18.携帯番号
たっぷり二十秒は数えただろうか、ポケットになにかを押しこんでアリスが離れた。
「ごめん。私、バカみたいだね」
凪人が振り返るのと同時にドアベルがちりちりと鳴ってアリスが出ていく姿が見えた。ポケットの中を探ると一枚の紙きれが出てくる。
「……一千万円?」
黒猫通貨と書かれたイラスト付きの紙に一千万円と書いてある。お礼のつもりかと呆れて裏返すと電話番号が綴られていた。小さく「プライベート用です」と書いてある。
愛斗にだけ教えたという携帯番号。それを凪人にも教えてきた。恐らく深い意味はないのだろうが、「逃げずに戦え」と言われているような気がして憂鬱だった。
※
翌週末は高校の文化祭だった。展示品だけでなくバザーや飲食喫茶などもあり、在校生のみならず家族や卒業生、そして地域住民も訪れる一大イベントである。
(嵌められた……)
凪人は中庭の屋台でひたすら焼きそばとソースを混ぜ合わせていた。
もう数人いるはずのクラスメイトたちは部活や家族の案内など様々な口実をつけて次々と姿を消した。お陰で凪人はここ二時間ほど一人で焼きそばを作っている。
昼を前にしてそろそろ一人くらい戻ってきてもいいはずなのに誰も姿を見せないところをみると完全に押し付けられたとしか思えない。
中庭から見える二階の廊下を同じ係の男が別クラスの女子と一緒に歩いているところを見たときには殺意すら湧いた。
一般の男子生徒にとって文化祭は意中の女生徒と近づくチャンスなのだろうか。
凪人の脳裏には自然とアリスの顔が浮かんできた。
(アリス――は今日仕事で、午後から参加するって言ってたんだよな)
思い出すのは先週のこと。
兄のように慕っていた愛斗の度を過ぎた行動に戸惑いを隠せなかったアリス。自分の気持ちを正直に告げて元通りの関係に戻りたいと思っているのだろうが、問題は相手がどう捉えるか、だ。
もしかしたらずっと前からアリスに好意を抱いていて、ストーカーといった繊細なことを相談されたことで「自分の気持ちを受け入れてもらえるかもしれない」と期待して張り切ってしまったのかもしれない。
こじれてしまった以上、当事者同士が腹を割って話すしか解決の道はない。
(……なんてな、おれには関係ないことだけど)
と思いつつも先日アリスが寄り掛かってきた背中に意識が向く。
軽く触れられただけなのに血が沸騰したように体中が熱くて、いま思い出してもにわかに熱を帯びる。
(なんでおれなんだろう。探そうと思えばレイジに似た奴なんていくらでもいるだろうに。なんでおれなんかを選んだんだろう)
恋の病という言葉がある。アリスはいま一時的な熱病にかかっただけなのだ。いずれ熱も冷めて現実に目を向けるだろう。それまでは決してアリスを意識してはいけない。アリスを思う気持ちを少しでも表に出せばアリスはきっと喜ぶだろう、きっと笑い泣きするだろう、だからこそ考えてはいけない。好きになってはいけないのだ。
昼を前にして中庭にも人が増えてきた。腹ごなしにちょうどいい焼きそばは大人気で、作りためていたものもあっという間に売り切れてしまい、大急ぎで追加するはめになった。
「黒瀬くんお疲れさま。手伝うよ」
一人であくせくしていた凪人の声をかけてきたのは福沢だった。
うさぎ喫茶を担当している福沢は頭にウサ耳のカチューシャをし、制服のスカートに丸い尻尾をつけている。
「悪いな。喫茶のほうは?」
「いまは休憩中。あ、お待たせしてすいません、こちらに一列に並んでください。おいくつですか? はい、二つですね。二百円ご用意お願いします。お次は? あ、五つですね。五百円お願いします。なるべくおつりのでないようご協力お願いしまーす」
福沢は凪人が焼いた焼きそばを手早くプラスチック容器に入れつつ客の状況も確認していく。その手際の良さは凪人にはとても真似できそうになかった。
福沢のお陰で大きな混乱もなく昼のピークを乗り越え、午後一時を過ぎたころには暇を持て余すようになった。ずっと立ちっぱなしで足が重くなってきていた凪人は近くのパイプ椅子に腰を下ろして休憩することにした。
「はい、ペットボトルの飲み物。それからたこ焼きもらってきたよ」
少しの間姿を消していた福沢がビニール袋を手に戻ってきた。中にはプラスチック容器に入ったたこ焼きが二つ。凪人はすっかり感心してしまった。
「ありがとう。でも良かったのか、福沢は休憩時間だろう」
「いいのいいの。休憩っていうか、本当は焼きそば係の男子が喫茶のほうに来ていたから気になって見に来たんだから」
隣り合ったパイプ椅子でたこ焼きを頬張る福沢は、口内でハフハフとたこ焼きを冷ましながら答えた。
「あいつら喫茶に行ってたのか?」
「うん。兎ノ原さん昼前に登校してきたから喫茶のほう手伝ってもらっているんだ。クラスの男子ども、いいところ見せようと張り切っちゃってお客さんの整理やら接客やらお会計やらやってくれるからあたしたち暇でさ。で、こいつらがここにいるってことは中庭の黒瀬くんは一人じゃないかと思って」
「どうりで誰一人戻ってこないわけだ」
「気になるなら黒瀬くんも行ってもいいよ。兎ノ原さんウサ耳つけてすごく可愛いし。ただお客さんの数がすごすぎて教室入れないかもしれないけど」
「やめとく。おれはここでたこ焼き食べとくよ」
そう言いながら口に放り込んだたこ焼きは半生でドロドロしていた。ついてない。
「それにしても。騒ぎになるのは分かってるのになんで顔出したんだろ兎ノ原さん」
たこ焼きを食べながら悪態をつく福沢の言葉が凪人の胸に突き刺さった。
「来ても迷惑だから休めばいいのにってことか?」
我知らず声が硬くなってしまった。それを察したのか福沢は肩をすくめて笑みを見せる。
「あぁごめん、悪口に聞こえた? そうじゃなくて随分と律儀なんだと思っただけ。イメージと違う」
「イメージ?」
福沢はたこ焼きを頬張りながら教室の方を見ていた。
「知ってる? Aちゃんねる配信終了したんだよ」
「……え?」
Aちゃんねると言えばアリスが出演していたネット番組だ。
『歯ブラシ事件』の記憶も新しい。
「急でびっくりしたんだけど、最終回はアリスがこれまでの非礼をひとつひとつ挙げて丁寧にお詫びしたあと、これからはモデルとして邁進しますって言って終わりだった」
凪人の中に「しまった」という後悔が浮かぶ。
番組が終了したのは自分が余計なことを言ってしまったせいだ。
だからこそアリスは社長との話し合いを重ねる中で番組の終了を決めたのだろう。
あるいは社長の機嫌を損ねて打ち切られたのかもしれない。
自分の軽率な言動がアリスから仕事を奪ってしまった。
「でもね、あたしは良かったと思ってる」
福沢は明るい声を上げた。
「胸元の空いたエプロンで料理したりカメラの前で生で歯磨きしたりするあんな番組、彼女には向いてないと思ってた。あたしがファンになったのはモデルのAliceだもん」
「え? 福沢ってファンだったのか?」
「そうだよ。あたし彼女が載っている雑誌を小学生のころから定期購読しているんだけど、載っているモデルさんはみんなすごく可愛いんだけどあんまり印象に残らないの。似たような笑い方して読者に媚びているように見えた。でも三年前かな、兎ノ原さんが載っていた写真を見たの。なにコイツって思った。目がね、もう、他のモデルと全然ちがうの。すごくギラギラした野生の獣みたいで。くっきりした目鼻立ちのせいもあると思うんだけど、カメラを飛び越してあたしの首根っこに咬みついてきそうな気迫だった。でもいざ会って話してみたら明るいしハキハキしてすごく可愛い子だった。その上クラス行事にも律儀に参加するし自分がモデルだって鼻にかけるわけでもない。いろんな意味で拍子抜けしちゃった。どうせなら匿名で悪口のひとつでも書いてやろうと思ったのにさ」
「オイ」
「ってのは冗談で。同性のあたしでもファンになるくらいだから、惚れない男はいないよね」
最後のたこ焼きをぱくんと頬張った福沢はスカートを叩きながら腰を上げた。一方の凪人のたこ焼きは半分も減っていない。
「兎ノ原さん最近、表情変わったよね。長いこと雑誌で見ていると分かるんだけど、ものすごく柔らかい笑い方をするようになった。きっと誰かに恋をしているんだね……――もーらいっ」
一瞬にして凪人の手からタッパーを奪い取り、残ったものを自分の口に押し込んでいく。
食欲がなくなった凪人はそれを見守るしかなかった。
かつお節も含めてきれいに平らげた福沢はビニール袋にゴミをまとめたあと、半笑いでささやきかけてくる。
「だから頑張ってね、黒瀬くん」
「どういう意味だよ」
「分かんない。女の勘」
「おれはべつにアリスのことなんて」
「ふふ、やっぱり黒瀬くんって面白い人だね」
福沢は「女の勘」という曖昧なもので凪人とアリスの関係をおおよそ掴んでいるように思える。ここでムキになって否定すれば福沢の女の勘はより冴えるだろう。
(おれは本当にアリスのことなんて)
悩む凪人に助け船が入った。
「すみません」
久しぶりの客だ。「はい」と応じて立ち上がった凪人は屋台の屋根まで届くほどの長身に目を見張った。
「焼きそば一つ」
相手は中腰になって注文を寄こす。その恰好はとにかく異様だった。革張りの高そうなジャケットにジーンズ、ハイブランドと思わせるサングラスで目元を隠しているが腰の高さや股下の長さを見るからに只者ではないと分かる。その上、ウサ耳のカチューシャを恥ずかしげもなく頭部に装着しているのだ。
凪人を視界に入れた男性は屋台骨をくぐって中に入ってきた。サングラスをちらりとずらして素顔をさらす。
「この前は……すみませんでした」
凪人は息を呑む。
(……愛斗さん)
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