41.焦らしプレイしましょ

「またキスかよ」


 会う度に催促してくるアリスの大胆さにも少しずつ慣れてきた。


 凪人の不服そうな様子を察したアリスが唇を尖らせる。


「まさか歯磨きしてから、とか言うつもり? そんな嫌そうな顔しなくてもいいじゃん。それに『また』って言うほどキスしてませんしー」


「でも会う度にねだってくるから節操がないっていうか」


「……あっそぅ、じゃあいい」


 憤慨して立ち上がったはずのアリスは回れ右して出ていくわけでもなく、逆に凪人の膝の上にちょこんと座った。


「じゃあ焦らしプレイしよう。つまり我慢比べ。お互いに寸止めして理性を保てなくなったほうが負け」


「なんだその怪しげなプレイは」


「はいスタート」


 と言っていきなり鼻がぶつかりそうな距離まで近づいてくる。しかし触れていない。ただの睨めっこだ。

 そのまま無言で見つめ合っていると、次第にアリスの顔が紅潮していく。


(自分で言い出したくせに、なんだよその顔。見てるこっちが恥ずかしいわ)


「目、そらさないで」


 居たたまれなくなって顔を背けようとするが両頬を包み込むように手を伸ばしてくる。しかし触れない。体温が分かるくらいの絶妙な距離を保っている。


「凪人くんって肌きれいだね」


 じーっくり鑑賞していたアリスがおもむろに呟く。


「鼻の立体感とか、眉毛の形、唇の厚み……好みかも」


 ひとつひとつを指さしていく。もちろん寸止めで絶対に触らない。


「顎もシャープだし、髪の毛の生え方もいいね。変な癖もついてない」


 軽く息を吐けばかかりそうな距離まで顔を寄せてくるのに頑なに触ろうとしない。


(こんなの、なにが楽しいんだよ)


 顔や手は当たっていないが胸は当たっている。本当に勘弁して欲しい。


「あれれ。なんだか顔が赤いですよ? いけない子ですねぇ」


 それはおまえの方だ、と突っ込みを入れたくて仕方ない。


「ね、後ろからハグして。ただし触らないでね。エアーハグ」


 無防備に背中を向けてくるので言われたとおり後ろから腕を伸ばした。自分の胸の中にすっぽり収まるアリスの華奢な体。ミルクティー色の髪が鼻に当たってくすぐったい。シャンプーの匂いだ。


「うーん。意外と我慢できちゃうもんだね、焦らしプレイ。なにか事故が起きると思ったのに」


「真っ昼間からなに言ってんだ変態か」


 アリスがムッとしたように振り返った。


「あのねぇ、そもそも凪人くんが男気を見せてくれないから……っつぁ」


 いきなり振り返ったせいでバランスを崩して倒れ込んだ。腕を引っ張られた凪人も巻き添えで倒れ込む。


 ばふん、と布団が揺れて二人の体が重なり合う。


「……あ」


「あ」


 仰向けに倒れたアリスの髪がシーツの上に広がる。シャンプーの匂いが一層強くなり、逆にアリスの体がとても小さく見えた。


(やばい)


 どくんどくんと心臓が早鐘を打つ。こんなにも小さくて愛らしい少女が自分の腕の下で寝そべっている。どうしてこんなに喉が渇くのだろう。水なんかじゃだめだ。


 凪人はたまらずアリスの髪の一房をすくいあげた。滑らかな手触りをひとしきり楽しんだあとで、そっと口づけを落とす。


「ふふ」


 アリスが笑い声を漏らした。


「私の勝ち」


 まだやっていたのかと呆れつつ、いかにもアリスらしい勝利宣言だった。


「もうどっちでもいいよ、勝ちでも負けでも」


「じゃあ私の勝ち。だから、もういいよね」


 言いながら腕を伸ばして凪人の首に絡めると自らの側に引き寄せる。そのままいつもより長くキスをした。もういいだろうと唇を離してもすぐ磁石のようにくっつく。その繰り返しだった。

 最後は首筋に顔を埋めて思う存分シャンプーの匂いにひたる。アリスはひたすら髪を撫でてくれた。


「そろそろ行かないと」


 すっかり溶け込んでいた体を離してアリスが立ち上がった。服と髪の乱れを軽く直して扉の前に立つ。


「この前言っていたオーディション、来週が最終選考なんだ。本当はものすごく緊張している。だから一目だけでも顔を見たかったの」


「受かるといいな」


「うん。凪人くんが言うなら大丈夫な気がする」


 別れ際にもう一度だけキスをして、きつく抱き合った。

 きっと大丈夫。アリスの顔を見ていると不安など一ミリも感じなかった。



 ※



「ちょっと聞いて。真弓、彼氏と抜け駆けしたみたい」


 モップの柄に頬杖ついた福沢が呆れたようにスマホをしまう。放課後の掃除当番は本来四人いたはずだった。しかしいま教室にいるのは凪人と福沢だけ。

 真弓というのは福沢といつも一緒にいるクラスメイトだと思うが、顔をはっきり思い出せない。


「彼氏いたのか」


「うっそ知らないの? 文化祭のあと教室で片付けしていたら真弓の元彼がフラれた腹いせに乗り込んできて、ウチのクラスの岡田が助けようとして殴り合いの流血騒ぎ。でもそのお陰でいまはラブラブ……って知らないか」


 そのころ凪人は図書室にいた。アリスと愛斗を引き合わせるために神経使っていたのだ。そんな騒動があったとは露知らず、友だちもいないので噂が耳に入ることもなかった。思いのほか狭いこの教室内で起きたという騒ぎがまるで別世界の出来事のようだ。


(そうやって、なんの思い出も感傷もないままあっさり卒業していくんだろうな)


 目立たない、つまり他者の記憶に残らないとはつまりそういうこと。自身にも大した記憶が残らないまま押し流されるように学校から放り出される。


(アリスはどうするんだろう、卒業したら進学せずに芸能活動に専念するのかな)


 きっとそうだ。そのとき自分はどうするのだろう。


「ここ最近、兎ノ原さん欠席多いね。来ても遅刻か早退。この前の期末テストも全部受けられなくて休みの日に追試受けたらしいじゃん」


 掃除に飽きた福沢が黒板にチョークでウサギのイラストを書いた。意外とうまい。


「忙しいみたいだからな」


「でも頭はいいらしいね。移動時間に勉強しているって雑誌のインタビューで答えてた」


「負けず嫌いなところもあるからな」


「休みの過ごし方はお気に入りのカフェで美味しいコーヒーと甘すぎないパンケーキを食べて気まぐれな黒猫を構うことだって」


「…………黒猫を構う?」


 どういう意味だ、と眉間に皺が寄った。


「うん、そう書いてあったよ。もしかしてたまに会ってるの?」


「それは、まぁ、店の常連客だから」


 一瞬余計なことを言ってしまったと思ったが手遅れだった。

 たちまち福沢の顔つきが変わる。


「やっぱりそうなんだ。黒瀬くんと中学同じって子に自宅でカフェやってるって聞いたけど本当だったんだね。前に送ってくれた斉藤マナトの写真の背景がそうでしょう? 雰囲気良さそうだと思った」


 文化祭のときに頼まれた写真のことだ。事情を聞いた愛斗は快く了解してくれ、パンケーキを前に写真を撮らせてくれた。しかし念願の写真を手に入れたはずの福沢の反応は「ありがと」だけで、大して嬉しそうでなかったのを覚えている。


「ねぇねぇ、今度あたしも行っていい?」


 教壇に頬杖をついた福沢が目を輝かせて身を乗り出してくる。アリスが聞いたら怒りそうだとは思ったが、客を選ぶ権利はない。


「いいけど……営業時間は午前十一時から午後六時時まで、木曜と日曜は休み。あとは母さんの都合で臨時休業になることも多い」


「……なんか来てほしくなさそう」


 自分で言い出したくせにつまらなそうに怪訝そうな眼差しを向けてくる。


「そんなことはないけど――」


 言いよどんでいるとあっという間に話の内容が変わった。


「ところでさ、黒瀬くんて兎ノ原さんと付き合ってるの?」


 核心を突いてくる。凪人は条件反射的に首を振っていた。


「いや、付き合ってない」


「ほんとにぃ?」


「好きだとは言ってない」


「賢明だね。じゃあさ――」


 再びチョークを持った福沢は黒板の右から左までゆらゆらと波線を描いた。水平線のつもりらしい。


「夏休みになったら海に行こうよ」


「海?」


「そ、真弓たちと一緒にさ。この前、新しい水着買っちゃったんだ」


 ここから海までは遠い。片道で電車二時間はかかる距離だ。往復するとなれば一日がかり。


「遠出できないならプールでもいい。なんなら湖でもいいし、水族館でもいい。とにかく水のある涼しそうなところに行きたい」


 今度は黒板を左から右へと駆け戻ってきて波を二重にする。どうしても行きたいらしい。


(海ねぇ)


 夏の海は決まって人混みがあるので好きではない。混雑した電車に揺られるのも苦手だ。湖やプールも同じで、発作がある凪人は落ち着かない。

 長期の休みは店番と称して自宅でゆっくり過ごすのが最良で、これまではずっとそうしていた。

 けれど。


「やっぱりダメ――かな」


 ためらいがちな福沢を見ていると申し訳ない気持ちになってくる。せっかく誘ってくれたのに自分の都合ばかり優先して断るなんて。


「分かった、いいよ」


「ほんと?」


「ただ例によって人酔いするから状況や場所によっては情けない姿を見せるかもしれない。迷惑かけないように気をつけるけど」


「そんなの全然いいよ。やった、デートだ」


 赤いチョークに持ち替えた福沢は流れるようにハートを描きながら再度黒板を横断した。


「…………デート?」


 凪人はぱちくりと目を瞬かせる。

 デートデートデート……あれ、と思考が止まる。

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