57.おれの大切な人

 ポケットの中をひっくり返し、引き出しをのぞき、膝をついて床まで探している。


「ない、ない、ない、どうしよう、ないよ」


 周りにいた生徒たちは何事かと目を瞠る。


「待ってなにがないの? 落とし物?」


「すごく大事なもの。ポケットに入れていたのに、ない」


 生徒たちも慌ててしゃがみこんで周りを見るが「落とし物」らしきものは見つからない。埒が明かないと踏んだ福沢がアリスに詰め寄る。


「落とし物はなに? 大きさは? 形は? 特徴は?」


 矢継ぎ早に問われたアリスは一瞬だけ凪人を見た。


「……ゆびわ、なの。黒猫のアクセントがついた、小さな指輪」


(あれか!)


 昨年、キーホルダーのお礼にと凪人からアリスにあげたものだ。アリスはとても喜んで、肌身離さず持ち歩いている。

 仕事や学校では目立つので柴山に預けたりポケットに入れたりしていると聞いていたが。


「どうしよう……あれがないと……」


 アリスの瞳には涙がたまっている。

 千円程度の安い指輪をそこまで大切に想ってくれているなんて。

 じわりと熱い気持ちがこみあげてきて、気がつくとアリスに詰め寄っていた。


「タイムリミットまであとどれくらいだ?」


 アリスは若干面喰いながら凪人の顔を見上げる。

 クラスメイトたちの前でこんなにハッキリと喋ったのは初めてだった。


「あ……あと二十分くらいしたら柴山さんが迎えに来てくれると思うけど、――黒瀬くん?」


「撮影した場所を手当たり次第見てくる。アリスはここで待っていてくれ。必ず見つけるから」


 そう告げて廊下に飛び出した。


 うっかり呼び捨てにしてしまったことに気づいたが、もうどうでもいい。

 いまは指輪だ。なんとしてでも見つけてやりたい。

 自分があげたからじゃない、アリスが大切にしている指輪だからだ。


 最初の撮影場所である玄関で這いつくばっていると数人の同級生たちが合流してきた。


「黒瀬くんこっちは見たの?」


「いや、そこはまだ」


「簀子板の下って可能性もあるね。スマホの灯りで見えるかな」


「どかしてみたほうが早いよね。黒瀬くん、手貸して」


 協力して簀子板を動かす。土埃が舞って喉が痛んだが、だれひとり文句を言わなかった。


 なんだか不思議な感覚だった。

 この一年間、下手したら一言も話したことのない同級生たちと協力して指輪を捜索している。まるで昔からの友人のように言葉を交わして。


(きっと、おれが勝手に壁を築いていただけなんだ)


 傷つくのが怖くて逃げていただけなのだ。


「ねぇこれなにー」


「ただのキーホルダーだね。だれかの落とし物かな」


「下駄箱の上に箒が置いてあったよ。三年生が掃除したあと忘れていったのかな」


「ねぇこの傘さー」


 本来の趣旨から脱線してしまうのはよくあることだ。


(ここにはない、か)


 つねにアリスの姿を追っていた凪人はアリスが歩いたルートを正確に辿り、目を皿にして足元を見つめていたがそれらしいものは見当たらなかった。


 ポケットから転がり落ちたものを誰かが見つけてなんとはなしに下駄箱の上に置いたことも考えて確認してみたが、三年生たちによってピカピカに磨き上げられた場所には何もない。


(思い出せ。アリスがポケットに触れたときを)


 ポケットから落ちるとしたら理由があって手を入れたとき。あるいは意図的に誰かが手を突っ込んだとき。


(そういえば、アリスは撮影前に自分の席で化粧直ししていたな。三年生たちがなだれ込んできたから焦ってて、ビューラーを取り落とした。体を傾けて拾っていたっけ)


 ポケットは案外深い。

 だれかに手を突っ込まれたならさすがにアリスも分かるだろう。

 だとすれば、ポケットの中にある他のもの(たとえばティッシュペーパーやあぶらとり紙)をとろうとしたときに一緒に出て転がり落ちてしまった可能性が高い。


(でも教室にはなにも――……)


 考えあぐねる凪人の視界を、ふと人影が横切った。


 その瞬間なにかが繋がる。


「待ってくださいッ」


 空気を裂く声。

 それは無意識に発していた「人を引きつける」声だった。

 周りがハッと振り返るほどの。


 しかし凪人は無我夢中でその人物に駆け寄り、そして、手を差し出していた。


 あの、男子生徒に。


「あなた、知りませんか? アリスの……おれの大切な人の指輪を」



 ※



「この時間じゃもう見つからないかもね」


 教室に残っていたのはアリスと福沢の二人きりだった。もう何度も見ている場所をつい探してしまう。福沢は教壇の下を重点的に見ていた。


「その指輪ってそんなに大切なものなの? 形見とか?」


 アリスは小さく首を振る。


「――形見じゃない。でも、私の心の拠り所なの。つらい仕事も、会えないときも、声が聞けないときも、それを見て頑張ってきたの」


「なるほどね、凪人くんからのプレゼントか」


 教壇の向こうからひょいと顔を出した福沢はどこか興醒めしたような顔をしていた。嫉妬まじりの。

 対するアリスはびっくりして目を瞬かせる。


「私たちの関係知っているの?」


「知らないの? あたしも一度凪人くんと付き合っていたことがあるんだよ。ま、ほんの二週間くらいだけどね。二股している自分を振って欲しいって頼まれて別れてあげたの」


 アリスはしばらく瞬きを繰り返していたが、「あ!」と指さした。


「もしかして――福沢さん?」


「ちょっと! いままでなんだと思ってたの!!」


「同じクラスのなんとかさん」


「福沢! 福沢七海! もう絶対忘れないでよね!」


「はぁい」


 ひとしきり言いあったあとでお互いにケラケラと笑い出した。

 アリスにとっては同級生とこんなふうに言いあうのは初めてだったからだ。


「福沢七海ちゃんね、分かった。もう忘れない。……あなたはまだ凪人くんのことが好きなんだね」


 教壇に腰かけていた福沢はプイと視線を背ける。


「教えない。それより前から聞きたかったんだけど兎ノ原さんは彼のどこを好きになったの?」


 アリスはにっこり微笑んで、


「顔」


 即答した。

 福沢は思わず渋面になる。


「もうちょっと他に言いようはないの? 優しいところ、とか、料理がうまいとか」


「だって事実だから。いまさら隠す必要もないと思うけど、私に対して『好きだ』って言い寄ってくる男の人なんて飽きるほどいたの。同時に何人もとやりとりしていたから最初のうちは顔の特徴や口調や癖をひとつひとつメモしてメールもその都度見返していたけど、そのうち名前も顔も覚えきれなくなって、メールも定型文しか返さなくなった。通知も切った。愛想を尽かして去って行く人も多かったけど、雑草みたいに次々と現れるから特に困っていなかった」


 アリスが雑誌に露出をはじめたころの好戦的な目つきを思い出し、福沢は大いに納得した。「ビッチ」「魔女」そう揶揄されるだけの魅力があったのだ。


「軽蔑するでしょう? 分かるよ、その気持ち。でも駆け出しのモデルって職業柄、同性の好感度よりも異性のお金を優先するときがあったの。いま思うと寒気がするけど、周りのことなんて見えていなかった」


 誰かを蹴飛ばしてでも目立たなくては、どんな汚い手を使ってでも這い上がらなければ、そんなふうに焦っていた時期があった。

 ちょうど妹のアリッサが映画に主演したころだ。


「ある時ちょっと辛いことがあって、当時いい雰囲気になっていた人にぽろっと言っちゃったの。『仕事きついからやめちゃおうかなー』って。もちろん本気じゃなかったけど、ちょっと弱気になっていたの。その人は在学中に企業した大学生で、冗談まじりにこう言われた。『モデルやめたらオマエなにも残んねーじゃん』って……」


 あまりにもあっさりと、なんの逡巡もなく吐き出された言葉だ。

 まちがいなく本心だろう。


 その言葉を聞いた瞬間、アリスの中でなにかが壊れた。


「すごくショックだったけど、でも、同時に納得したの。腑に落ちた。私に近づいてくる男の人たちはモデルのAliceを自分の付加価値(コレクション)に加えたいだけなんだ。この大学生も、駆け出しのモデルに先行投資しただけだって。そんな相手を引き寄せてしまったのは私。目の前にいるのは赤の他人じゃなくて――自分自身の鏡。醜悪な私をこんなにもはっきりと映し出している」


 アリスの告白を真剣な顔つきで聞いていた福沢は、あまりの重さに息切れするようにため息をついた。


「……それ、いつのこと?」


「一年くらい前。中三の冬」


「もう悟ったんだ。オトナだねー」


「ううん、子どもだよ、横っ面を引っぱたかれるまで自分に非があるなんて一ミリも思っていなかったんだもん。だからストーカーに狙われたときはとうとう罰が当たったと思ってた。ちょうどその頃ある夢を見ていたの」


 あの頃を思い出すといまでも背筋が寒くなる。


「とある週刊誌に訃報が載っていたの。私の。見知らぬ男の人に刺され、出血死。ぶっさいくなおじさんが数億円はたいて遺骨を手に入れたって記事だった。私はまだ生きている!って泣きながら目を覚ましたその日だよ、駅のホームから突き飛ばされたのは」


 あのとき、背後から異様な気配を感じていた。

 かすかに息を乱し、しきりに名を呼ぶ男の存在に。



 ――Aliceちゃん、Aliceちゃんぼくだよ。Aliceちゃん、こっちを向いてよ。



 少しずつ大きくなる声。

 怖くてたまらなかった。

 なにをされるのかと不安だった。


 けれど叫べなかったのだ。


 「モデル」という職業柄、変に目立てばSNSで貶められるかもしれないと思い込んでいたのだ。命よりもモデルのAliceを優先したかった。

 変に騒がず、目立たず、ひたすら無視することによって諦めてくれるのを待つしかなかった。


 そして――。


「あれだけの人がいる中で、たったひとり凪人くんだけが気づいてくれた。私はじめは何が何だか分からなくてウィッグをとられたことを無暗に怒ったけど、ほんとは嬉しくて。ジワジワきていたところにあの顔でしょう。なんかもう、電撃が走ったみたいに好きになっちゃった」


 そっと右手を伸ばして太陽にかざす。

 いまはない指輪。そこにどれほどの意味があるのか改めて思い出す。


「指輪を見る度にね、彼の顔を思い出すの。いまなにしているかな、寝てるかな、声聞きたいな、話したいなってウズウズするの。でね、あぁ私って凪人くんの彼女なんだ!ってニマニマしちゃう」


「あーはいはい、惚気は結構。でもま、よく分かりました。いまの二人に付け入る隙はないってことだね」


「どういう意味?」


「あたしこう見えて諦めが悪いの。今のところ他に気になる人もいないし、いつか他の人を好きになる日まで虎視眈々と隙を狙うつもり」


「へぇ……もし望むところだって言ったら?」


「首を洗って待ってなさい、と言っておく」


「鬼退治みたいだね」


「ちょっと違う、けど、ま、いいか」


 二人そろって笑いあっていたところへ足音がする。


「アリス、ごめん遅くなって」


 凪人の後ろから私服の男子生徒がおっかなびっくり首を覗かせる。


「教室に落ちていた指輪をこの人が拾ってくれたんだって。さ、ほら、中へ」


「でも、ぼくは」


「いいから。な、アリス」


 促されたアリスが近づいてくる。男子生徒はびくっと体を震わせてうつむいていたが、やがて覚悟を決めたように握りこぶしを差し出した。


「ごめん、これ、その、床に落ちてて。すぐに渡せば良かったのに、なんか、逃げちゃって」


 アリスはちらりと視線を送ったが、凪人は意図的にそらした。


 つまりは、そういうことだ。


「他の人が踏まないよう守ってくれたんですね。本当にありがとうございます」


 一歩進み出たアリスは手を伸ばす。かたく握りしめた手のひらから落ちてきたのは黒猫の指輪。少し汗ばんでいる。


「ごめん、Aliceちゃん。ぼ、ぼく、本当は」


「いいんですよ、私はこれが戻ってくればそれだけで十分なんです」


 受け取った指輪を大切そうに包み込んだ。


「んじゃ、せっかくなんで写真撮りますよ。はいチーズ」


 凪人は一眼レフを構えて二人を捉えた。アリスも男子生徒も、満面の笑顔だ。

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