5.アリスの幸福な一日
21.特等席あいてます
『アリスちゃんって顔はキレイだけど人形みたいで人間じゃないみたいだね。なんだか怖い』
ぱっとアリスが目覚めたのは六時二分前だった。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいるが、今日は仕事も学校も休みだ。すぐに起きる気にはなれなくてベッドの上でごろごろと寝返りを打つ。
(懐かしい夢、みちゃったなぁ)
いまとなっては誰が言ったのか覚えていないが、小学生のころにかけられた印象に残っている言葉だ。日本で生まれ育ったアリスは当たり前のように日本の小学校に通ったが、ミルクティー色の髪とターコイズの瞳は同世代の子どもたちにとってはあまりにも異質で、ちょっとした騒ぎになったのだ。
枕元で黒猫の形を模した目覚まし時計がニャーニャーと鳴く。六時だ。
ひょいと腕を伸ばして目覚まし時計を止め、軽く手足を伸ばしてからベッドを降りる。フローリングに溜まっていた冷気が足裏から這い上がってきたので乱雑に転がっていた黒猫のスリッパに爪先を押しこんだ。寝る前にきちんと揃えておけばいいと分かっているのに、つい眠気に負けてそこらに散らかしたまま寝てしまう。
「おはよ、まっくろ太」
隣に置いてあった黒猫のぬいぐるみを抱いてカーテンを開くと朝日に彩られた町並みが広がっていた。アリスの部屋は高層マンションの十二階なので周りのビルよりずっと高く、眺望はピカイチなのだ。
細々とした住宅街と鬱蒼と茂る森の向こうに見えるのは大きな湖。朝日を受けて穏やかに輝いているあの湖も、毎年夏になると湖畔からあがった花火で七色に染まる。アリスの部屋の窓ガラスも空気の振動でどんどん、と震えて楽しい。下からでは絶対に見られないような美しい花火が見られるバルコニーはアリスだけの特等席で、二脚の椅子が置いてある。
(たしか今夜だったよね。今年は隣の特等席にお客さんが欲しいな)
ウッドミックスの椅子に座って風に吹かれていると彼の顔が浮かんでくる。試しに片方にまっくろ太を置いてシミュレーションしてみた。
「ねぇ観て花火だよ、すっごくキレイね」
『でもおれにはアリスの方が十万倍きれいに見える』
「きゃっ、恥ずかしい」
『恥ずかしがることなんてないさ。さぁおれの胸の中に――』
「やめよ、空しくなってきた」
寸劇終了。
あとに残ったのはもの悲しさだけだ。
(凪人くんのことだから花火見るなんて面倒くさいって言いそう。前にタクシー使おうとしたら怒られたから金持ちの悪趣味だとか言いそうだし、そもそも興味ないかも)
どんなに考えても彼が隣に座って一緒に花火を観賞している様子が想像できない。
最大の問題はどうやってこの部屋に連れてくるか、だ。
「……ダメだ、お手上げ。絶対に嫌がるよ。今年もまっくろ太と二人きりかな」
淋しさを埋めるようにぎゅうっとぬいぐるみを抱きしめる。そうすると余計に淋しくなってくる。頭の中はこんなにも彼でいっぱいなのに。
大切なものは分け合いたい。
嬉しかったことは一番に伝えたい。
悲しかったことは最後に伝えたい。
恋とはこういうことなのだ。
しかし恋をしていてもお腹は鳴る。
ぐぅ、と低い音が響いた。
「まっくろ太お腹空いた? すぐにご飯作るね」
今日は目玉焼きとベーグルサンド、それにヨーグルトにしよう。
身支度を整えてキッチンに向かったアリスは玄関にエメラルドグリーンのパンプスを見つけて目を輝かせた。
「ママが帰ってる!」
北欧家具のバイヤーである母は一年の半分を海外で過ごしている。帰国日は延期になることが多く、昔は駅まで迎えに行っていたアリスも中学に入るころには出張予定すら聞かなくなっていた。アリス自身もモデルとして働くようになって家にいないことも多く、互いの在宅を把握できるのは靴だけとなっている。
母と朝食をともにするのは一月ぶりだ。
まっくろ太を食卓の椅子に座らせたアリスはエプロンを締めていそいそと準備を始めた。
「ママは日本食好きだからお味噌汁あったほうがいいよね。それならパンよりご飯がいいよね。いまから間に合うかな」
大急ぎで米を洗って早焚きでスイッチを入れる。約二十分。その間に味噌汁を準備する。
「うーん、わかめとお麩しかないや。お豆腐は必要だよね」
近くのコンビニに行けば調達できるはず。
アリスはいても立ってもいられずに財布を握りしめて玄関を飛び出した。
「ただいまー。ママまだいる!?」
豆腐の他に味噌汁の具材や焼き鮭を買って二十分ほどで戻ってきたアリスはすっかり息を切らしていた。
「おはよう、どこに行っていたの」
キッチンに人影がある。
化粧も身支度もばっちり整った母が冷蔵庫から栄養ドリンクを取り出していた。ハーフである母は髪色こそ黒いが鼻筋が高く、ぎょろりとした大きな目はアリスよりも青みがかっている。
「ママ、もう出掛けるの? 朝ご飯は?」
「いらないわ、会社で適当に食べるから。着替えを取りに来ただけなのよ」
「……そ、っか」
コンビニのビニール袋が手首に重く食い込んでくる。
栄養ドリンクを一気飲みしてからから洗面台へと向かう母。
お米が炊きあったことを知らせるメロディがむなしく響く中、アリスは買ってきたコンビニの袋をそのまま冷蔵庫に押し込んだ。もう朝食のことなどどうでも良くなっていた。
「じゃあ行ってくるわね」
見送りに出たアリスの前で勝負アイテムのエメラルドグリーンの靴を履く母は、脚がむくんで苦労しているようだ。それでも玄関の姿見で自分の身なりを確認することは忘れない。
「今夜は遅くなると思うから先に寝ていなさい。明日の夜は久しぶりに食事でも行きましょうか」
そう言えばアリスが喜ぶと知っている母は性懲りもせず同じ台詞を吐いて飛び出していった。重たく閉ざされた扉がアリスの心を孤独に浮かび上がらせる。
キッチンへ戻ったアリスはなにをするでもなくテーブルに腰を下ろす。隣に座っているぬいぐるみだけが優しい眼差しでアリスを見ていた。
「朝ごはんどうしようね、まっくろ太。いまお腹あんまり空いてないんだ」
項垂れて突っ伏したところで携帯が鳴る。
(もしかして!)
ドキッとして相手を確認すると柴山マネージャーだった。
「……なんだぁ」
一瞬でも期待してしまう。
彼が電話をくれたのは文化祭の一回きり。本当は毎日だって電話したいところを我慢しているのに、これでは生殺しだ。だからと言って一度でもこちらから電話したらきっと止まらなくなる。
(しつこく電話したら絶対に着信拒否するよね、それはイヤなんだもん)
やっとつながったと思った赤い糸。それはあまりにも細くて頼りない。油断すれば簡単に切れてしまいそうだ。
恋がこんなに綱渡りだとは知らなかった。
などと考え事をしていたらコールは十数回に及んでいた。いけないいけない、と電話をとる。
「おはようございます、アリスです。――え、急な仕事ですか?」
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