろいろ相談するの。冷え症のことやダイエットのこと、あと生理痛のこととか。男の人にはピンとこないかもしれないけど、桃子さんも昔はかなり重かったんだって。凪人くんを産んだら随分良くなったって教えてくれた」
「え、もしかして子どもが欲しくておれに迫ってきたのか?」
「バカッ、そんなわけないじゃん」
半分怒ったように肩を突いてくる。
しかし顔の赤みはなかなか引かない。
「桃子さん言ってたよ。ふたりが本気なら付き合うのも結婚も大歓迎。だけどお節介を言わせてもらえばちゃんと段階を踏みなさいって。もし望まない妊娠をしたら自分も子どもも周りも不幸になるから、先延ばしにしないでしっかり考えなさいって。あ、もちろん桃子さんがそうだったってことじゃないからね」
なんだか現実味のない話だが、結婚するとはそういうことなのだ。
なんのリスクもなく男女が一緒になれるはずがない。
ましてやアリスは売れっ子モデル。事務所としても大きな期待を寄せていることだろう。軽はずみな行為でアリスの人生を台無しにしたくない。
「――じゃあさ。段階を踏もう」
凪人はそっと手を握った。
「まずはコミュニケーションだ。もっと話そう、もっと言い合おうぜ、お互いの気持ち。おれは聞きたい。仕事のことや前の学校のこと、アリスのことをもっと知りたいんだ」
「私も――私もね、凪人くんがどれくらい私にラブなのか知りたい!」
アリスもぎゅうっと握り返してくる。
「あー……それは」
「ちょっと!ドバイになるんじゃなかったの!?」
それから二人は日が暮れるまで話していた。
離島での仕事、お店での様子、前の学校の友人のこと、黒猫クロ子の可愛さ、次から次へと話題が出てきて喉の渇きも忘れて語り合った。
柴山がしびれを切らして迎えにくるまで、ずっと。
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