34.魔が差しただけ

「アリサはズルいの。私、髪や目の色のせいで小学校に入学してから一年間ずっといじめられていたのに、翌年アリサが入学して来た途端、可愛い可愛いってみんなチヤホヤしてさ、私がどれだけ辛い目に遭ったかも知らずに人気者気取りで過ごしていたわけ。レイジのサインだってアリサが最初にもらったし、告白された回数だってアリサの方が多い。私が好きになった男の子とアリサが手をつないでいるところを見たときなんてしばらく口きかなかったもん」


 ぷくーと頬を膨らませるところを見ると妹に比べて損をしていることが不満なようだ。


「それに一緒にモデルになろうって約束したのにパパとフランスに行っちゃって、マネージャーのパパのお陰で向こうじゃ大人気らしいよ。私なんてあちこちのオーディションに落ちてやっといまの事務所に入れたのに。ズルいよ、パパを独り占めして」


 拗ね方だけ見ると小学生のようだが、妹のことを「嫌い」と言ったアリスの想いは一つではないようだった。嫉妬も強いが、父親をとられた寂しさや離れ離れになった悲しさのほうが強い。


「もしかして前に言ってた『負けたくない相手』ってアリッサのことか?」


 「そうだ」というようにこくりと頷く。


「だとしたらもう勝っているんじゃないか? フランスでは有名かもしれないけど、おれはまったく見覚えないよ。言われれば姉妹だって分かるけど顔もそれほど似てないし」


「……凪人くんは知らないだけなんだよ、アリッサ・シモンのことを」


 そのときアリスの携帯が鳴った。

 相手は柴山だったらしく、応対したアリスがハキハキと受け答えしている。


「凪人くん、昨日の落とし物やっぱり鍵だって。柴山さんが事務局で受け取ってくれて、もうすぐこっちに着くらしいよ」


 鍵と聞いて一安心した。これでようやく家に入れるのだ。


「あとでお礼言わなくちゃな。柴山さんが来るってことはアリスの迎えだろ、そろそろ支度しなくていいのか?」


「あ、うん。する……けど」


 上目遣いにアリスが見つめてきた。ぎくりとする。なにかを期待している目だ。


 案の定、


「キスでも、しない?」


 軽い調子で尋ねられ「はぁ!?」と仰け反った。


「……ダメ?」


 アリスは後ろ手に指を組んで恥ずかしそうにおねだりしてくる。


「ダメもなにもさっき納豆食べてたよな」


「ちゃんと歯磨きしたもん! それに大豆は畑の肉なんだよ、健康維持のために納豆は大事だもん。見てよこのきれいな歯並び」


 唇をつまんで歯を見せようとしたので「見た見た」と応じた。

 納豆を理由に受け流したが、本心では自分がビビっているだけだ。昨夜は花火の余韻でなんとなくキスしてしまったが、ことあるごとにキスするほど強心臓ではない。だからといって昨晩のような強引なキスも勘弁してほしい。


 しかしアリスは諦めずに粘る。さすが納豆を食べただけはある。


「言っておくけどキスなんて海外じゃ当たり前なの。フランスでもビズっていう挨拶があって、できて当然のマナーなんだよ。私だってフランス人のパパの血が入ってるもん」


 その言い分にはかなりの無理がある。自分はフランス人だと言うのならアリスはクラスメイトにもまんべんなくビズをしなくてはおかしい。しかもビズは頬を合わせて音を立てるだけでキスではない。


 無言で抗議の目を向けていると、自身の言い分を苦しく思ったのかアリスの目線が不安そうに下がっていく。


「だって……初めてのお泊りなのに何もなかったし厳しいレッスンを前にしてキスくらい欲しいじゃん。だめならハグだけでも」


「じゃあハグで」


「もぅ、二択じゃないのにッ」


 安易に妥協案を出してしまった自分を悔やむアリスだったが、結局そういうことになった。


 仕切り直して互いに向き合う。そこまでは良かった。その場の勢いや感情の昂ぶりによるハグなら簡単だが、冷静な状態でいざ対峙してから「さぁハグしましょう」のなんと難しいことか。

 二人は互いに硬直したまま見つめ合っていたが、埒が明かないと踏んだ凪人が先に両手を広げた。


「こ、来いよ」


「いいの?」


「おまえが言ったんだろ、ハグって」


「じゃ、じゃあ、遠慮なく」


 歩幅を短くしてアリスがそーっと懐に入り込んでくる。凪人は肌に触れてくる感触をなるべく意識しないようにしながら肩に両手を回した。抱くというよりは薄い膜を隔てて包み込むような感じだ。たったそれだけでも心音が早くなる。


「はぁ落ち着く」


 一方のアリスは背中に手を伸ばしてさらに密着しようと試みる。


(くっつきすぎだ!)


 避けようとした凪人は腹を凹ませて後ずさりするがアリスは負けじと一歩踏み出してくる。そんな攻防を繰り広げていた二人は他の人がいることをすっかり忘れていた。


『アリス、お客さん』


「うわっ」

「きゃっ」


 突然背後から聞こえた声に驚き互いを突き飛ばして尻餅をつく。呼びかけたアリッサはキッチンの入口の前に立っていて、何事もなかったように口を開いた。


『アリス、柴山さんって人が来た』


「あ、柴山さんね。OKOK」


 我に返ったアリスが廊下へと飛び出していく。遅れて追いかけようとした凪人は痛いくらいの視線に気づいた。アリッサだ。大きな瞳を瞬かせ、何事か訴えるように見つめてくる。


(まさか疑っているのか? おれがレイジかもしれないって)


「凪人くん鍵届いたよ。確認して」


 廊下から呼びかけられたのでアリッサの横をすり抜けたものの、変わらぬ視線に妙な汗が流れた。

 玄関で待ち受けていた柴山は凪人を見るなり「ほらよ」と鍵を放り投げたので慌ててキャッチした。キーホルダーもなにもついていない質素な鍵だ。


「はい、間違いないです。ありがとうございます」


 これでやっと家に帰れる。


「良かったね」


 凪人の顔と鍵を交互に見たアリスが笑みを浮かべる。


「アリスもありがとうな、泊めてくれて」


「そんなのいいよ」


「ほら、朝からイチャイチャしないで支度しろ、あんまり時間ないんだぞ」


「はーい」


 催促されたアリスは慌ただしく自分の部屋へと戻っていく。玄関に残った凪人はもう一度柴山にお礼を言った。


「お手間かけてすいませんでした。本当にありがとうございます」


「いいって。そのかわり今日は家まで送ってやれないけどな」


「お気遣いなく。歩いて帰りますから大丈夫ですよ」


「そっか。それで……どうだった?」


 ニヤリと不気味な笑みが浮かぶ。とてもマネージャーとは思えない。

 凪人は肩をすくめて見せた。


「なんにもありません。お互い疲れていたのですぐ寝ちゃいましたよ」


 ズルい大人の目論見通りにはいかないと肩透かししてやろうと思ったのに、柴山の笑みがさらに深くなった。


「そんなことだろうと思った。アリスの顔見りゃ分かるよ」


 さすがマネージャー。アリスと顔を合わせただけですぐに読み取れてしまうのだ。恐ろしい。


「先に車に行ってるって伝えてくれ」


 玄関扉を開けて立ち去りかけた柴山は思わせぶりに凪人を振り返った。


「奥手な黒瀬くんには難しいかもしれないが、たまにはアリスを甘えさせてやってくれよ。ちょこちょこ仕事も増えてきたし、ドラマも決まったらあんまり会えなくなるんだぞ。おまえは良くてもアリスの充電はすぐに切れちまう。しかもアリッサっていうライバルが目の前にいたら自分の力量以上に頑張っちまう。だから頼むな」


 返答など聞きもせず出て行ってしまう柴山は、遠回しに発破をかけてきたのだ。それくらいは凪人にも分かる。


「お待たせー」


 着替えを済ませたアリスが駆けてくる。青のノースリーブに白い肌が映え、華奢な体にミルクティー色の髪と瞳がより一層強調されて見えた。


「あ、これ。良ければ使って」


 差し出されたのは黒猫を模ったキーホルダーだ。なにもアクセサリーがついていない鍵を見て気を遣ってくれたのだと分かる。


「これですぐ自分のだって分かるでしょう。しかも暗闇だとうっすら光るんだよ」


 光を受けるとキラキラと輝く。確かにこれなら無くさないだろう。


「サンキュな。あ、柴山さん先行ったけど」


「うそ! 急がないと」


 アリスはシューズボックスを開けると白いミュールを引っ張り出し大急ぎで足先を収める。


「っと、とと」


 あまりに急ぎすぎたため立ち上がった瞬間ふらっとよろめいた。


「あぶなッ」


 とっさに凪人が背中を支えると香水のような甘い匂いが広がった。唇に薄く紅を引いたアリスの顔がすぐ間近にある。驚いたようなターコイズの瞳に視線が引き寄せられる。



 いまなら――と魔が差して、耳たぶにキスをしてしまった。



 ハッと我に返ったのは呆然としていたアリスの顔が果実のように赤くなったせいだ。触れられた部位に触れ、信じられないとばかりに目を見開いている。


「いま、なにしたの」


「ビズだよ。ビズ」


「でも、耳に」


「ビズ!」


 凪人自身、冷静になろうとしても顔の火照りがおさまりそうにない。あまりの恥かしさに顔を覆った。いっそ逃げ出したい。

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