31.キスのつづき

「緊張してるの? 大丈夫、私も同じだよ」


 アリスは硬直したままの凪人に歩み寄り、軽く体を委ねてきた。


「この部屋に男の人を入れるの初めてなんだよ。パパですら入ったことない。それどころかウチに家族以外の人が来るなんて、ましてや招き入れるなんて……」


 ぎゅっと腰に抱きついてくる。もう身動きがとれなかった。


「だからもう一回、してほしいな」


 甘えるように瞳を潤ませる。


「な、なにを」


「だからキス――、したいです」


(そんなの無理だー!!)


 いまだって頭が沸騰しそうなのにキスなんてしたら歯止めがきかなくなりそうだ。

 そんなことになったら――。


 そのとき、凪人の脳裏である考えが閃いた。


(歯止め?――おぉ!いいこと思いついた!)


「ごめんなアリス。いまはダメだ」


 きっぱり拒絶して体を押しのけた。

 拍子抜けしたアリスはものすごく不思議そうな顔をして首を傾げる。


「どうしてダメなの?」


「ふふん、だって歯磨きしてないからな」


 キスするなら歯もキレイじゃないと――というのはアリスが出ていたCMのキャッチフレーズだ。なんらおかしなことではない。

 当のアリスはものすごく不服そうに顔をしかめる。


「でもさっき公園でキスしたじゃん」


「食べたり飲んだりした直後はいいんだよ。唾液の働きで口内がキレイだからな。でも時間が経った口内はばい菌がうじゃうじゃいるんだぞ」


「…………しょーもな」


「なんだよその目。口内細菌を舐めるな」


 分かっている。ものすごく苦しい時間稼ぎだと痛感している。

 けれどこれくらいしか道がないのだ。


 自分たちはまだ高校生。しかも相手はモデルのAliceだ。

 一夜の間違いなんてあった日には――。


(絶対母さんに笑われる。「あらあら、凪人も大人になったのねー」って)


「……そうだ!」


 不満げに頬を膨らませてたアリスは妙案を思いついたらしくパッと顔色を変えた。


「分かった。じゃあ歯磨きしよう」


「は?」


「お互いに歯磨きしあうの。ふだん目の届かないところまでキレイになるんだから文句ないでしょう?」


 自分から提案した手前、断る余地はない。

 アリスは早速洗面台に向かうと自分と未使用の歯ブラシを手に戻ってくる。


「凪人くんはあとでやってあげるね。じゃあお願いします」


 半ば強引に膝枕をさせられ、小学生が好きそうなピンク柄の歯ブラシを渡される。

 恥ずかしげもなく開かれた口内は顎の小ささに比例してとても小さく、きちっと生えそろった歯には治療痕がひとつもなかった。


 他人の歯を磨く体験なんて初めてだと思いつつ、自分で撒いた種なので下の奥歯から丁寧に磨いていく。


(……おれなんでこんなことやってるんだっけ)


 深夜二時を回っているからだろうか。なんだか妙な気持ちになってきた。

 目を閉じて歯を磨かれているアリスは本当に無防備だ。眠っているのかと思うほどで、悪戯心すら芽生えてくる。その度になんとか自制した。理性を失わせるのがアリスの目的だとしたら、迂闊にのるわけにはいかない。


(おれ一体、なにと闘っているんだろう)


 投げやりな気持ちになったとき、アリスがぱちりと目を開けた。喋ることはできないが視線だけで挑発してくる。奥の方にあった舌がちょろりと動いた。


「――も、もう終わりだ。さっさと起きろ」


 アリスを促して口をゆすがせに行く。

 その隙に新品の歯ブラシを手に取り、自らの歯をマッハで磨いた。


「あ、ちょっと、ずるい! 私だって膝枕したかったのに!」


 戻ってきたアリスは非難轟々。しかし無視して三分ほどで歯を磨き終えた。

 未練がましいアリスの横をすり抜けて口をゆすぎ、笑いながら部屋へと戻る。


「いやー悪いな。おれ歯科で磨いてもらうときオエッてなるからモデルのアリスには荷が重いと思ってさ」


「バカッ」


 投げつけられたのはまっくろ太に似た猫のぬいぐるみだ。

 なんなく受け止めて「物を投げるな」と注意しようとしたところで体当たりされた。ぬいぐるみを抱いたまま壁に打ち付けられ、壁ドンならぬ逆壁ドンで追いつめられる。


「ちょ、アリ――」


 呼びかけた声はアリスの口内に吸い込まれる。

 歯列を割って絡みついてくるのがさっき見た舌だと思うと体が熱くなった。


「あぁもう私ってばこんなに見境ないなんて、みっともない……」


 唇を離したアリスは理性のきかない自分を恥じながらも凪人の胸元に留まっている。


「凪人くんが悪いんだよ、あんまり焦らすから。でもさっきの言い分ならいいんでしょ、いくらキスしても」


「それは、そうだけど」


「じゃあオトコを見せてよ」


 凪人の肩腕を掴んで引き寄せ、自らの胸元へと持っていく。手のひら全体に伝わってくる弾力にごくりと唾を呑んだ。


「あのね、私は凪人くんが初めてで良かったと思ってる。凪人くんじゃなきゃダメだと思ってる。だから――」


 どこか不安そうに、けれど嬉しそうに、ターコイズの瞳が揺れた。


「お願いだから『痕』はつけないでね。もうすぐ水着撮影の時季だし、見られたら恥ずかしいでしょう」





















 …………ダッシュ!!




 凪人はにげた。そりゃもう全速力で逃げ出した。


 廊下に飛び出すなり体を反転させ、外開きの扉をふさぐ形でアリス(という名のケダモノ)を閉じ込めた。内側から執拗に扉が叩かれる。


「ちょっと凪人くん!! 扉開けて、あーけーてー!!!」


「うるさい! 真夜中なんだから静かにしろ!」


 しかし声は一層大きくなる。


「この意気地なしー!!」


「だまれー!!」


 こうして眠れない夜が更けていく。

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