47.右手の薬指
「遅い」
相も変わらずサイン攻めとツーショット攻めにあっていた愛斗は、凪人がおとなしく助手席に乗り込んだことを確認し運転席に体をすべり込ませる。天井が低いため愛斗の頭がくっついてしまう。
「シートベルトちゃんとしろよ。飛ばすから」
不吉なことを言ってエンジンをかける。車体が震えるような低く重々しいエンジン音はいかにもよく走りそうだった。
周囲に愛想よく手を振ってから走り出した車は最初こそ五十キロの安全運転だったが、高速道路に入った途端一変した。
「――ちょっ、早い! 早いですよ愛斗さんッ!!」
スピードメーターは見えないが風のような速さで次々と車を追い抜いて行く。
「これ事務所の社長の車なんだ。むしゃくしゃする時こうして運転させてもらってる。大丈夫、保険はちゃんと入ってるから」
愛斗は険しい表情のままハンドルを握り、ぐんぐんスピードをあげていく。このまま天国にでも突入しそうだった。
しかし運が味方してくれたらしい。数キロ先で渋滞が起きていたのだ。
愛斗は顔をしかめたが少しずつスピードをゆるめていく。やがて完全に停止したところで背伸びでもするようにシートに体を預け、大きなため息を吐く。
「さっき、なんであんな目立つ真似したか分かるか?」
「……おれへの嫌がらせですよね」
愛斗が来た理由についてはとっくに見当がついていた。
「そう、凪人への当てこすりだ。たまにはひどい目に遭えばいいと思った。それくらいイライラしていたんだ。悪かったな」
「謝らなくていいです、アリスのことでしょう。彼女とは別――いえ、フラれました。二週間前に。オーディションに落ちて絶望していたアリスに抱いてほしいと懇願されたのにおれが拒否したんです」
もはや隠すつもりはなかった。むしろ誰かに聞いてほしいとすら思っていた。
「……そういうことか」
動いては止まってを繰り返す車内には愛斗がセレクトしたと思われる洋楽のBGMがゆったりと流れている。果てしない沈黙が続いた。
ようやく渋滞が解消されてスムーズに進むようになったが愛斗は八十キロを維持してゆっくりとカーブを曲がっていく。
沈黙を保っていた愛斗はふいに凪人の方を指差した。
「ダッシュボードの中、デジカメがあるから見てみろ」
言われたとおりデジカメを手にとって画像を再生してみた。
全体的に薄暗いが、ネオンが光るどこかの街を一組の男女が歩いている。
長身の男は帽子をかぶってサングラスをつけおり年齢は二、三十代といったところか。かなり若い。
腕を組んで隣を歩いているのは更に若い女性だった。帽子やサングラス、マスクまでしているが体つきを見ればまだ成熟していないことが分かる。
「……アリス?」
信じられない思いで名前を呼んだ。二枚目三枚目と画像をめくり色んな角度での顔を見るほどに女性が「アリス」である確信が深まっていく。心のどこかでそうではないで欲しいと願っていたが、サングラスを外した写真を見て認めざるを得なかった。
「これは一体なんですか。なんで愛斗さんがこんなものを」
男と見つめ合って無邪気な笑顔を浮かべているアリス。
最後の写真は二人が高そうなホテルに入っていくシーンをとらえていた。
凪人は慌てて「次へ」のボタンを押すが一枚目に戻ってしまい、知らない男との仲睦まじい様子が繰り返し繰り返し流れてくる。
「撮影されたのは三日前。週刊誌の記者が撮ったものだ。ある番組の地方ロケの後らしい。ちなみにその男は俳優だ、一応な」
若い男とアリスが、ホテルへ。
その意味が分からない凪人ではない。
つまりアリスは――。
どくん、と心臓が変な動きをする。
急激に喉の渇きを覚えた。
「良かった……じゃないですか。アリスに好きな人ができたのなら、それは、すごく、いいことだ」
(んなわけあるか)
「凪人、それ本気で言ってるのか?」
信じられないとばかりに愛斗がにらむ。
こんな顔は未だかつて見たことがない。
しかし自分の意思に反して凪人の口は勝手に動いた。
「おれは祝福しますよ、当然じゃないですか」
(するわけないだろ)
(だってアリスは……。いや、おれはまだアリスのことを――)
『もういい。凪人くんを好きになった私がバカだった』
煮え切らない態度に幻滅して去って行ったアリスは新しい恋を見つけたのだ。
どうして自分がそれを非難できるだろう。
アリスが幸せならそれでいい。そう願うべきではないか。
(これでいい。これでいいんだ。おれじゃアリスを幸せにできないから。だから)
胸の痛みは一時的なもの。アリスが抱えた苦しみに比べたら擦り傷ですらない。
そう思い込もうとしていた。
「――――ふざけんな!」
刹那、愛斗が叩きつけるようにアクセルを踏んだ。
「ちょっ、愛斗さ」
「喋るな舌噛むぞ!」
一気に加速したかと思うと最寄りのサービスエリアに入り駐車線をまたぐように急停車する。あまりにも乱暴だ。文句の一つも言ってやろうと口を開いた瞬間、
「バカかおまえッ」
すさまじい剣幕で怒鳴られた。
「なんでアリスの気持ちが分からないんだ!?」
激しく唾を飛ばされた凪人は呆気にとられるしかない。
「……わるい、なにか飲みもの買ってくる」
そう言って飛び出していった愛斗はハチミツ入りのラテとブラックコーヒーを一本ずつ買って戻ってきた。凪人には当然のようにコーヒーを手渡し、自らは缶の縁に噛みつくようにラテを飲み下していく。
凪人はちびちびとコーヒーを飲みながら次の言葉を待つ。
アリスに恋人ができたことは良いことなのになぜ愛斗がここまで怒っているのかを知りたかった。
あっという間に一缶飲み干した愛斗はふっと息を吐いてから続きを話し始めた。
「そいつ、その男だけどな、ほぼ無名だけど業界内では有名人なんだ。有名タレントに次々と手を出す要注意人物ってな。そいつの事務所が記者に情報を流して撮影させたんだ、わざと」
「――まさか」
ぞわっと寒気がした。気がつくと愛斗に詰め寄っている。
「売名だよ。アリスは利用されたんだ。まぁギリギリセーフだったけどな」
愛斗の声は冷静だ。少なくとも最悪の事態にはなっていないらしい。
「記者に訊いたよ。問い詰めた。
「そんな」
「擁護するわけじゃないが警戒心が足りていなかったのは事実だろう。だがその日以降アリスは仕事を休んでいる。相当怖い思いをしたはずだ」
「……」
まっさきに感じたのは男への怒りよりも谷底へ突き落とされたような絶望だった。
写真に映る無邪気な顔のアリスが数分後にそこまで追い詰められたのかと思うと、自分の心まで痛くなってくる。
(おれのせいだ)
先のオーディションで自身のプライドもモデルとしての在り方も否定されたアリスは誰かに肯定されたかった。安心したかった。そうでなくては壊れそうだった。
どうしてあのときアリスを突き放してしまったのか、どうして繋いでいた手を離してしまったのか、後悔してもしきれない。
「さっき、記者って言いましたよね」
ふと別のことに思い至って青ざめた。
「この話は週刊誌に載るんですか? 止められないですか? 悪いのはおれです。アリスを追いつめてしまった。それなのにアリスだけが矢面に立つのはおかしい。後ろ指さされるならおれだ。おれ本当は昔――」
逃げてばかりだった。アリスからもレイジからも病気からも。目をそらして適当にやり過ごそうとした結果、最愛の人を傷つけてしまったのだ。
こんなことってあるか。
掴みかからんばかりの凪人を愛斗が冷静に制した。
「――安心しろ。記事にはならない。だからメモリーカードがここにあるんだ」
「どういう意味ですか」
愛斗は一瞬視線をそらす。
「それなりの金と俳優人生をかけて買い取った。つまり取引だな。この件を口外・記事にしないかわりに今後俺――斉藤マナトに色恋沙汰やスキャンダルがあったら独占インタビューを受けるし自宅敷地内への立ち入りも自由。そういう条件だ」
「むちゃくちゃだ! そんな約束するなんて」
「誓約書も交わした。もし約束を破ったらただじゃおかないと。相手が利口なやつで良かったよ。もし今後誰かを好きになったら早めにアプローチして早めに婚約して早めに結婚する。この記者だけを一人勝ちさせないように素早く慎重に事を進めるつもりだ」
バカげている。
しかし愛斗は本気だ。
本気でアリスを守ろうとしている。
理由はおそらく。
「愛斗さんはアリスのことが好きなんですね。それほどまでに」
途端に愛斗は苦虫を噛み潰したような表情になる。
「ばか。俺は友人たちを心配しているだけだ。以前に好意があったのは確かだが、さっきアリスと凪人がそこまでの関係になっていると聞いても少しもショックじゃなかった。むしろどうして先に進まなかったのかと理解できない。たぶんアリスも本心では気の済むまで抱きしめてもらうだけで満足したはずなのに揃いも揃って不器用な奴らだと呆れてる」
「すみません」
「アリスはお前じゃなくちゃダメなんだ。なんで分からない」
「まさか。アリスはおれに愛想を尽かして出ていったんですよ。未練なんてないはずだ」
愛斗は心底あきれたように息を吐いてエンジンをかけた。
「本当にそう思っているなら凪人にはがっかりだ」
サービスエリアを出た愛斗の車は次の出口で高速を降り、海沿いの平坦な道を走りながら帰路に就いた。二人は終始無言で、心地よい夕陽とBGMだけが車内を満たしている。
いまなお熱心にデジカメの画像を見つめている凪人に、愛斗はあるヒントを与えた。
「その画像、拡大して見てみるといい。アリスが誰を好きなのかちゃんと分かる」
言われるまま写真を拡大して細かい部分にまで目を向ける。
(…………あぁ)
体の奥底から息を吐いた。
彼女の右手薬指にしっかりと嵌まっている黒猫の指輪に目を潤ませて。
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