48.決めた
「今日は、ありがとうございました」
すっかり日が暮れたころ自宅前に着き、礼を言って車を降りた。
「凪人」
窓を開けて顔を出した愛斗の目つきは鋭い。
「近々、アリスは写真集の撮影で海に近いリゾートホテルに泊まるそうだ。もし凪人が本気なら追いかけていって抱きしめてやれ。それができないならおれがアクセル踏んでかっさらう。いいな」
そう釘を刺して愛斗は走り去って行った。
「あら、お帰り。遅かったのね」
車の音を聞きつけた母が玄関から出てくる。いつになく浮かれて凪人を手招きした。なにかと思ってついていくと玄関の隅に毛布が敷かれ、黒いものが丸まっている。よく見かける黒猫だった。野良猫だから懐いてはいけないと決して家に入れなかったはずなのに。
「怒らないで、仕方なかったの。猫嫌いのご近所さんが保健所に連れて行くって激怒していたところを見かけて、勢いで『ウチで飼います』って引き取ってしまったの。だって保健所に連れて行かれたら最悪は殺処分されてしまうじゃない。身勝手だって分かっているけど見殺しにできなかったの」
手のひらをこすりあわせて懇願してくる母。この家の持ち主は彼女だ。敵うわけがない。
「……分かった、いいよ。でも条件がある」
「なにかしら」
「玄関は危ないから中に入れてやろう。急に飛び出したりしたら大変だからな」
「まぁそうね。早速リビングに準備してくるわ」
母がいなくなっても安心したように眠っている黒猫の頭をそっと撫ででやった。うっすらと目を開いて凪人を見る。
『随分とシケた面してんな』
「えっ」
ぎょっとして手を離す。
一瞬声が聞こえた気がした。まさかと思って顔を覗き込む。
『そんにゃ弱気じゃあ大切なものなんて守れにゃいぜ』
まっくろ太の声がリビングから聞こえる。ちょうど『黒猫探偵レイジ』の再放送の時間だった。
なんだ、と安堵するのと同時に少しがっかりする。自分にも猫の声が聞こえる能力が備わったのかも思ったのに。
「ちょっと凪人、ソファー動かすの手伝ってよ」
「あぁ、いまいくよ」
最後に頭を撫でてから靴を脱いで上がった。
黒猫は大きなあくびをし、立ち去った凪人を横目で見送る。
『おれ様はいつでもおまえの味方だぜ。ナギト』
二人がかりでソファーを移動させ、間取りをどう変えるかを話していると自宅の電話が鳴った。
黒瀬家では自宅用とカフェ用の電話回線を別々に引いているが、迷惑電話が多いので自宅用電話は基本的に留守電で対応することになっていた。
五コールが鳴ったところで自動で留守電に切り替わる。
『葉山です』
ドキッとして動きを止める。
手ひどく追い返して以来、葉山が顔を見せることはなかった。しかし毎日のように電話が入る。もちろん出演交渉のためである。それこそ迷惑電話のようだ。
『葉山です。「帰ってこない黒猫探偵」の件でお電話しました。ええ、答えは分かっています。あれだけ断ったのにしつこいと思われていることも容易に想像がつきます。ですが考えてもみてください。長い人生においてこれほどまで他者から求められる機会はそう多くありません。恥ずかしながらわたくしなど友人の連帯保証人と結婚詐欺で金の無心……ピー!メッセージヲオアズカリシマシタ』
残念。時間切れだ。
母がくすくすと肩を揺らした。
「このところ毎回こうなのよ。一回の録音時間じゃとても足りない長話でね、きっとまたくるわ」
などと話しているとまた電話が鳴った。
『葉山です。先ほどは私的なことで録音を埋めてしまったことをお詫びいたします。ともかく、あなたは自分がどれほど必要とされているか知るべきです。小山内レイジに対しては未だに熱烈なファンレターが届いているのですよ。いまの姿を見たい、写真が欲しい、結婚して欲しい、養子にしたい、ペットにしたい、遺産を相続したいので手数料を……ピー!メッセージヲオアズカリシマシタ』
またしても時間切れだ。
「…………一体なんの電話だよ」
「変わり種の迷惑電話みたいね。葉山さんは真面目だから」
互いに顔を見合わせて笑っていると三度電話が鳴った。今度はものすごい早口だ。
『単刀直入に申し上げます。あなたの病状を監督および脚本家に相談しました。そして少数のスタッフで撮影すること、顔を出さないこと、声を加工すること、体調不良の場合は直ちに撮影をやめることを了承して頂きました。例外中の例外です。こんなワガママな俳優は未だかつて存在しません。それでもあなたに出て欲しいのです。何故だか分かりますか? 他の誰でもないわたくしが小山内レイジのファンだからです。仕事に私情を持ち込まないことがモットーのわたくしだって一応人間です。土下座するのなんてイヤですよ、屈辱ですよ。それでもね』
「――葉山さん、凪人です」
『はぁ、え、凪人くん?』
突然電話に出たため葉山がうろたえた。
受話器を持った凪人はゆっくりと息を吸う。
「おれのこと、そこまで気遣って下さってありがとうございます」
『それはまぁ、仕事ですから』
「葉山さんの気持ちは分かりました。……もう一度考えてみます。あと少しだけ待ってもらえませんか?」
『分かりました。では三日。三日待ちます。それが限界だと思ってください』
「もし三日経っても決心がつかずに断ったらどうしますか?」
電話の向こうで鼻を鳴らしたのが分かった。
『そのときはわたくしが社長や相手先に対して土下座でも腹踊りでもすれば済む話ですよ。ご心配なく、得意ですから』
電話を切ってから再び息を吐くと母の視線を感じた。
「良かったの? それで」
「うん。ちゃんと決める」
「そう、ならお母さんは応援するわ」
ずっと逃げてきた。
目を伏せて口を閉ざし耳をふさいで、付き合いの悪い振り、興味がない振りをしながら他人との関わりを避けてきた。
そんなふうにして今まで生きてきた。
けれど、アリスに出会ったのだ。
自分が捨てた道を一心不乱に辿ってきたアリスと。
だからもう、逃げない。
※
夜、ふたつのメールが届いた。
ひとつは愛斗からで、本文は「三日後」とだけあり、アリスが泊まっているとおぼしきホテルの地図が添付されている。
もうひとつは福沢から。
三日後に水族館の前で待ち合わせしようという内容だった。
※
三日後は晴天だった。
凪人は朝早くから起きて支度を整え、気持ちを落ち着けながら食卓に向かう。
「夏休みなのに早いじゃない。もしかしてデート?」
からかいながら母がトーストを差し出してくる。
凪人は「まぁ」とだけ答えてあっという間にたいらげた。デザートのさくらんぼも残さず口に入れる。
「ごちそうさま。母さんおれ、今日帰らないかも知れない」
黒猫を撫でていた母が弾かれたように顔をあげた。
しかし息子の顔を見て何か悟ったらしく「気をつけてね」とだけ言って再び黒猫を撫でる。
「夕方にまた電話するよ。じゃあ、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
「んにゃーん」
母と黒猫に見送られて外へと踏み出す。
蝉の声はまだ控えめだったが自転車を漕ぐと熱風が顔に張り付いてきた。たちまち汗が噴き出してくる。
しかし愛斗の車のスピードに比べたらまだまだ。もっと強く、もっと速くペダルを漕がなくては進まない。
途中でアリスのマンションを通り過ぎた。
なんとはなしに顔を上げてみるがカーテンに閉ざされた部屋は外界を拒むように沈黙している。
(なんでもっと早くこうしなかったんだろう)
再び地面を蹴って自転車を走らせた。
(こんなに近くにいたのに、どうして飛んでこなかったんだろう)
頭の中はアリスのことばかり。
笑い声も泣き声も拗ねた顔も驚いた顔もぜんぶ自分もの。誰にもやらない。
自分の中にこんなに熱い感情が流れているなんて知らなかった。
水族館に続く長い坂道を汗水垂らしてあがっていく。一歩踏み込むことがこんなに大変だとは思わなかった。だからこそ頂上に至った感動は大きいのだ。
「うぉりゃああああああーーー」
長く伸びる下り坂を一気に駆け下りた。このまま空まで飛んで行けそうだった。
「……なにその格好」
呆れ顔を浮かべたのは水族館の看板の前で待ち合わせた福沢だった。
「下り坂で勢い余って転んじゃうなんて災難だったね。擦り傷で済んだだけ良かったよ」
ボロボロになった髪や服を撫でた後に優しく手を握ってくる。
「じゃあ行こっか」
水族館の入り口に向かって歩き出した福沢。しかし凪人は動かなかった。
「福沢、ごめん」
「え?」
手を離れたのを見計らってほぼ直角に頭を下げた。
「おれを振ってほしい」
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