40.特別なプレゼント
もっと彼のことを知りたいと思ったのは事実なのに、あまりにも性急すぎて頭が追いつかない。
「い、行ってきます」
ずしりと重いお盆を手に、ゆっくりと奥へ向かう。
目隠しのための暖簾をくぐるとこざっぱりとしたリビングに出る。言われたとおり靴を脱いであがった。
凪人の生活空間だと思うと、自然とあちこちに目が向いてしまう。
親子二人には十分すぎるほどのリビングダイニング。観葉植物のパキラや料理本が詰め込まれた本棚、奥の机にはパソコンとプリンターが置いてある。
(……あ)
隅に置いてあるマガジンラックにアリスが表紙の雑誌が立ててあった。こんなところに「自分」がいるのだと思うと急に恥ずかしくなる。
(でもなんかズルい、私の知らないところで凪人くんの私生活見ているなんて)
自分でもおかしいと思うのに雑誌のAliceに嫉妬してしまう。それだけ凪人の生活を知らない。彼について知っているのは『母親と二人で黒猫カフェを営む同級生で、目立ったり人が多すぎたりすると嘔吐してしまう』ということくらいで、あとは全てアリスが収集したものだ。
(もっと知りたい、凪人くんのこと)
決意を固めたアリスは慎重に階段をのぼる。
突き当たりの部屋はなんの変哲もない木製の扉で、ドアレバーの感触から確かに鍵はかかっていないようだ。
片手でノックをしようとしたが、緊張しているせいでお盆から両手が離せない。
「凪人くん、アリスです。具合はどう」
仕方ないので声をかけた。しかし返事はない。
「入……ちゃいますよ」
肘を使ってドアレバーを回し、肩で扉を押し開けた。カーテンごしの日差しに布団にくるまる人影が映し出され思わず息を呑む。
(パパ以外の男の人の部屋に入るの初めて……)
ドキドキしながら足を踏み入れる。
勉強机の上や漫画本が収まった本棚は思いのほかきれいに整理されていて、桃子の手が行き届いているのが見て取れた。壁紙は男の子っぽいサッカーボール柄で、子どものころから変わっていないのだと思うと微笑ましい。
芝生のような緑色のカーペット踏みしめて近づくと足元でカサッと音がした。緊張していたせいで少しの音にもびっくりしてスリッパの下を見るといくつかの空袋が散らばっている。粉や漢方薬などの胃薬だ。
(こんなにたくさん飲んでるんだ)
制服のポケットに薬を常備していることは知っているが、これほどたくさん服用しているとは知らなかった。なにも言われなかった。なにも気づかなかった。
嘔吐して辛そうにしている凪人の姿を思い出すと胸がツンと痛くなる。
(同情とか、気遣いとか、そういうのは要らないって言うだろうけど)
ずっと我慢して生きてきたはず。
そう思うと、布団にくるまって規則的な寝息を立てる彼のことがどうしようもなく愛しくなった。
(寝てる)
傍らにお盆を置いて様子をうかがうと、凪人は背を向ける形で横向きになって眠っていた。鼻から下は布団に隠れているが、その分、長い睫毛とやわらかそうな目蓋がよく見える。
(かわいい)
子どものように無防備な寝顔。いつまでも眺めていられそうだった。
(眼鏡ないと顔つきが幼くなるよね。眼鏡も放り投げてあるし、お子ちゃまなのかな)
寝返りを打ったときに壊さないようにと思い、枕元に転がっていた眼鏡を拾い上げた。何気なく眼鏡越しに見た世界はひとつの歪みもない。度が入っていないのだ。
つまりダテ眼鏡ということだが、オシャレに無頓着な凪人らしくない。
(顔を隠したい、なにかをごまかしたいってことなの?)
それがなにを意味するのかが分からず、膝たちになってぐいぐい顔をのぞき込んだ。いまならキスしてもバレないかもしれない。
「……ぅん」
ふいに凪人が声をもらす。アリスは小さく悲鳴を上げて後ずさった。
続けておおきく寝返りを打った凪人はゆっくりと目を開け、両手を挙げたまま硬直しているアリスを捉えた。
「なに、してるんだ」
「な、な、なにも。なにもしてません。私は無実ですよ」
ガサガサと布団をめくって上体を起こした凪人はまだ眠気の方が勝っているらしく目が虚ろだ。なぜアリスがここにいるのかもよく分かっていないらしい。
「おれどれくらい寝てた?」
「えーと、三十分くらいかな」
「待っててくれたのか?」
「うん。しばらく忙しくなるから顔だけでも見たいと思って」
「そっか、ごめん」
(なんか素直……!)
いつもとは違う一面にソワソワしてしまう。寝起きの乱れた髪も気だるげな眼差しもすごくいい。ずっと見ていたい。
「アリッサのことだけど」
せっかく二人きりなのに別人の名前を出されてちょっとテンションが落ちた。凪人はベッドに腰掛けたままアリスと向き合う。寝ぼけ眼の向こうに不安そうな色が揺れていた。
「買い物に付き合っていただけなんだ。アリッサも黒猫が好きみたいでセレクトショップに入って……それで」
なんだか様子がおかしい。凪人はアリスから視線を背けるように立ち上がると引き出しを開けて「あるもの」を取り出した。ぞんざいに差し出してきたのは黒い紙に包まれた小さな箱だ。
「やる」
「なにこれ?」
「いいから開けてみろ」
強引に押しつけてくるのでとりあえず受け取り、言われるまま包みをほどく。
凪人は顔をしかめつつも落ち着かなそうにアリスの指の動きを追っていた。
「……あっ」
中から表れたのは黒猫がついた指輪だ。なにか言われる前にと凪人は早口になる。
「キーホルダーもらったから、その、お礼で。サイズとか好みとか、全然分からないから適当だけど」
しどろもどろの凪人をよそに指輪を手に取ったアリスは上から下からながめすがめつしたあと早速指に嵌めてみようとして、ぴたっと動きを止めた。
「どうした? 気に入らなかったか?」
「ううん。そうじゃなくて」
おもむろに膝で這っていき凪人に自らの手を差し出した。
「どうせなら凪人くんの手で嵌めてもらいたい」
「あ……そういうことか」
普段なら恥ずかしくて断る凪人だったが、まだ寝ぼけていて頭が回らなかった。なので差し出された手を素直に左手で包み、右手に指輪を持つ。
(細い指だな)
背丈が自分と同じくらいのアリスだが、その手は一回りほど小さかった。きれいに磨かれた爪は最低限のジェルが塗ってあるだけで、派手派手しいネイルが苦手な凪人には好印象だ。
「じゃあ、入れるぞ」
「うん。お願い」
ここだと主張するように持ち上げられた薬指にそっと指輪を押し込む。強引に入れたため関節で引っ掛かり、アリスが「んっ」と妙な声を上げた。
「もぅ、凪人くんって意外と乱暴なんだね」
「変な言い方するな」
なんだか恥ずかしくなってきたので無理やり奥へと納める。
「ふぅー」
指輪がちゃんと嵌まったのを見届けた凪人は大きく息を吐いた。無意識のうちに呼吸を止めていたらしい。安堵感とともに肩の力も抜けていく。眠気が覚めて冷静になったせいか指輪の不格好さが目についた。
「はは。ちょっと大きかったな、安物だし、ちゃっちい」
「ううん。すごく嬉しい。ずっと大事にする。百万円の指輪よりも大事にする」
「なんだよそれ」
「ううん、こっちの話」
たかが千円ぽっち(しかもオマケ)の指輪を宝物のように見つめるアリス。どうしてそんな幸せそうな顔をするのかと、凪人の胸が熱くなる。
「ね、またキスしよっか」
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