37.ただ声を聞きたい相手

 店員のニヤニヤとからかうような笑みが鼻についた。


「違います。知り合いの妹さんで買い物に付き合っているだけですよ」


「またまたぁ。下心なしにアリッサ・シモンの買い物に付き合う男なんていないでしょ」


 アリッサ・シモンという名前がすぐに出てきたことに凪人の方が驚いた。


「気づいて?」


「そりゃあユーチューバーだからね。すぐ分かったけど有名人でも一人のお客さんとして対応するのがモットーだから」


「じゃあレジの横に置いてある大量の色紙はなんですか」


「いやだな、サインくらい欲しいに決まってるじゃないか。ネットオークションで売りさばいたりしないよ。店内用と自宅用とトイレ用とネット用だよ」


 悪気なさそうにケタケタと笑う。


「それに店の前見てごらん、もうあんなに人が」


 店内がごちゃごちゃしているせいで気づかなかったがガラス戸の外にたくさんの人垣が見えた。明らかに出待ちをしているふうで隙を見てはスマホのシャッターを切っている。ご機嫌なアリッサがにこやかに手をふる度に嬌声があがり、それに気づいた通行人がさらに集まってくるという悪循環だった。


(まずい)


 後ろから押された一人がドンと扉をたたいた瞬間、胃がぶるりと震えた。




(――レイジ)




 凪人の脳裏に昔の光景がフラッシュバックする。


(レイジ、レイジ、レイジ)


 視界を埋め尽くす人だかり。伸びてくる手。異様な空気。興奮した目、目、目。



 息ができない。



「きみ大丈夫?」


 声をかけられたときには胃の逆流を感じていた。こんなところで、という焦りがあっても嘔吐の波は止めようがない。


「……どこ、ですか」


「うん?」


「トイレどこですか、トイレ、早くッ」


 それだけ言うのがやっとで、店員が示した店の奥にトイレに駆け込むのと胃の内容物を吐き出すのはほぼ同時だった。


 焼けつくような痛みが後から後からあふれてくる。羞恥心もなにもない。体が拒絶したものを気が済むまで吐き出すしかないのだ。


「……っは、はぁ」


 嵐のような一瞬が終わって残るのは立ち上がるのも億劫なほどの倦怠感と喉の不快感。そして店のトイレで嘔吐してしまったという自己嫌悪だ。


 立ち上がることもままならず、ただひたすらに呼吸を整える。


(――やっちまった)


 レイジをやめて間もなかったころ凪人は出先でもしょっちゅう粗相をしていて、その度に母が周囲に平謝りしながら嘔吐物を回収していたのを知っている。自分だけでなく周りにも多大な迷惑をかけてしまう。だから出掛けるときはいつも用心していたのに。


(なんでいつもこうなんだ。なんで)


 はげしい後悔に苛まれる一方で、いつまでもこうしていられないのは分かっている。

 アリッサがいると通行人に気づかれた以上、人だかりは消えないだろう。どうにか押しのけることができたとしてもいつまた吐いてしまうか分からない。


「ナギ、平気?」


 いつの間にかやってきていたアリッサが寄り添うようにして背中を撫でてくれた。


「やめろよ……、汚いぞ」


 遠回しに拒否したつもりだったがアリッサの表情は穏やかだ。


「アリスも小さいころよく吐いてた」


 初耳だった。


「アリスは緊張するとすぐにトイレに駆け込む。ゴメンナサイっていつも謝ってた。レイジの観覧に行ったときだってものすごく緊張して、でもレイジに変なところ見せたくないって我慢してた。番組が終わるなりトイレに駆け込んだせいで、サインをもらえる番号抽選に当たったのにもらい損ねた。あたしはこっそり番号を取り替えてサインをもらったの。アリスはものすごく大泣きして後悔して――急に強くなった。それまではワガママなんてほとんど言わなかったのに、レイジを待つってはっきり言った、あんなアリス見たことなかった」


 思い出す。

 雨の中でレイジを待っていたアリスを。

 自分の顔を見た途端ぽろぽろと泣き出したアリスを。


「アリスは強くなった。モデルになりたい、レイジに会いたいって自己主張するようになったし、自分がしたことに責任をもつようになった。同時に弱音も吐かなくなった。なんでも我慢できるようになった。あたしとパパがフランスに行っちゃうときも泣かずに手を振ってくれた。あたしはちょっぴり淋しかった」


 アリッサの目はここではない遠くを見ている。けれど背中を撫でる手が止まることはなく、凪人は助けてもらうありがたさを感じていた。


(こんなに落ち着くものなんだな)


 体だけでなく心が軽くなる。自分は時々嘔吐してしまう「汚いもの」という認識が心のどこかにあって、他者との関わりを知らず知らずのうちに避けてきたのだ。そんな自分をアリッサは労ってくれる。アリスも最初からそうだった。こんな自分に一目惚れして、キスをしてくれた。


(アリスに会いたいな)


 どうしようもなくアリスの声が聞きたいと思った。眩しい笑顔を見たいと思った。アリスの存在は自分の中でそれほどまで大きくなっているのだ。


「ナギ、立てそう?」


 アリッサの手を借りてゆっくりと立ち上がる。胃の不快感はまだ残っていたが手足は軽い。店員が顔を出して入り口とは反対側を指さした。


「裏にタクシーつけてもらったよ。もう平気かい?」


 凪人は頭を下げてわびる。


「ご迷惑おかけしてすいませんでした」


「うんうん顔色も良くなってるね。良かった良かった。またおいでよ」


 店員に見送られて裏口からタクシーに乗り込んだ。行き先は凪人の家だ。シートに背中をもたれながら携帯を操作する。


「ちょっと電話をかけてもいいか?」


 アリッサと運転手に了解をとってから番号をプッシュして発信した。相手はアリスではなく柴山だ。前にもらった名刺の番号に初めてかける。三コールも待たずに応答があった。


「仕事中にすいません。もし休憩時間になったらアリスと話したいと思って」


 すると電話口で柴山の笑い声がした。


『だから遠慮してオレにかけてきたのか? 律儀なやつだな。アリスはプライベート用の携帯をつねに持ち歩いていつでも電話に出られるようにしているっていうのに』


「それでも撮影中や生放送では出られないでしょう。おれだってアリスの邪魔になりたくないんです。だから」


『もしもし凪人くん!』


 突然大声が聞こえて思わず電話を遠ざける。鼓膜が破れるかと思った。


『あっごめん。興奮して叫んじゃった。あのね、いま休憩中。五分くらいしかないけど話できるよ。あのあと大丈夫だった?』


「あぁ、うん」


 隣にアリッサがいると話すべきか一瞬悩んだ。アリッサは例によって『黒猫探偵』の動画に見入っている。


『心配してたんだ。パパはともかくママは怖いでしょう。なにか不快な思いをさせたんじゃないかと思って。アリッサのことは気にしなくて大丈夫だよ。あの子はマイペースに見えて意外としっかりしているし、日本語もばっちりだから。私がいなくても――あぁごめん。凪人くんがくれた電話なのに私ばっかり喋っちゃった。そうじゃなくて、ええと、ご用件は何でしょう?』


 電話の向こうでパニックになっている様子が想像できる。つい笑みがこぼれた。用件なんてない。ただ声が聞きたかったのだ。


「大した用じゃないんだけど、今度ウチに来ないか?」


『黒猫カフェに?』


「じゃなくて、おれの家」

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