32.突然の美女
『女の子が雨の中でぼくを待ってる?』
夢の中の凪人は小山内レイジに戻っていた。
スタジオ収録を終えて帰ろうとしたところ、マネージャーの元に困り果てた様子の受付スタッフが駆けてきたのだ。
『先ほどの収録でサインをもらえなかった子だと思いますが、何度言っても玄関前から動こうとしないんです。親御さんも近くにいますが日本人ではない方で、娘の気持ちを尊重し気が済むまでここで待たせてもらうと聞き入れてくれません』
『困りましたね』
マネージャーの眉根の皺が深くなる。
機嫌が悪いと少しずつ濃くなっていくマネージャーの皺を凪人はこっそり「葉脈」と呼んでいた。怒ると怖い彼女の名前が「葉山」であったからだ。
『出待ちすればサインがもらえるという前例を作りたくはないのですが』
その葉脈を額いっぱいに広げたマネージャーは肩をおおきく上下させて息を吐き出した。
(ぼくなら喜んでサインしてあげるのに)
大人の不機嫌さを目のあたりにした凪人は自然と委縮する。彼女を怒らせないようにしなければ、と暗い気持ちになった。
『凪くんは優しいのね』
凪人の心を察して軽く肩を叩いてくれたのは付き添いの母・桃子だった。安心させるような笑みを浮かべた後、マネージャーの元に歩み出る。
『葉山さん、そんなにカッカしなくてもいいじゃないですか。現場に押しかけてきたんじゃなくて観覧に来ていた女の子でしょう? 今回だけは例外で』
『ですからその例外を作りたくないと言っているのですが』
『そうおっしゃらないで。レイジもこう言っています、『ぼくは鳴いている猫と女の子の味方』だって。葉山さんだってそんな怖い顔をしては可愛らしいお顔が台無しですよ。まだ二十代でしょう、スマイルスマイル』
母のペースに巻き込まれると葉山も強く物が言えない。
『……分かりました。今回だけですよ』
こうして最大の難関である葉山を攻略した凪人は、受付スタッフに案内されてきた少女とロビーで出会った。
少女の髪色を見た瞬間、凪人は「あれっ」と声を上げる。
『きみ、さっき色紙をプレゼントしなかったっけ?』
抽選に当たった数人に色紙を手渡しした際、ミルクティー色の髪をした可愛い女の子がいたことを覚えている。二枚もサインをもらうとしたらなんてずるいんだ、そう非難しそうになったとき、少女の目にたくさんの涙が溜まっていることに気がついた。
『あれは妹。私じゃない。どうしてもどうしても欲しかったのに、当たったのは妹だったの』
雨ですっかり冷たくなった体を震わせ、少女は声を絞り出した。
そう言われれば髪型も服装も違う。
凪人は自分の勘違いを謝り、ポケットからティッシュを取り出した。
『ごめん、お詫びにキミのお願いを一つだけ聞くから許してよ。ぼくは鳴いている猫と女の子の味方なのに泣かせたとしたら怒られちゃう』
『ほんと!?』
ぴたっと泣き止んだ少女は一転して笑顔を浮かべた。
『じゃあサインの横にまっくろ太を描いて』
『え、イラスト苦手なんだけど……がんばるね』
『あとね、アリスちゃんへって書いて』
『あ、うん』
『それとね』
『えーまだあるの?』
お願いは一つだけと言ったのに、少女は次々と要望を出してくる。辟易していた凪人をよそに少女の笑顔が明るく咲き誇った。
『将来およめさんにしてください!』
※
うっすらと目を開けると見覚えのない壁が目に飛び込んできた。
(……壁?)
やたらと体が痛いし床は冷たい。
それもそのはず、廊下に寝そべって眠っていたのだ。何故こんなところにいるのか。
(あぁそうだ、アリスに迫られて逃げ出したんだ)
いまも思い出すだけで顔から火を噴きそうになる。
高一の自分に一体なにを期待すると言うのか。そりゃあアリスがもし自分以外の男を連れ込んだとしたら穏やかではないが……。
(やめやめ、やめ!もう考えない。飯作ろ)
おかしな考えを振り払って立ち上がる。念のため扉を開けて中を確認してみた。
「う……ん」
すぐ近くで声がしたので首を伸ばして見てみると、アリスが壁により掛かって眠っていた。ベッドの上ではなく、わざわざ凪人と背向かいになる形で就寝したらしい。
(変なやつ)
昨夜とは打って変わって天使のような寝顔を見ていると思わず笑みがこぼれる。
(前に会ってたんだな)
夢に見た幼いころのアリスとまるで変わらない。
ヘンにしつこいところも、調子に乗ると図々しいところも、小山内レイジが好きでたまらないところも。
音を立てないようにそっと扉を閉めてからキッチンへと向かった。
他人の家の冷蔵庫をあさるなんて失礼だと承知しつつ、どんな形であれ泊めてくれたアリスにお礼をしたかった。幸いにも冷蔵庫には十分なだけの食材が入っている。
(鮭に豆腐、へぇ、和食好きなんだな。ご飯は炊飯器に保温されていたけどパサついてる、炒めてチャーハンにでもするか)
母子ふたりの生活とあって料理を作る機会は多い。凪人は慣れた手つきでチャーハン・味噌汁・焼き鮭、漬け物などを用意していった。
時刻は七時。そろそろアリスを起こそうと思っていると廊下で足音がした。
「アリスちょうど良かった、使っていい食器や箸って――」
「What's?」
「ワッツじゃないだろ、なに外国人みたいな言――」
足音の方を見た凪人は硬直した。
そこに佇んでいたのはアリスではなく、すらりと背の高いおかっぱ頭の美女だった。
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