23.俳優Mの考察
午後四時。閉店中の黒猫カフェにいる客は愛斗ひとりだった。
凪人のパンケーキを気に入った愛斗は自らを「常連」と称して二週に一回のペースで通っている。凪人も最初は客として律儀に接していたが、回数を重ねるごとに親しくなり、いまではすっかり気を許している。
「歯ブラシ騒動があったっていうのにその話題性から歯ブラシのCMに起用されるんだから、芸能界って面白いところだよな」
皮肉にもとれる発言をして手元のキャラメルモカを一気飲みする。
「そういえば今夜はアリスが出演する花火大会なんだろ? 俺も行きたい」
カウンター席の向かいに立っていた凪人は呆れ顔を浮かべる。
「忘れているかもしれないですけど、あなた一応芸能人なんですよ」
「芸能人がなんだ。アリスが生放送で頑張る姿を見守らないでどうする」
「……口の周りにクリームついてます」
ナフキンを渡すと「ありがとう」と受け取って口周りを拭いている。こうして見ると仕草の一つ一つが様になるのに、まだ鼻先にクリームが付着しているのが残念だ。
「桃子さんから頼まれたんだ。意気地なしの息子がアリスをデートに誘えなかったら付き合ってやってほしいって。桃子さんには世話になっているから断れないし、請け負った以上は一部始終を報告する義務がある」
と言って取り出したスマホには母の連絡先がばっちり登録してある。
(母さんのやつ、一体どこまで交友範囲伸ばしてるんだ)
母は愛斗を息子の「友人」と認め、至らない部分をサポートしてもらうかわりに黒猫カフェを我が家のように利用していいと伝えてあった。お陰で愛斗は店が閉まっていても自由に出入りできるのだ。
「ところでアリスはどうした? あ、パンケーキ頼むな」
「アリスは午前中ここで勉強したあとマネージャーさんの車で会場に向かいましたよ。着替えや打ち合わせがあるんだとか。はい、パンケーキ一枚追加です」
「へぇ。着替えということは浴衣か」
「自前の浴衣があるって見せてくれましたよ。紺地に白やピンクの芍薬が描かれたものでした」
「着替えたのか? ここで?」
「そんな前のめりにならないでください。写真を見せてもらっただけですよ。以前に撮影で使ったものを買い取ったと言ってました」
その撮影があるまで、アリスは公の場で浴衣を着たことはないと言っていた。
祖父母から買ってもらった子ども用の浴衣はあったものの、試着しただけでタンスの奥にしまい込み、そのまま忘れてしまった。
仕事以外で夏祭りや盆踊り、花火大会に参加したこともないらしい。
「なんか意外だったんですよね。アリスは日本で生まれ育ったのに浴衣を着てなかったなんて。おれなんか参加したくなくても母に無理やり着替えさせられて連れ出されていたのに」
レイジとしてテレビに出る前、引っ込み思案だった凪人は毎夏、母に抱えられるようにして地区の盆踊りに連れて行かれた。
会場に着いてしまったら泣いても叫んでもどうしようもない。帰り道が分からない凪人は永遠のような母たちのお喋りが終わるまで公民館のトイレに引きこもっているしかなかったが、薄暗くじめっとしていたトイレは恐怖以外の何物でもなく、いまでも古いトイレは怖い。
大口でパンケーキを頬張った愛斗が「分かってないな」と首を振る。
「アリスは綺麗すぎるんだよ。あの容姿で夏祭りなんかに来てみろ、大変な騒ぎになる」
当然のように言いのけた。惚れた弱味というわけではなく、純粋にそう思っているらしい。
「アリスほどの美少女なら男は一緒に歩きたいと思うだろうし、女なら自分より目立つ存在にはいてほしくないだろう。アリスはたぶん男より女の目を意識する。だから敢えて自分からは出かけなかったんだ」
「でももし誘われたら」
そこまで言って息を呑んだ。そうだ、と愛斗が頷く。
「アリスは誘ってもらいたかったんだ。浴衣を準備して、誰かに誘ってもらうのを待ってたんだ」
祭りの賑やかさを知りながらも参加できない。その淋しさはどれほどだろう。新品の浴衣に袖を通すこともできず、輪の外からしか眺められない孤独は。
(おれが花火大会に誘ってやれたら)
母にお膳立てをしてもらいながらも、今日まで言い出せずにいた自分が情けなくなってきた。アリスは待っていたかもしれないのに。
「ひとつ訊くけど」
あっという間にパンケーキを平らげた愛斗がカトラリーを置いた。その眼は真剣だ。
「凪人とアリスは付き合ってないんだよな?」
凪人は黙りこんだ。
アリスの想いは痛いくらい知っている。学校内では自分を気遣って遠慮していることも、外では制御しきれず暴走ぎみになることも裏を返せば好意のせいだ。
対して自分はアリスのためにメニューを考えたり花火大会に誘ってみようかと思ったり「意識」している部分は確かにある。けれどそれがアリスの好意に対するものなのかというと――。
「……付き合ってはいません。ただの友人ですよ」
そうとしか答えられなかった。
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