20.いつかあなたを

 夕方五時。文化祭が終わって静まり返った校内をアリスが歩いていた。


 準備する期間は驚くほど長いのに終わればあっという間だ。生徒たちも屋台やイベントが一通り終わった14時半には撤収準備を進め、15時すぎには下校していった。いま校内には誰の姿も見えない。


(凪人くんから言われた場所、ここだ)


 図書室の前で立ち止まったアリスはゆっくりと深呼吸した。


(話ってなんだろう。『黒猫カフェ』じゃ話しにくいこと?)


 いろんな可能性がよぎってドキドキする。それでも覚悟を決めた扉を開いた。


 図書室いっぱいに西日が差し込んでオレンジ色に染まっている。しかし目当ての人影を見つけられず不安になって歩いていたアリスは後ろから声をかけられた。


「アリス?」


 凪人とは違う声に驚いて振り返ると愛斗が佇んでいた。


「なんで愛斗さんが……」


「いや俺もなにがなんだか。彼――黒瀬くんからもらった焼きそばの中に携帯の番号が書いてあって、学校を出たあとに連絡したらここに来いって言うから」


「私もですよ。私も初めて凪人くんから電話もらって、それで」


 どうやら嵌められたらしい、とお互いに気づく。しかし話のきっかけが掴めずに視線をそらすしかなかった。


「……今日クラスの子たちが騒いでいました。愛斗さんが来たって」


「あぁ、うっかりしていて」


「私に会いに来たんじゃないかって言われました。違うって答えたけどあの反応だと多分信じてくれないと思います」


「悪い。あまりにも考えなしだった。どうしてもアリスに謝りたくて」


 その言葉に、アリスは仁王立ちになって目を見開いた。


「謝るって、なにを謝るんですか? なにが悪かったと思うんです?」


 しかし愛斗は自らを落ち着けるようにゆっくりと言葉を吐き出した。


「守ってほしいなんて頼まれたわけでもないのに早合点してあれこれ詮索してしまったこと、悪かったと思ってる。どうして欲しいのかをちゃんと聞けば良かった」


「……それは私の、言葉足らずで」


「家の周りをうろついてみたり日記を勝手に見たり、やっていることはストーカーと同じだと気づかないくらいバカだった」


「いいえ、私も『やめて』ってちゃんと言えば良かったんです」


「それでもアリスに必要とされたみたいで嬉しかったんだ。俺は、アリスのことが好きだったから」


「……私だって、愛斗さんがどういう人か分かっていて、ストーカーの話を打ち明けたんです。なにかあれば助けてもらおうとも思っていました。プライベートのことだけじゃなく芸能界ででも。私はそんなずるい女なんです」


 負けたくない相手がいる。

 その相手と闘える舞台は芸能界だけ。つまらないスキャンダルでそこから転げ落ちることだけは回避しなければいけない。けれど予期せぬ事象もある。そんなときは守ってもらおうと思っていた。大手芸能事務所の看板俳優となっている斉藤マナトに。


 しかし愛斗はアリスを嫌悪するどころか、一層深い笑みを浮かべる。


「本当にずるい女は面と向かってそんなこと言わないだろう」


「それは……いまはそうですけど、少なくとも愛斗さんと知り合ったときはそういう下心があったかもしれないですよ」


 苦々しく告白するアリスとは対照的に愛斗は晴れやかな表情を浮かべた。


「だったら問題ない。俺がアリスを好きになったのはつい最近なんだから」


「え?」


「出会ったころのアリスの目は心底冷たくて、なんだか見ていて痛々しかった。俺に近づいてきたのも裏があるんだってなんとなく気づいていたさ。だから絶対に弱味なんか見せられないと警戒していたんだ。だけど最近黒猫のことを話すアリスがあんまりにも普通で、どこからどう見てもただの女子高生にしか思えなかったんだ。だから少しずつ目で追うようになって、気がついたら意識するようになって、それが好意だと自覚したんだ」


 自分に向いているときはなんにも思わなかったのに、そっぽを向かれた瞬間に意識する。まるで後だしジャンケンで負けてしまったようだ。


「――遅いんですよ。遅すぎます」


 アリスは拗ねたように唇を尖らせる。


「だから謝りたかったんだ」


 愛斗は改めて姿勢を正すと真っ直ぐにアリスと向き直った。


「悪かった。許してほしいとは言わない。だけどワガママを承知で、以前のような友人として付き合いたい」


 時計の針は進む。

 コチコチコチと、残酷なほどに。

 けれど二人は針を戻す。

 コチコチコチと、何事もなかったかのように。


(私たち、似ているのかもしれない)


 アリスの心は自分でも驚くほど澄み渡っていた。もう愛斗を疎む理由はない。

 愛斗は心から謝罪してくれた。ならば今度は。


「愛斗さん。黒猫カフェ、気に入りました?」


「ああ。パンケーキが最高だ」


「それは良かった。私も大好きなんです。今度一緒にお茶しましょう」


「あぁ。楽しみだ」


 アリスが伸ばした手を愛斗はそっと握りしめた。


 握手は友情と信頼の証。

 大切な友人との、大切なつながりだ。



 ※



「凪人くん、いるんでしょう。隠れてないで出てきなさい」


 仕事に向かう愛斗を見送ったアリスは室内を見回した。

 本棚の間を一つ一つ見ていって、目についた本を手にとってもみた。そうすれば隠し扉みたいなものが現れるかもしれないと思ったからだ。


「そんなところにいるわけないだろ」


 凪人が姿を見せたのは司書室の机の下である。まったく予想だにしていなかったアリスは駆け寄っていって不満をぶつけた。


「司書室は一般の生徒が入っちゃいけないんじゃないの?」


 凪人は得意げに鍵を取り出して見せる。


「おれは図書委員で司書の先生の信頼も厚いんだ。だから二人を会わせるために図書室の鍵を貸してもらったし、愛斗さんを裏口から誘導した上、他の奴が入らないよう入口で見張りまでしていたんだぞ」


 これは文化祭という特別な日だからこそできたことであって、普段であればこうはいかない。そう考えるとすべてが必然のように思えてくるのだ。


「むー、そんなことまでしなくても黒猫カフェを貸してもらえれば良かったのに」


「きょうは団体予約が入っているからダメなんだ。愛斗さんも夜から仕事があるって言うし、そこらのカフェやレストランじゃ落ち着かない。苦肉の策だったんだぞ」


 なんだかんだと言いながらも必死に動いてくれたのだ。アリスにはそれが分かっていた。


「うん、そうだよね、私たち二人とも変に頑固なところがあるから、凪人くんが仲介してくれなければずっと仲違いしていたかもしれない。本当にありがとうね」


「それはいいけど……最初話を聞いたときに思ったんだけどさ」


「ん?」


「アリス、ほんとうは愛斗さんのことを好きだったんじゃないか?」


 好きでもない相手にストーカーの相談をするだろうか。そのことがずっと気になっていた。


「――……」


 アリスは黙っている。黙っているが、こらえきれないように唇がぷるぷるしていた。


「ええ、そうですよ。好きでした」


 いつにない敬語で応じたアリスは堰を切ったようにまくしたてた。


「モデルになる前からずっとファンでした。出演しているテレビも映画も全部見ました。プロフィールだって全部頭の中に入ってます。だってあんな長身で顔も性格も運動神経もいい男どこにいるの? その上、英語以外の語学も得意なんだよ。なにあれ、設定盛り過ぎじゃないの。おかしいでしょう!?」


「まぁそうなんだけど」


「だから現場で初めて会ったときにはプライベートの番号教えて、なにかとアピールしていたんだよ。ストーカーの件だって心配してくれるの期待していたんだよ。それなのに『警察に相談したらいい』って、私のこと全っ然眼中にないじゃん。報われない恋に時間を割くほど惨めなことはないよ。そう考えたらスーッと熱が冷めていって……その後だよ、凪人くんに会ったのは」


 これがアリスの本性なのか、と思うと肩の力が抜けていく気がした。知らず知らずのうちに肩ひじ張ってしまっていたらしい。


(バカらしい。モデルとしてのAliceを必要以上に意識していたのはおれのほうか)


 思わずあくびが漏れる。


「悪い、ちょっと座るな」


 文化祭の疲れもあって怠くなってきた凪人は窓際の本棚のところへいって寄りかかった。アリスも当然のようについてきて隣に座る。


「んで、おれがレイジ似だったから乗り換えたってとこか。おれなら落としやすそうって?」


「否定はしないよ。あの頃はいろいろ飢えていたから、お手軽な恋がしたいと思った。私の外見とモデルっていう職業だけを見て勝手に好きになってくれる相手とめいっぱい楽しんで、飽きたら捨てちゃえばいいと思っていた。――うん、そう思っていたはずなんだけどな」


 そっと伸びてきた手が凪人の手に触れる。驚くほど柔らかい。


「凪人くんがこんなに手ごわいとは思わなかった。私、男を見る目がないのかな。それともよっぽど男運がないのかな。どっちだと思う?」


「どっちも……じゃないか」


 瞬きの回数が多くなる。

 夕陽を浴びているうちに眠くなってきた。先ほど呑んだ胃薬のせいもあるだろう。


 アリスの声が遠い。


「簡単な恋なんてないってことだね。でも私にとっては凪人くんに恋している一分一秒が輝いている。本気だからこそ、こんなに胸が震えるんだ。だから…………あれ、凪人くん?」


 疲れがピークに達した凪人はウトウトと舟を漕いでいた。規則正しい寝息とともに胸郭が動く。呆れたアリスはため息しか出てこない。


「もーう、私これからどんどん有名になっていくなんだよ。CMのオファーだって来ているんだからね。そんな私が横にいるのに居眠りするのは凪人くんくらいだよ」


 自分の存在よりも眠気が優るのだと思うと悔しいが、それだけ心を許しているという証でもある。


 凪人を起こさないよう身を乗り出したアリス。その口元には笑みが。


「ほんと、不用心なんだから」


 顎を捉えてゆっくりと唇を重ねた。衝撃で凪人が目を開くのではないかと不安と期待半分で待ってみたが一向に反応がない。完全に寝落ちしている。

 だから意地悪心が芽生えて、そのままキスを続けてしまった。


 悪いのは寝入ってしまった凪人? 寝込みを襲ったアリス? どちらだろう。


(ねぇ凪人くん。こんな無防備な姿をさらして、あなたは私をどうしたいの?)


 満足したアリスは凪人の肩に寄り添ってそっと目をつぶった。




 『黒猫探偵レイジ』に登場するライオンは、その見た目を怖がられて友だちがいなかった。ライオン自身も仕方がないと諦めていた。もうこれ以上傷つくのが怖かったのだ。


 けれどライオンの心を知ったまっくろ太はこう言う。


『かのニャイクスピアは言った。【外観というものは、一番ひどい偽りであるかもしれない。世間というものはいつも虚飾にあざむかれる】。見た目ほどその人物を判断するのに役に立たないことはにゃいんだ』



(凪人くん。いまはウサギみたいに取り澄ました顔をしている私だけど、いつか我慢しきれずにあなたを襲っちゃうかもしれないよ? そうしたらもう知らないからね)



(つづく)

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