8.アリスを追って

46.アリスのいない夏がくる

 声高々に蝉が鳴いている。


「ごちそうさまでしたー」


 アリスの椅子を借りた福沢は凪人の机で昼食の弁当を食べ終えたところだった。

 行儀正しく手をあわせる彼女の横で、凪人は機械的に白米を頬張っている。なんの味もしない。


 真面目で快活な委員長と根暗な地味メンが一緒にお昼していても同級生たちは気にしない。「付き合っている」ということになっているのだ。しかし凪人には誰からどう思われようがどうでも良かった。


 福沢は意外と早食いでいつも凪人より先に食べ終えてしまう。そうすると決まってスマホを眺めているのだった。興味のあるファッションサイトを見ているらしく、今日も頬杖ついて画面を見つめている。


「ねぇ最近のAlice、ちょっと変だよね」


 ふと思い出したように口を開いた。

 今日もアリスは休みだ。


「雑誌見ていても覇気がないっていうか、つまらなそうっていうか、よく見るといつも涙目」


「……あぁ」


「失恋でもしたのかな? でもAliceほどの美人を振るなんてはよっぽど変わり者だよね」


「あぁ」


「どう思う?」


「あぁ」


「……アリストテレス」


「あぁ」


「あーもう!!」


 ばんと机を叩いて立ち上がった福沢をかなり遅れて凪人が見上げる。


「凪人くんもなんか変だよ」


 付き合うことになってから、福沢は名前で呼ぶようになった。

 アリスと同じ呼び方なのに別人の名前のようだ。


「声に力がない、顔に生気がない、目が死んでる。廊下歩くと必ず誰かにぶつかって土下座しようとする、国語の授業なのに英語の教科書を広げてる、間違って三年生の教室に入ろうとする、とにかく変。ぜんぶ変!目立ちまくり!!」


「べつに、普通だけど」


「さっきから思ってたけどご飯をフォークで食べるのも思いっきり変!」


 アリスに別れを告げられてから早二週間。明日からは夏休みだ。浮足立つ教室をよそに凪人の意識は波間を漂っているように安定しない。感情というものがすっかり流れ出てしまったようだ。


 朝起きる、自転車で登校する、授業を受けるという当たり前のことをこれまでどうやってこなしてきたのか分からなくなり、最近は徒歩で通学していた。自転車をボーっと運転して第三者にケガをさせてはいけないという母の気遣いである。


 福沢は何度目かになるため息をついて凪人の顔を覗き込んできた。


「今日は眼鏡も忘れたんでしょう。変を通り越して異常だよ。あたしの顔ちゃんと見えてる?」


 目の前でパタパタと手を振るので頷いてみせる。


「見えてる。元々度が入ってないから」


「なんだオシャレだったんだ。そうだよね、凪人くん眼鏡ない方がいいもんね。クラス内でもちょっとした話題になってるんだよ眼鏡外すと意外とイケてるって。ふふ、みんな気づくの遅いよねー」


 笑いながら指先を伸ばしてきて、さらっと前髪を撫でられる。




『――私ね、レイジの大ファンなの』




 アリスの声がよみがえって反射的に福沢の手を止めてしまった。


「どうしたの?」


「あ、いや。やっぱり眼鏡ないと落ち着かなくて」


「良かったらマジックで書いてあげようか?」


 油性の太マジックを取り出すので丁重にお断りしたが、ここまで狼狽えていることに自分が一番驚いていた。


(だめだ。忘れないと。アリスのことは、早く)


 忘れなければ、強く思えば思うほどアリスのことを考えてしまう。

 いまはどこでどんな仕事をしているのか。どんな顔でカメラの前にいるのか、自分のことを少しは思ってくれるだろうか。そんなことばかり。


 焦燥感にも似た心中を気にもとめず福沢は幸せそうに頬をゆるませる。


「あぁでも楽しみだなぁ水族館」


「すい、ぞくかん?」


「そうだよ。夏休みどこに遊びに行くか相談したじゃん。海は遠いから隣町の水族館がいいねって」


 水族館。アリスと初めてデートした場所だ。

 行ったらきっと思い出す。


「やっぱりやめないか? 水族館」


「じゃあどこがいいの?」


「海――とか」


「電車での遠出は難しいって言ったの凪人くんだけど?」


「じゃあ湖――」


「いいね、湖周辺は夏休みに毎日花火あがるし」


「花火……もダメだ」


「んもう、そう言うから消去法で水族館になったんだよ。同じ話をつい二日前にしたばっかりなんですけど」


「ごめん」


「やれやれ、凪人くんにデートプラン任せるのは無理だね。あたしに任せといて」


 福沢はアリスの席で楽しそうにスマホを操作している。


 肝心のアリスとはあれ以来会っていない。仕事が忙しいらしい。夏休みになったらますます会えないだろう。新学期になったら席替えもあるので、二度と話をすることはないかもしれない。


 もう終わったのに。なにもかも。


「大変大変ッ!」


 クラスの女子生徒が息せき切って駆け込んできた。勢い余って福沢に抱きつく。


「真弓どうしたの? そんなに興奮しちゃって」


「なま、なままままま」


「生? ママ? 生卵?」


「ちっがう。生マナト、生マナトなの!マナトが校門前に来てるの!」


 マナト。その名前を聞いた凪人がぴくりと反応した。

 なんとなくイヤな予感がしていると、別のクラスの男子生徒が顔を出して首を巡らせる。


「黒瀬凪人ってどいつ? 斉藤マナトに呼んでこいって言われたんだけど」


 その一言で教室中の注目が凪人に集まった。


(……まさか)


 窓から校門を確認すると、目にも鮮やかな赤いスポーツカーの周りに黒山の人だかりが見えた。彼女たちの中心にいるのはいまをときめく有名俳優、斉藤マナトこと愛斗である。


「よう、黒瀬凪人くん」


 仕方なく行ってみると、明らかに高そうな黒スーツを見事に着こなしているその人物は、サインを書く手を止めずに視線を寄越した。集まっていた女生徒たちが「なにこいつ」とばかりに凪人を振り返る。びくんと胃が震え、食べたばかりの白米が逆流してきそうな気配があった。


「悪いけどサインはここまでな。凪人、今日は午前中で終わりなんだろ。乗れよ、話がある」


 逃げたくてたまらない凪人などまったくお構いなしに愛斗はスポーツカーの助手席を開けて強引にエスコートしようとする。

 イヤです、と拒否できれば良かったが斉藤マナトの誘いを断ったら最後、残った女生徒たちに関係性を質問攻めにされるのは目に見えている。それこそ地獄だ。


「……五分待ってください、支度してきますから」


 人ごみをかき分けて教室へと戻る。痛いほどの視線を受けて胃が震えたが、唾を呑み込みながら必死に耐えた。

 逃げるように教室に飛び込むと、ぽつんと一人、福沢が机に座っていた。


「あれ行かなかったのか?」


 意外だった。斉藤マナトのファンである福沢ならすっ飛んで行くと思ったのに。


「この窓からも見えるし、文化祭でも会ったし」


 そういうものなのかと納得して席に近づくとひょいっとカバンが差し出された。


「はいこれ、荷物取りに来たんでしょう」


「あ、ありがとう」


「筆記用具もお弁当箱も全部入れておいたよ。盗み見はしてないから安心して。でも黒猫のキーホルダーが見えちゃった、可愛いね」


 キーホルダーをくれたのはアリスだ。鍵を失くしてアリスの家に泊まらせてもらうことになり、レイジのサインを目にした。

 その後アリスに誘われて逃げ出し、廊下で一夜を明かしたことがまるで昨日のことのように蘇ってくる。


「どうしたの? やっぱり変だよ?」


 福沢が顔を覗き込んでくる。


「余計なことは聞かないつもりだけど辛いことがあるなら話してね。これでも彼女(仮)なんだから」


 カッコ付きの「彼女」という表現に凪人は苦笑いするしかなかった。




 ――凪人の前からアリスが立ち去った数日後、「返事をきかせてほしい」と福沢が迫ってきた。「ごめん」とだけ答えた。頭の中がまっしろでなにも考えられず、福沢の期待に添えないことだけを淡々と謝った。


 しかしこういう時の女性の勘は鋭い。

 相手はともかくとして凪人になにかあったのだとすぐ見抜いた。


『厚かましいことを承知で言う。チャンスをちょうだい。ほんの少しの期間でいいから付き合って。きっと黒瀬くんを振り向かせてみせるから。お願い!』


 表向きは自信満々なくせによく見るとかすかに手が震えていた。

 どれほどの勇気を振り絞っているのか、どれほどの覚悟をしているのか。告白するときだってどれほど怖かったか。

 果たして自分はその気持ちに応えるだけ彼女のことを考えてあげただろうか。


『だいじょうぶ。時間が経てば辛いことなんて忘れちゃうよ。あたしがきっと元気にしてあげるから。ね?』


 死んだように冷たかった心がほんの少しだけ体温を取り戻した気がした。


 こうしてふたりは交際(仮)の状態になっている。



「なんでもない。水族館に行く予定、あとでちゃんと立てような」


「ホント?」


「夏休みだもんな。めいっぱい楽し――」


 一足飛びで距離を縮めてきた福沢の唇が凪人のそれに重なってきた。どこかぎこちないワンタッチの軽いキスだ。


 すぐさま体を離した福沢は恥ずかしそうに目を伏せる。


「ごめん、いきなり。あたしってば嬉しすぎて」


「あぁいや、こっちこそ……」


 互いに無言であさっての方向を見ていると外でクラクションが鳴らされた。約束の五分をとっくに過ぎている。


「ほら早く行って。斉藤マナトを待たせたら怒られるよ、女子たちに」


 半ば強引に背中を向けさせられ、教室の外まで押される。最後の一押しは痛いくらいだった。


「忘れないでよね、凪人くんはいまあたしの彼氏で、あたしは凪人くんの彼女なんだから。仮だけど」


 返すべき適当な言葉も見つからないまま教室を後にした。ぎこちないキスの感触がまだ下唇に残っている。

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