35.正体がバレました
「が、がんばれよ仕事」
アリスを直視できないまま精いっぱいエールを送った。ややあって返事がある。
「――ありがと。これ、お礼」
チュッと頬に口づけされたが、あまりにも一瞬のことで凪人はリアクションすら忘れた。アリスは恥ずかしがるように外へ飛び出していき、
「よぉーし、がんばるーぞー」
マンション中に響き渡るような声が聞こえたのでこっちが恥ずかしくなってきた。
一体何をやっているんだろう。これではまるで恋人同士だ。
「ナギ」
「うわ、わわわ、もうやめてくれよー……」
背後霊ばりに声がしたので腰が抜けてへたり込んでしまった。アリッサである。
「ナギはアリスのボーイフレンド?」
単刀直入に尋ねてくる。流暢な日本語だ。
ターコイズの瞳はアリスと同じだが無表情な分、真意が読み取れない。
「……いや、まぁ……うん、そう、かもな」
先ほどの一部始終を目撃していたかも知れず、変に言い逃れもできない。
とは言え、自分はまだアリス本人に気持ちを伝えていないのだ。
「アリッサ、なにを話しているの」
足音をさせて近づいてきたのは母親だ。アリスがいたときよりも更に表情が険しくなっている。よくよく考えればアリスが去り、鍵が手元に戻った以上ここに長居する理由はないのだ。
「仕事が終わったので帰ります、失礼しました」
気持ちばかりの挨拶をして、アリスの部屋で自分の荷物を抱えて玄関へと向かう。
途中の部屋から父親が顔を出した。
「マタオイデー」
「マイケル、余計なこと言わないで」
苦笑いだけで済ませ、早々に家をあとにする。
外の空気を吸った途端、ふと肩が軽くなった。
初めてのことばかりで知らぬ間に肩に力が入っていたらしい。
(あれがアリスの家族か。お父さんは良さそうな人だけど、お母さんと妹はドライで冷たい感じなんだな)
しかも離婚しているという。
不機嫌を隠そうともしない母親の下で育ったアリスがあんなに明るくて礼儀正しいのは、モデルという職業柄もあるが本人の努力が相当大きいはずだ。
(がんばれよ、アリス)
廊下の突き当たりまでいくと丁度エレベーターが到着したところだった。中に入って「閉」ボタンを押したとき、何者かの腕が伸びてきて扉が反応した。
再び開いた扉から乗り込んできたのはアリッサだ。ショルダーバッグをかけ、出掛ける格好をしている。
アリッサは無言のまま凪人に一瞥をくれ、エレベーターの壁に体を預けた。
「……一階でいいのか?」
返答はない。なにを考えているのか理解できないまま「1」のボタンを押したが、ゆっくりと下降していく箱の中は気まずい空気が流れる。エレベーターはこんなに時間がかかるものだろうか、まるで永遠のようだ。
「密室」
唐突にアリッサが口を開いた。手元のスマホに視線を落としている。まっくろ太を思わせる黒猫のストラップがぷらぷらと揺れている。
「エレベーター密室消失事件、あったね」
「エレベーター……? しょうしつ……? 一体なんのことだ?」
困惑する凪人の前に示されたスマホの画面には『黒猫探偵レイジ――エレベーター密室消失事件の謎を追え――』の動画が流れている。レイジの知り合いの女の子が自宅マンションのエレベーター内から忽然と姿を消した事件だ。
困惑する凪人を前にアリッサの顔に笑みが浮かぶ。それは初めて見る表情らしきものだった。
「全然変わってない。すぐ分かった、レイジだって」
※
音もなく停止したエレベーターがゆっくりと扉を開ける。一階だ。広いエントランスを抜けるとたちまち人の波に飲み込まれそうになる。
「ナギ、こっち」
先に歩き出したアリッサが凪人の家とは反対方向へと進んでいく。ついてこい、という意味だろう。
(どういうつもりだ)
自分を見てハッキリと「レイジ」と言った。なにもかも承知しているように。
アリッサを警戒しつつ数メートルの後ろをついていったが、人波に混じってもその姿を見失うことはなかった。
突き抜けるような長身に細い肩、サラサラとした絹のような髪の下に覗くうなじ。長身の外国人観光客に慣れているはずの日本人たちも時々振り返って顔を確認してしまうほどだ。大きなサングラスで眉や目元を隠していてもスッキリした鼻筋と肌の白さは隠しようがない。
「ナギ、ここ入る」
とあるビルの前で立ち止まったアリッサは、凪人が追いつくのを待って階段をのぼりはじめた。全身の半分はありそうな長い脚がカツカツとテンポ良く上がっていくのが不思議に思えた。
(ここって)
階段を上りきったところにある自動扉が開くとひんやりとした空気が二人を包み込んだ。
そこは。
「いらっしゃいませー。ご注文をどうぞー」
ただのハンバーガーショップだ。
アリッサはメニュー表を一切見ずに、
「クリームソーダとポテトLサイズ三つ。クーポンで」
と述べると高そうなコートのポケットから丁寧に切り取られたクーポン券を取り出した。今朝の折り込み広告にあったものだ。
「ナギはどうする?」
突然訊かれて慌ててメニュー表を見る。
「あ、じゃあシンプルセットで」
「ありがとうございます。クーポンのご利用で、合計2,100円になりまぁす」
「ナギ、お財布」
「おれが払うのかよ!」
言われるがまま2,100円を支払わされた凪人はドリンク&ポテトと自分のシンプルセットをトレイにぎちぎちに乗せて抱えて席を探した。アリッサは手でも洗いに行ったのか姿を消している。
ちょうど窓際のカウンター席が並びで空いていたのでそこに腰かけた。
(一体何なんだよ)
自分のポテトを頬張りながらどこへともなく怒りをぶつける。フランスでは有名だとアリスは言っていたが、ここは日本。人気者気取りでは困る。
『ここで大ニュースです。なんと世界的な大女優が試写会のため緊急来日してくれました!』
向かいのビルにある大型ビジョンにやたらテンションの高いアナウンサーが映し出されていた。特に見るものもない凪人はドリンクを飲みながら画面に見入る。
『では登場です。ボンジュール! ビアンヴェニュー! アリッサ・シモン』
『コンニチハー』
「ぶふっ!」
画面の端から手を振りながら現れたアリッサの姿に噴きそうになった。
間一髪こらえたところで隣に人影が現れる。
「ナギ、きたない」
「アリッ……!」
大画面と目の前にいる人物はまったく同じ。違うのはサングラスをかけているかどうか、それだけだ。
『アリッサ・シモンさんはフランスを代表する大女優ですが、今作では全米興行収入第一位を獲得されたんですよね。演じてみていかがでしたか?』
『難しかたですけど、楽しかたですー』
『わぁ、日本語がお上手ですね』
『日本ダイスキです。イショケンメイ勉強しましたー』
いやいやいやいや。
凪人は突っ込みを入れずにはいられない。
アリッサは両親が離婚するまでアリスとともに日本にいたのだ。日本語が得意なのは当たり前のこと。
隣に座ったアリッサは黙々と、しかしかなりのペースでポテトを消化していく。朝食をおかわりしたくせによくぞこんなに食べられるものだ。
『ご出演の映画【milk】は生き別れの姉妹が同じ相手を好きになってしまうというストーリーです。英語の【こぼれたミルクを嘆いても仕方ない】という諺からタイトルがつけられたそうですね。日本には覆水盆に返らずという諺がありますが、あなたにはそんな後悔していることがありますか?』
『んー、いぱいありすぎて覚えてマセン』
「なぁアリッサ。さっき言ってたことだけど」
最後のポテトに手を伸ばしたアリッサに問いかける。
「おれのことレイジって言ったよな。なんで?」
「レイジはレイジだから」
アリッサが目線を落とすスマホでは相も変わらず『黒猫探偵』の動画が流れている。年齢は違えど同じ人間なのだから顔つきが同じなのは仕方ない。だからこそ凪人は前髪や眼鏡で誤魔化してきたのに、見る人が見れば本人だと分かってしまうものなのだ。
「あっ」
突如、アリッサの体が大きく震えた。
何事かと覗き込むと瞳を潤ませて大粒の涙を流している。
「どうした、なにかあったのか?」
つい心配になって声を掛ける。すると。
「ポテト、終わっちゃった……」
(ポテトかい!)
三箱をあっという間に平らげたアリッサ。その魔の手が凪人のポテトに伸びてくる。抵抗せずに渡そうとしたところで反射的にストップをかけた。
「ポテトをやってもいい。だから頼む。おれがレイジだってことをアリスには言わないでくれ」
「どして?」
不思議そうに首を傾げつつも指先はポテトを狙っている。
「もし黙っていてくれるのならポテトのLサイズを追加で買ってきてもいい」
「Sure」
即答したアリッサはもう片手で凪人の手をはねのけて無事にポテトをゲットした。
美味しそうに頬張る姿を見ていると信用していいのか不安だったが、いまは信じるしかなさそうだ。
自分が「レイジ」だということを知られたくない。
知られたら最後、きっとなにかが変わってしまう。それは漠然とした不安でしかないが、いまのままではいられないのは確かだ。
もうしばらくは、アリスのことを好きなただの黒瀬凪人でいたい。
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