49.追いかける
「ごめん、なに言ってるのか分からないけど」
「告白されたとき嬉しかった。福沢はいつもおれのこと気にかけてくれるし真面目ですごくいい奴だと思う。だけどおれは告白を保留にしておきながら一方でアリスと会ってキスしていたんだ。それもずっと前から」
「内緒で付き合っていたってこと?」
「付き合ってはいない。だけどおれはアリスのことが好きだ。それなのに福沢の告白を受け入れた。そういうの二股って言うんだろう。そんな最低な男は振ったほうがいい。頼む」
これがいまの凪人にできる最大限の贖罪だった。
どれくらい時間が経っただろう、福沢が大げさに息を吐いた。
「あたしが振られたんじゃなくて自分が振られたことにするの? そうやって悪者になろうとするんだね」
「ごめん」
「顔上げてよ。みんな見てる」
覚悟を決めて姿勢を戻した。腕組みしていた福沢は、しかし穏やかな表情を浮かべている。
「凪人くんさ、あたしの下の名前覚えてる?」
「下の名前?」
「当ててみて。そうしたらキレイに振ってあげる」
凪人は必死に記憶をたどったが思い出せない。気にもとめていなかったのだ。
「ぶっぶー! 時間切れ。歯、食いしばって」
言うが早いか福沢が頬を平手打ちした。ばちん、と小気味よい音が周囲に響き渡り、通りがかった客たちがぎょっとしたように目を瞠る。
「うぅ」
口の中が切れて血の味がする。しかし当然の報いだと承知していた凪人は頬を押さえることをしなかった。かわりに福沢が濡れたハンカチで頬を冷やしてくれる。
「罪滅ぼしはこれで終わり。いまのあたしはバカな同級生を慰めているだけ。ほんのちょっとの未練を残して」
福沢の頬を伝う涙。それでも懸命に笑顔を浮かべている。
「ここまでしたんだから、兎ノ原さんをちゃんと捕まえるんだよ。もう二度と離しちゃダメ。いいね?」
「約束する」
「それからもう一つ。あたしのことは七海って呼んで。兎ノ原さんを呼ぶように優しく呼んで」
七海――海だ。だから海に行きたがったのだと思うと胸が痛くなる。
「急に名前呼びしたら兎ノ原さんはあたしに嫉妬するかも知れない。でもそれくらいいいでしょう? あたしだって少しくらい嫉妬されたい。それがモデルのAliceなら自慢にもなるしね。――ほら行って、大好きな人のところに」
乱暴に背中を押される。
「福沢、ありがとう」
笑い声が上がった。ポカポカと叩かれる。
「だからー! 七海だって言ったでしょバカ!」
「悪い、今後気をつける」
「いいからさっさと行け、この最低やろー」
力いっぱい背中を押されたのでそのまま走り出した。振り返ったら迷いがでる。だからまっすぐ前だけを見て走った。
青空の向こうにいるアリスのところへ飛んでいきたかった。
※
三時間に及ぶ電車の旅は意外にもあっという間だった。アリスに会う緊張のせいだろうか、少しずつ増える乗客にもみくちゃにされても吐き気がしない。それよりも胸の高鳴りのほうが気になった。
(アリスに会ったらなんて言おう)
(どうやって謝ろう)
(前の関係に戻りたいなんて、都合が良すぎる)
結局答えらしい答えを見つけられないまま目的の駅に到着してしまった。
冷房のきいた車内を一歩降り立った瞬間、刺すような日差しと熱風が手荒な歓迎とばかりに凪人を包み込む。息をするのが苦しくなり、しばしベンチで休憩した。目的の海はすぐ目の前にあり、ここにいても規則正しい波音が響いてくる。
アリスと築いた思い出をさらった波音はいま、乱れた心を優しく洗い流していくようだった。
「よし」
胃薬とペットボトルの水一本飲み干してベンチを立ち上がる。改札を出ると人気のまばらなロータリがあり、その先に海岸線が広がっていた。
数キロあるという海岸線のどこでアリスが写真撮影しているのかは分からない。人混みを探して歩き回るしかなかった。ホテルの前で待ち伏せしてもいいが、とてもじっとしていられない。
肌にまとわりつくような風と不安定な砂浜、どこまでいっても青い海。太陽を反射する水面が人間の目のように凪人を襲う。
――少しだけだよ。
思い出すのは六年前の光景。猫を飼いたいと願った凪人に襲いかかった悲劇。
――ぼくが外に出してあげたことは内緒にしてね。今日からぼくの弟になるんだからいい子にしないとダメだよ。
ほんもののまっくろ太に触れたかった凪人は誕生日もクリスマスも七夕も「猫が欲しい」とお願いしていた。
そんな頑張りに応えようと、母はスタッフの一人から子猫を譲り受ける約束をしてくれた。
そしてあの日。凪人は黒い子猫と対面した。
金色の目と長い尻尾にふさふさの毛をもつその子は凪人の想像以上に可愛くて、まっくろ太より少しだけやんちゃだった。
撮影が終わったら連れて帰れると分かっていたのに待ちきれなかった凪人は休憩になる度に子猫が入ったケージを見に行った。餌をあげたり水を替えたり背中を撫でたり。待ち遠しくて仕方なかった。
そして……。
――行っちゃダメだ、そっちは……!
おぼつかない足取りで砂浜を歩いていると、二十代とおぼしきカップルがこちらに向かって歩いてきた。一瞬ミルクティー色の髪が見えた気がしてパッと顔を上げたが、麦わら帽子の下にあった女性の顔立ちはアリスとは似つかない。日差しのせいで髪色を見間違えただけだ。
「なんかがっかりだったねー」
すれ違いざま、女性の声が聞こえてくる。
スマホの画像を眺めながら呆れたような笑い声をあげる。凪人はなぜかその会話に聞き耳を立てていた。
「撮影やっているっていうからどんだけ可愛いのかと見に行ったら顔色は悪いし自信なさそうに下向いてるしきょどきょどしているし、まるで詐欺だよね。あれで本当にモデルなの?」
モデル。その単語に反応する。
「すみません!」
気がつくと通り過ぎた二人の背に声をかけていた。
不審者でも見るように振り向く二人。ぐっと胃が痛くなったがいまはそれよりも聞きたいことがあった。
「撮影していたモデルってAliceですか?」
額に脂汗を浮かべて問いかけてくる凪人の姿は不審者でしかない。
二人は互いに顔を見合わせている。
「教えてください、お願いです。お願いします」
周りの目が痛い。気を抜けば吐きそうだ。けれどここで引き返せない。
凪人は必死に唾を呑み込んで吐き気を抑え込む。
「土下座しろって言うのならします。もしお金が必要なら、少しですけど」
と言って財布を取り出そうとすると女性が慌てたように手を振った。
「ちょ、ちょっとなにやってんの。バカじゃないの」
「俺たちがカツアゲしてるみたいじゃねぇか」
非難の声を上げられる。
自分がいかにバカげているのかは分かっていた。
それでも。
(おれはバカだ。バカだからアリスを傷つけた。おれのせいだ)
視界がぐらぐらと不安定に揺れる。
アリスに会いたい。その気持ちが切れたらいまにも倒れてしまいそうだった。
ふいに視界に影が差した。麦わら帽子の影だ。覗き込んできた女性が呆れたように息を吐く。
「そっちの事情はよく分からないけど、ここから少し歩いた先の入り江でモデルのAliceが撮影していたのよ。周囲はスタッフが封鎖しているけど、遠巻きになら見られるんじゃない」
女性のスマホに映るアリスは憂いを帯びて元気がない。
それでも懸命に撮影をこなしているようだったが、スタッフに取り囲まれてしゃがみこんでいる姿を見た途端、自らの胸が貫かれた気がした。
「あぁこれ? 撮影中急に泣きじゃくってスタッフがなだめていたの。なんだか情緒不安定って感じで、テレビや雑誌で見ていたイメージとは全然違う。あんまりにも痛々しいから帰ってきちゃった」
アリスは痛みをこらえてカメラの前に立っている。いまこの瞬間も。
そう思うと胃の痛みなんてどうでもいいと思えた。倒れたっていい、アリスに会えるのなら。
「……ありがとうございました。おれ行きます」
(行かなくちゃ。アリスに会って、そして、謝らないと)
礼を告げてからふらふらと歩き出すと追いかけてきた女性にペットボトルを押し付けられた。
「飲んだ方がいいよ、熱中症になりかけているみたいだから」
喉の渇きすら忘れていた凪人だったが一口飲むと抑えられなくなった。砂漠に水が与えられるように次から次へと飲み下してしまう。そうしてすっかり飲み干してしまうと少しだけ頭が冷えてきた。
「ほら言ったでしょう」
「自分では全然気づいていませんでした。ありがとうございます」
得意げな女性に深々と頭を下げた。ともすればアリスのところにたどり着く前に倒れてしまったかもしれない。
「いいのいいの、よく分からないけど頑張ってね」
そう言ってパタパタと手を振って彼氏の元へと戻っていく。合流した二人が当然のように指先を絡ませあうのが羨ましく思えた。
アリスだってああして手をつなぎたかったはずなのに自分のせいで我慢させてばかりだった。
再び歩き出した凪人は最寄りの売店で追加のペットボトルを購入し、体調を万全にしてから入り江に向かった。
「Aliceちゃん、笑顔ちょうだい」
洞窟を抜けた先にある入り江は外界から隔絶されたようだった。
むき出しの岩肌に寄り添うような形でアリスが撮影に臨んでいる。思えば撮影現場を見るのはこれが初めてだ。立ったり座ったり様々なポージングをしたりと忙しい。
「うーん、もうちょっと笑えない?」
取り囲むスタッフたちの表情がいくぶん険しいのはアリスの態度にある。
カメラを見る以外は伏せ目がちで顔を上げようとせず、精いっぱいの笑顔もどこか泣いているようだ。何度注意されても表情は冴えずシャッター音だけが空しく響く。
しびれをきらしたカメラマンが眉を吊り上げて言った。
「もうちょっとこう、口角上げられない? なんか笑顔が死んでるよ?」
「……すみません」
「今回の写真集は『十五の笑顔』がテーマなんだから、そんなやる気ない顔だと一枚も採用できないよ?」
「……すみません」
「こっちも遊びじゃないんだからしっかりやってよね」
厳しく叱責されて縮こまるアリス。周りのスタッフも同じ意見なのか同情する様子はない。
「かわいそー」
「まぁ、あれじゃあ仕方ないよね」
野次馬たちもくすくすと笑う。一番後ろにいた凪人だったが、次々と野次馬が去っていくので最前列にいくのは簡単だった。
ほんの数メートル先にアリスがいる。しかし手は届かない。泣き笑いのような表情だけがカメラに収められていく。カメラマンのため息を聞くとどれも納得のいく出来ではないようだ。
それでもアリスはカメラの前に立っている。
逃げずに、恐れずに、人々の前にいる。
そんな姿を見ていると辛くなった。苦しくなった。我慢できなくなった。
たまりかねて声をかけた。
「がんばれ――がんばれアリス、応援してる」
決して大声ではない。
囁く程度の、ほんの小さな声だ。
けれど。
カメラを見ていたアリスの目線がはっきりと動いて見て凪人を捉えた。
そして。
「…………いや」
たちまち恐怖の色に歪む。
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