38.黒猫カフェに現れた悪夢
一瞬間が空く。
『凪人くんの家って、え、もしかしてお付き合いのご挨拶』
「ちがう。今回のお礼をしたいだけだよ。食材勝手に使わせてもらったからなにかご馳走したいと思って」
『もしかしてそのままお泊まり――』
「お泊まりはなし」
『えー』
「そのかわり家までちゃんと送っていくから」
『じゃあそのままお泊ま――』
「あんまりしつこいと電話きるぞ」
『えー』
なぜだろう。アリスと話していると突っ込みばかり入れてしまうのに、それが楽しくて仕方がない。アリスの声がこんなに澄んできれいだったとは気づかなかった。
「だからいつでも遊びに来いよ。待ってるから」
『うん、ありがとう。必ずいくよ。あ、そろそろ休憩終わるから電話切るね。だから最後に――』
やはりこうきたか。あらかじめ予期していた凪人は小さく息を吸い込んだ。
「がんばれ。応援してる」
『――うん、行ってきます。また今度ね!』
気合い十分のアリスが携帯を投げたらしく、柴山がなにやら叱っている間に電話が切れた。まるで嵐のようだ。けれど荒々しい嵐ではなく、人の心を揺さぶるような青嵐に近い。
「電話終わった?」
スマホから顔を上げるアリッサ。その上半身を覆う不細工な猫のTシャツも、よく見れば可愛い(気がする)。
「それアリスにも買ってやれば良かったな、お揃いで」
「……は?」
アリッサは不快そうに眉を動かし、目を細めて顔をのぞき込んでくる。
「ナギはバカ?」
「バカってなんだよ」
「二人で買いに行けばいいじゃん」
言われて「あぁそうか」と納得してしまった。そう、いつでも行けばいいのだ。二人で。アリスはきっと黒猫グッズに大喜びするだろう。
(そのときまでにはもう少し我慢できるようにならないと)
そっと胃を撫でる。アリスはきっと気遣ってくれるだろうが、迷惑だけはかけたくない。これは男としての意地だ。
(いつか、いつかちゃんと、乗り越えないとな)
発作の原因となったあの「事故」を。いつかは。
タクシーは渋滞にはまってゆっくりと進んでいる。家に到着するまでにはまだ時間がかかりそうだった。
「ナギ」
ふいに名前を呼んでアリッサが身を乗り出してくる。視線が交わる直前に頬に生暖かいものが触れた。
「いまの、キ――」
「Thank you ナギ。今日はありがとう」
アリッサの表情があまりにも穏やかなので抗議しそびれる。
「明日の飛行機で発つから、アリスのことはよろしく」
「お、おぅ」
はっきりとは断言できないが、とりあえず任されたらしい。
アリッサは笑う。それは家族の誰にも見せない、心からの笑顔だった。
(さよならレイジ。Good-bye My First Love)
※
アリスから着信が入ったのは翌日の昼過ぎのことだった。
客のいない店内で暇を持て余していた凪人は母親の了解を得て電話に出る。
『ごきげんよう黒瀬凪人くん。折り入ってお話があります』
電話口のアリスはやけに丁寧な口調で憤っている。
「なんで怒ってるんだ?」
『自分の胸に手を当ててよぉく考えてみたらどうですか?』
「胸……?」
分からない。ちっとも分からない。
『いまからお店行くから、どういうことなのかきっちり説明してもらいますからね!』
事情が分からないままプツッと電話が切れる。きっと驚くべき早さでやってくるだろう、それこそ台風のように。
カウンターにいた母が「あらまぁ」と頓狂な声を出す。
「アリスちゃんが怒っているのは昨日のコレじゃないかしら?」
そう言って示されたスマホには誰かのブログが載っている。内容は。
『大ニュース! 今日アリッサ・シモンがぼくの店に遊びに来てくれたんだよ。すっごくいい匂いが漂って最高にエキサイティングだった!』
『アリッサ・シモンはぼくが作ったTシャツを気に入って買ってくれたんだ!』
『男連れだったけど付き合ってはいないみたい。ラッキー』
(あの店員かッ)
アリッサが店に来てからの一部始終がブログに記載されていた。トイレで嘔吐したことはさすがに書かれていなかったが、こっそり隠し撮りしたと思われる写真にはアリッサと半分見切れた凪人の姿が映っている。
「このブログの効果でお店に人が押しかけて大変らしいわ。商売上手よねぇ」
感心しながらも母の笑顔が怖いのは、息子が載った写真を無断で掲載したことではない。
「で、このアリッサさんとはどういう関係なのかしら? 凪人」
「アリスの妹だよ。観光案内していただけだ」
「腕を組んで?」
「腕なんて組んでな――うわっ、「ちょっと見て」って袖引かれてた決定的瞬間じゃないか!」
「お母さん悲しいわ。いくら二人とも美人だからって二股かけるなんて。そんな子に育てた覚えはないのに」
「聞けよ、ちがうって」
「言い訳なんか聞きたくないわ。アリスちゃんが来たらめいっぱい叱ってもらうといいのよ」
半笑いの母は泣き真似をしながら奥へと引っ込んでしまう。
どうしてこう面倒くさいことになってしまうのだろう。
(落ち着け、ここで慌ててどうする。そんなことしたら余計に怪しまれる――いやいや怪しまれるってなんだよ。おれは無実だ)
冷静になりたいのに益々パニックになっていく。
結局心の準備もできないままチリリ、とドアベルが鳴った。
(来たッ)
凪人は冷静を装って笑顔で待ち構える。ゆっくりと扉が開いて人影が現れた。
「まず説明させてくれ。アリス、あれはな――」
しかし口をつぐんだ。
現れたのは赤縁の眼鏡に紺色のスーツを身につけた小柄な女性だ。どこからどう見てもアリスではない。
すぐに人違いを謝ろうとしたが、言葉が続かない。
ただの客……そう言い切れないほど彼女のことをハッキリと覚えていたからだ。
「なんで、ここに、なんの用で――」
問いかける声は震えた。声だけでなく全身が制御を失って細かく揺れる。体中から血液が抜き取られているみたいに寒気がした。
「黒瀬凪人くんですね。お久しぶりです、すっかり大きくなって」
女性もすぐに気づいたらしい。正面で向き合うと背の高い凪人が見下ろす形になるので不思議な感覚だった。あのころは塔のように見上げるしかなかったのに。
「元・マネージャーの顔を覚えていて下さって光栄です」
カツ、とヒールを慣らして女性が近づいてくる。
くらくらと目眩がして、気を抜けば後ろに倒れてしまいそうだった。しかし相手はそんなことには気づかず、まるで王の使者でも気取るように仁王立ちになって凪人を見つめる。
葉山の桃色の唇がゆっくりと吊り上がった。
「今日は、小山内レイジに用があって参りました」
(つづく)
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