深川幽霊奇譚

花山 寧々

深川幽霊奇譚

親父が死んだ。


 嗚咽混じりのお袋の声がスマートフォン越しに響き、ソーシャルゲームのやりすぎで熱を孕んだそれとは裏腹に、俺の体の芯は氷のように冷たくなった。


 2013年8月18日。


 今から2年前。俺が大学2年の、やけに暑い夏の日のことだった。


 大理石の床を靴底が叩く音が、しんと静まり返った美術館にやけに大きく響き渡ると、自分が嫌でも一人であると思わされた。

 左手のライトで夜間用の非常灯の影を暴きながら、怪しい人影が無いことを確認する。

 俺の今の仕事は、将来の夢なんてものからはかけ離れた警備員である。

 親父が死んで、俺は大学を辞めた。

 親父にはかなりの額の借金があった。どうやらキャバ嬢に入れ込んでいたらしい。保険金と退職金で何とか清算をしたら、残ったのは二束三文だった。

 加えて、専業主婦のお袋、アルツハイマーの祖母、中学生の妹が居る。俺が大学を辞めて働きに出る以外、一家離散は避けられなかっただろう。

 退学届を提出した日、何かと目をかけていてくれたゼミの教授に、知り合いが経営している会社だと紹介されたのが、今勤めている警備会社だ。

 歩合制なので若くても働けば働くほど給料が上がる。だが、それは一人暮らしなら事足りる金でも、家族三人を養うには事足りない金だった。

 大学時代にコンビニや居酒屋のアルバイトをしていた経験がこんなところで役に立つとは。夜型なのは悪いことばかりじゃない。


 腕時計で時間を確かめるとちょうど午前二時を指している。

 草木も眠る丑三つ時という言葉が脳裏を掠めて、そこで初めてこの須々田美術館にまつわる怪談を思い出した。

 なんでも白装束の女の幽霊が出るらしく、今晩俺が休日にも関わらず突然配属されたのも、同僚が頑なにこの博物館の警備を拒んだからだった。

 慣れているとはいえ、連日の夜勤をこなしていたせいか、思考の内に睡魔が息を吹きかけてくる。

 一度当直室に戻ってエナジードリンクを飲んでこようかとつま先を向けた瞬間、木の軋んだような、黒板を爪で引っかいたような嫌な音が響いた。

 振り返ると大展示室の両開きの扉の片方が、おいでませとも言いたげに開いている。

 そういえば大展示室は後回しにしてしまった。最後にここの見回りをして当直室に戻ろう。

 大展示室は入り口から一番近く、美術館に足を踏み入れれば必ず目につく場所にある。

 ここには、須々田美術館一番の目玉である美術品、幽霊画深川が展示されているはずだ。

 江戸末期の浮世絵師、円山応挙の一弟子が描いたとされる髪の長い、血に濡れた幽霊画。    

彼女を何よりも有名にしたのは彼女にまつわる怪談の多さだろう。彼女が展示されている展示室からは夜に話し声が聞こえるだの、画の中の深川が瞬きをしただのという話は数多く、顔料の中に使われているのが本物の血であるという話も相まって、二百年の時を超えた現代でも夏に放送される恐怖特番で取り上げられていたりする。

 赤いカーペットを踏み大展示室に入ると、途端に冷風が鼻先を殴る。冷凍庫のような氷を含んだ風に鼻腔がツンと刺激され、割と大きなくしゃみをしてしまった。

 いくら夏だからと言ってもここの冷房は温度が低すぎるのではないだろうか?

 画の保存状態のために低めに設定しているのか、と疑問を腹の底に飲み込み、ライトで長方形のガラスケースの中を照らす。

 その中には幽霊画深川が展示されているはずだった。

 だが、黄土色の和紙の上に、しだれ柳と髪を乱した女が居るはずなのに、今はまるでその女だけがすっぽりと抜けでてしまったかのように姿を消していた。

 俺は激しく狼狽し、ガラスケースに顔が付くほど近づいてもう一度その掛け軸をすみからすみまで、それはもう穴が開くほどに見つめるが、やはり描かれているのは寂れたしだれ柳だけで、深川の姿は無かった。

――夜に抜け出て人を憑り殺す幽霊画

 「うそ、だろ……?」

 記憶の奥底に眠っていた恐怖特番の見出しが背筋に冷たいものを這わせ、俺は喉の奥で呻くような声を上げた。

 警察に連絡するべきだろうか、いや連絡したところで何て言えばいいんだ。幽霊画の幽霊が居なくなっているんです、なんて爆笑ものだろう。

 どうするべきか。どうすればいいのか。ライトを彷徨わせながら逡巡していると、影の中から声が聞こえた。

 「誰だ!」

 恐怖を打ち消すように俺は叫ぶ。

 ライトの丸い光の中には、白装束の女の姿があった。まだら赤く濡れたその姿に俺は悲鳴にも似た声を上げた。

 「お、おお俺は死ねねぇんだよ!妹は受験だしばあちゃんは徘徊始まったし俺が死んだらみんな路頭に迷うんだよ!殺せるもんならやってみろこのヤロー!」

 警棒を構え女の顔に向けてライトを照らし続ける。どうする、どうすればいい、逃げるには俺はどうすればいい?



 思考を巡らせ冷や汗が首筋を伝い落ちていく。

 長い沈黙の末に女の口から発せられた言葉は、俺とは違いとても静かな言葉だった。

「その光を、消してくれぬか。目が灼ける」

 女は黒いざんばら髪の隙間からこちらをねめつけるようにして言うと、俺はその威圧感に耐え切れなくなって震える手でライトのスイッチを切った。

 辺りは非常灯の淡いオレンジ色の光と影のみになるが、女の姿は内側から光を灯しているかのようで、ライトで照らした時と同じように認識することができる。

 「有難い、私はその光が苦手でな。持ち歩くのなら提灯が一番いいと思うが、今はもう、そんな物消えてしまったんだろう。嘆かわしいことだ」

 女は深い溜息をつきながら立ち上がる。血に濡れた白装束の裾から覗くはずの、そこにあるはずの足首が無かった。

――人じゃない

 肌が粟立っていく。

 「だ、誰だ、お前は」

 声が震えるのを必死に抑え込みながら問いただすと、女は一瞬、は?、と呆けた顔をする。

 「人間よ、おまえは存外うつけだな。そこの硝子ケースの中を見ただろう。私の名は深川。円山応挙の一弟子だった男に描かれた幽霊画。」

 女、もとい深川がそういうと展示室の中がざわめいたような気がした。

 信じられない、という思いと大学時代に講義で学んだ民俗学の一つ「付喪神」という神のことを思い出し、あぁ、これがそうなんだな、という思いとに板挟みになり、妙に冷静さを取り戻す。

 「付喪神、か?本当にいるんだ……。てか写真に映るんですか?もし映るんだったらゼミの教授に送ってあげたいんですけど……。」

 俺のその問いに深川は一瞬目を見開き、そして大きな声で笑い始めた。

 驚いて固まっている俺をよそに腹を抱えてしばらく笑っていた。


「左様。人間よ、なかなかに見どころがある。わたしが恐ろしくはないのか?」


「いや、俺も今ビビッてますけど、これが仕事なんで投げ出すわけにもいけないし、足首が無いだけで意思疎通できるじゃないっすか。俺前居酒屋でバイトしてたんで、話通じない酔っ払いの相手なんて大体俺ですし、暴れて手ぇ付けらんない野郎抑え込んだりぶん殴ったりもしてましたし……。」


「ははは、付喪神に話し掛けたのが運のツキよ。私の身の上話に付き合ってもらおうか」

 二の句を次がせぬまま、来館客用に誂えたソファに座らされる。深川は白装束の襟を正すと自らの来歴を語りだした。

 

 私は、今から二百年程前に円山応挙の名もなき一弟子の手によって生まれた。弟子は若くして応挙の門人になった。画というものに魅せられた精悍な顔つきをした若者で、死んだ父親が生業としていた左官業の合間を縫って通ってくる奇特な門人でもあった。

 江戸時代の多くの浮世絵師は、大抵の場合門人を住み込みにして抱える。それは自分が描く画の後継を遺すためであり、一種の責務であった。ならば何故応挙はその奇特な弟子を住み込みで抱えなかったのか?

 弟子には、家族がいた。病床の母と食べ盛りの三人の妹弟たちが。本当は父親が流行病で死ななければ、弟子も他の門人と同じように住み込みで抱えられたのに、弟子には養うべき家族のためにひたすら働かなくてはいけなかった。皮肉なことよ。

 弟子は木片を積み上げるように画を学んだ。だがそれは仕事の合間を縫って、姉弟たちの世話をした後に限られたために、どうしても同じ時に門人として抱えられた者たちのように上達はしなかった。

 それでも弟子は決して諦めることなく、必死に日銭を稼ぎながらも画を描き続けた。師である応挙も頑固だったが情が分からない者ではなかったので、他の門人と同じように接していた。

 だが、そんな弟子の事を面白く思わない兄弟子が居たのもまた事実だった。

 そんなある日のこと。兄弟子は自らの手で乱雑に描いた破門状を持って弟子に近づいた。

 「お前は才能なしの半端者だ。ここにお師匠の破門状がある。お前は破門とすると、お師匠からのお達しだ」

 鬼の首を獲ったかのように破門状を振り翳し、お師匠様に会わせてくれ、と追い縋る弟子を、兄弟子は怒鳴り散らして追い返した。

 夕焼け色に染まる背中が悲愴を物語っていて、兄弟子は胸がすく思いがした。

 ほんの冗談、されど冗談。

 兄弟子が軽い気持ちでした行為は、弟子にとっては明日が見えなくなるほどの絶望をもたらすものだった。

 ふらふらとした足取りで道具箱を抱えながら歩く弟子は、家路を急ぐ棒手振りの少年とぶつかって、初めて自分が深川町にまで足を延ばしていたことに気付く。

 夕焼けは姿を消し、濃紺色の空に丁度戌刻を知らせる鐘が響き渡った。

 弟たちが心配している、早く帰らなければ……弟子の焦点の合った視界の中に、異形が佇んだ。

 十間程先の、しだれ柳の下。血に濡れてまだらになった白装束にざんばら髪の女が、こちらをねめつけていた。

 血の気を失った肌の色をしながら、唇は人を喰らったかのように赤く、こちらをねめつけている目ばかりが爛々と輝き、弟子は心の臓腑を撫でられたような不快感に叫ぶこともできないまま、転がるようにその場から逃げ出した。

 転がり込むように住屋に帰ってくると、瓦灯の炎は消され、もう母と妹弟たちは眠っていた。荒い息を整え、そっと道具箱を下ろすと安心したせいか腰が抜け、砂埃に塗れた土間にへたり込んでしまう。

 「破、門……」

 舌の上で二、三度突きつけられた現実を転がし、人生で初めて幽霊を見たことよりも深く沈んだ。

 必死に努力をして来たつもりだった。寝る間も惜しんで画を描いてきたつもりだった。

だがお師匠様は俺を見込みなしとして破門した。

 もう、どうにもならない。だが、厳しい現実を受け入れることができない己に悶々とする。

 土壁に背をもたせ掛け、後頭部を掻きむしっていると、瞼の裏に焼き付いた先ほどの異形がすぐ傍に佇んでいるような気がし、一つの妙案が浮かんだ。

 あの異形の女を、己が今持つ全ての力を使って掛け軸に描き、明日直接お師匠様に見てもらえばいいのではないだろうか?

幽霊画の構図は習いながらも、一から十まで描いたことは無かった。

そのせいか幽霊画はお師匠様に見てもらったことは無い。上手い幽霊画が描ければ、もしかすると見込みありと判断され、破門の一件は流れるかもしれない。

弟子は一縷の希望に縋るように筆を執った。

 数刻が過ぎた。

僅かな隙間から漏れる月明かりが掛け軸を照らすと、そこには異形の女がいた。

己の中でも完璧といえる出来のそれは、今にも動き出しそうに思える。

だが、足りない。

何かが、決定的な何かが欠落している。

何が足りない?一体何が……!

弟子は血走った目を掛け軸に這わせながら獣のように唸った。唇の端には乾いた唾液がこびりつき、精悍な若者の面影はもう無く、まるで何かに憑りつかれているようである。

あぁ、そうだ、血が足りないのだ。

あの異形が漂わせていた血なまぐささが、鮮烈な赤が、この画には足りないのだ。

弟子は一片の躊躇なく左手の平に小刀を突き刺した。ぱたぱたと雨が地を叩く音を立てながら掛け軸に血が滲んでいく。それが滲みきらないうちに右手の筆で女のざんばら髪をなぞる。

左手の痛みは、全く感じない。それは、目的ばかりに思考が置かれると、その過程などどうでもよくなる感覚によく似ていた。

そう、そうだ。この色だ。

この血の色こそが、この画にはなくてはならない物なのだ。

画は弟子の血を吸う度に異形のそれへと変貌していくようで、それは人間の血によって人が創りあげた物が生命を吹き込まれ、人外の道を歩むさまを眺めているかのようだった。

夜明けの薄ぼんやりとした明かりの中、幽霊画深川は完璧なる異形として産声を上げた。

そして弟子は魂を画に奪われてしまったかのように眠りにつくと、もう二度と目を覚ますことはなかった。


「生みの親である弟子の血により、私は生まれながら付喪神として生きることを宿命づけられた。円山応挙の名もなき弟子の、稀代の傑作として。あれから二百有余年、多くの人々の下を転々とし、星の数ほどの人間を見てきた。だが私は思う。私が見たかった景色は、こんな物じゃなかったのだと。私が見たかったのは、立派な浮世絵師になった、師匠と呼ばれる弟子の姿だ。奴が私を指して言うんだ、あの時深川を描いてよかった、お前のおかげで俺は立派な浮世絵師になれた、と。」

青白い幽鬼のような死に顔など、見たくなかった。現実は、そう上手くいかない物だな」

深川は悲痛を吐き出す。細めていた目が、刹那に血のような色をちらつかせるまで、俺は隣で座る深川が人ではないことをすっかり忘れていた。

「この世に生きとし生けるものは、生まれてくる場を選べない。それは神であっても、人であっても本質は変わらないのだ」

「あぁ、そうなんだろうな」

軽く相槌を打っても、心の底では炎のような焦燥が渦巻いている。その焦燥はやがて伏せていた瞳にせりあがり、見える風景をぼやつかせた。

膝の上に涙が一つ、二つ落ち止めることができずに俺は歯を食いしばった。

「俺は、親父が辛い思いをしているのを知っていたんだ。家に居場所がないって……。でも俺は見て見ぬふりをして、親父に、夢という言葉に甘んじて大学に通ってた。俺があの時、親父を家族として扱っていれば、ホステスなんかにはまらないで、今でも親父は生きていたんじゃないかって、そればっかり後悔しているんだ」

ずっと後悔している。あの時、あの時、あの時、と父の面影を思い出すと後悔ばかりが背中について回った。

「後悔しても良いじゃないか。その人間に、その後悔した分、胸を張って会えるように努力すればいい。夢だって、諦めてはいけないと思う。その人間は、お前が自分のせいで夢を諦めたと聞いて喜ぶのか?」

いいや、喜ばない。俺は首を横に振った。

俺の夢を、博物館の学芸員になりたいという夢を一番応援してくれていたのは父だ。

気が小さく、いつも母の尻の下に敷かれていた父は浮気をしていたし、夫としては最低な人間なのだろう。だが、俺の親としては優しく、良く話を聞いてくれた良い父だった。

どうして今まで忘れていたんだろう。

嗚咽に震える背を深川が撫ぜる。それはまるで鉄を押し付けられているように冷たいが、彼女の優しさに胸の奥から温まるような気がし、とてもありがたかった。

涙が落ち着き始めた頃、ふと明かり採り窓から一筋の光が差し込み、それが夜明けを知らせる。

「私はそろそろ戻るとしよう」

深川はざんばら髪を撫でつけながら言う。

「人間よ、神々の末席に座す私でも、未だに悔み惑うてることがあるのだ。後悔し、時には立ち止まり、時には走り出し生を送るといい。お前たちの人生は、私たちからしてみれば蜉蝣のようなものと変わらないのだから」

「ありがとう、俺は忘れていたんだ。親父のことを」

背を向けた深川はまるで見返り美人図のように振り返ると、今では妖艶に見える赤い唇を吊り上げて言った。

「ゆめゆめ、もう忘れるなよ。それさえ忘れなければ、またお前とは会うことになるだろう」

何だよ、それ。

そう言う前に一陣の風が吹き荒び、彼女の姿は消えてしまった。

ガラスケースの中を見るとそこにはテレビで見たときのように深川が元の場所で静かに佇んでいた。

俺は展示室の中から出ると蒸し暑い当直室の窓を開け放つ。

林の中では、夜に力を蓄えた緑達が日の光を乞うように葉を揺らしていた。

思い切り息を吸い込むと、緑の濃い香りが心地よく、遠くから昼を待てない蝉達の声がかすかに聞こえてきた。

あぁ、朝は今、始まったばかりだ。

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