1月 堕落した正月

幾星荘、そこそこリーズナブルな家賃とまぁまぁの設備とぼちぼちの交通の便で売る名前ほどの斬新さは感じられない下宿がある。櫻宮大学の学生がそこそこいて、ほかの住人の方も皆さん優しいのが良いところだ、僕はここの203号室を六良田先輩と共に借りているがなかなか気に入っている。


10時半、太陽が澄み切った空気の中で白く燃え、世界が美しく輝く。僕以外の全てが清々しく、幸せに満ち満ちている。僕のパソコンがかたかたと鳴る、六良田先輩の持っている蜜柑が剥かれ、ぺりぺりと鳴る。「先輩8回生なのに炬燵でぬくぬくしながら蜜柑の皮を早く剥く研鑽なんてしている余裕あるんですか?今先輩の人権はギリギリのラインに来ているんですよ?」「俺が8回生であることと炬燵と蜜柑には何ら因果関係はないし、俺の人権はおそらく保証されている」本当だろうか。


お正月だ。ねずみさんや牛さんがレースを繰り広げたお正月だ。猫はいない。そのレースの結果送られてくる年賀状には入賞した動物達が描かれていることが多い。猫はいない。何故猫がいないことを連呼するか、大した理由はない、僕が猫が苦手だからだ。


「にしても少ないですね、年賀状」「そりゃそうだろ、俺は歯医者と親と青年実業家からしか来てないし実質お前一人分だ、そして講介には友達が少ない」歯医者と親と青年実業家からしか来てない男に言われたくはない。「えぇーっと…四葉さんに五苦楽に………三神、おぉ!エリーナからも来てる!!凄くないですか!?……ん?二科さんだ!!!!二科さんからも来てる!」反撃として僕宛てに年賀状を送ってきてくれた人達の名前を挙げて精神攻撃を仕掛けてみる。


そう、ここ幾星荘の203号室で行われている正月はたいへん慎ましく、くだらないものだったのである。考えてみれば大晦日も先輩は全然帰ってこなかったし帰ってきたら帰ってきたで炬燵から出たくないこの堕落し切った大学生2人による「どっちが炬燵から出て蕎麦を作るか」という小戦争が起こったし、今朝もそれぞれがお互いを驚かせようとお節を注文した結果3重の箱がふたつ届いたり、まぁ何一つ決まらないのだ。


「お前ももっと堕落しろよ、俺みたいに大学生を8回も繰り返すと自分が時の神にでもなったようで世界の見方が変わるぞ?まるで仙人だな」「それは凄いですけど僕はいま誰かさんのせいで足りていない出席をレポートで埋めるのに忙しいんです黙っててくださいこのモジャモジャ髭男」「今お前なんつった、というか出席足りない原因の半分くらいは俺が面白そうなことしてるからってお前が付いてくるからだろ、」「ぐっ……でも残り半分はちゃんと先輩にいろんな所に連れていかれたからじゃないですか、あと僕はちゃんと四年で卒業したいんです」。醜い。圧倒的に醜い。


それはそうとこの男は人の出席を弄ぶような真似を繰り返しており、非常に殺意が高い。本当に〇したくなったことも1度や2度ではない。それでも何故僕がこれと一緒に生活するのか……


レポートをうつ手も疲れてしまったので蜜柑を食べる。少し酸っぱいが美味しい。「先輩はなんでそんなに留年しているんですか?」「大学が楽しいから…だな、講介も好きだろ?」「まぁそうですけど好き、とやる、は違うんですよ」「俺だって好きだからやってるんじゃない、今凄く人生をすり減らしている恐怖を覚えながらも必死でモラトリアムを遂行しているんだな」「はぁ……」なんと反応したらよかったのか。


完全に炬燵の民に成り下がった僕が炬燵から出たのはトイレに立った1回だけだった。トイレから帰ってきたら先輩は絵を描いていた。この先輩は失格人間に近いが一応アーティストの面も持っており、芸術的センスは中々のもの…らしい。何を描いているのかと思ったら僕だった。まだ線が少ないのに僕だと分かるから恐らく上手いのだがなんとなく気味が悪い。「肖像権侵害です、300円で手を打ちましょう」「とてもリーズナブルな史談だな、ほれ」本当に300円を貰ってしまった。500円くらいにしておけば良かったか。


炬燵の上に暖かいお茶が用意されていたので飲んだ。六良田先輩にも優しさはあるんだな、と思った。「昼ごはんどうします?」「考えてないなぁ…まぁ最悪無しでも大丈夫だろ、俺にも色々やることがあるし」…そうなのか、正月から奇人は大変だ。


その後もポツポツと先輩と雑談をしていたら眠くなってきた、元旦から炬燵でゴロゴロしていたところで八百万の神様方は怒らないはずだ。ここはひとつ休憩に預からせてもらおう。「先輩、僕ちょっと寝ますね」「おお、そうか、おやすみ」先輩が優しい、どうしたんだ。


僕が次に目を覚ました時、僕は真っ黒な闇の中にいた。寝起きの眼に鞭を入れてよく目を凝らすと部屋中の窓がきっちりと綺麗に目張りされているようだ。寝惚けている僕はもしかしたらまだ夢の中かもしれない、なんて思いつつ体は本能的に動き玄関を開けてお日様の光を浴びようとした、がそれは叶わなかった。幾星荘は本当によくある普通の外廊下の下宿だが、外に出ても太陽が見えない。いつもは空間が空いている外廊下が今は壁になっており、左右を見渡すとその壁が続いている。まぁ簡単に言うと内廊下のようになっているのだ。


いつもは空間の場所には壁が嵌め込まれ透かし彫りが彫られている。さらにその透かし彫りの向こう側も目張りされている。天井からは小型のシャンデリアのようなものが吊り下げられ、しゃらしゃらと輝いている。歩いていくとシャンデリアに照らされる薄暗い内廊下と化した元・外廊下を進んでいくと極彩色のステンドグラスがあったり、襖が何故か嵌め込まれていてそこに昇り龍が描かれた襖絵があったり途中からシャンデリアが提灯に変わったりとまぁ和洋中折衷で訳が分からない。エレベーターまで辿り着いたら下ボタンがテープと木材、釘で封じられている。上に行け、ということなのだろう。やってきたエレベーターに入ったが、屋上のボタン以外はまたテープで封じられている、封じられている、というか「Don't touch」と書いてある。実際押せるのだろう。押さないけど。


エレベーターが昇っている時に何か先刻から感じていた感覚に気がついた。文化祭だ。この絶妙な安っぽさ、ゲストは苦笑いしながらホスト側が頑張って作った世界に入り込むこの感じ、文化祭なのだ。じゃあこれは文化祭なのか。いや違う今は1月1日だ。では文化祭でもないのに文化祭に似た子の不思議な世界を創り出したホストは誰か。こんな変なことをする男は一人しかいない。屋上につき、エレベーターのランプが光った。


扉が開くと真っ暗、いや様々な色の光が煌めく藍色の世界だった。いつの間にか夜になっていた。櫻宮市はそこそこ都会だがそこそこのため星がまぁまぁ見える。がこれは星ではない。コンクリートの地面が光っている。近づいて見ると電飾だった。美しかった。そして屋上の奥には


「よぉ、よく寝てたんだな」


先輩、そして幾星荘に住んでいる人達が手を振っていた。


「なんですかこれは」「いやぁ、お前を吃驚させようと思ってな、ここ数ヶ月準備してたんだよ、」…わからない。

「俺はもう春で卒業する……まぁ大学に捨てられるかもしれないがとりあえず出ていくからな、忙しくない今のうちに卒業制作展示だ」「うちは美大じゃないし、そういうの無いですよ、それになんなんですかあの掴めない世界観は」「心の赴くままに創って行ったらああなってしまってな」「予算は」「今までのバイト代と、スポンサーになってくれた青年実業家の出資だ」「…ほかの住人の方は」「みんないい人達だな、2階の人たちもエレベーターを普段使う人もみんな話したら楽しそうだって協力してくれた」「僕が寝てる間に準備を?」「ああ、お前には一服盛ってな、悪い」「……」


「本当の目的はなんなんですか」

「いや、お前には迷惑かけたなぁ、と思って…先刻も言った通り忙しくなる前に出来る、俺にしか出来ないことを考えた、そうしたらこう言うのしか思いつかないんだな」泣きそうな笑いそうな顔で言う。


「……」


こういうことをするから嫌いになりきれないのだ。


「と、言うわけで今日は幾星荘のみんなでパーっとパーティーだ、盛大にな」


そこからはもう記憶が途切れ途切れだ、ぐちゃぐちゃの感情で酒を飲み、他の住人と騒ぎ、六良田陣という男の悪口をべらべら喋り、相方を呼んできた先輩が光る屋上でコントを披露した。そんなに面白くもないのにげらげら笑った。その日の幾星荘の屋上はもう滅茶苦茶だった。滅茶苦茶に楽しかった。


「死にたくなりながら、必死でモラトリアムを遂行しているんだ」


ふと先輩の言葉が思い浮かんだ。そういう事か、という消えそうな声が僕の口から出て、寒空に消えていった。

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Shuffle 禾月月乃 @tomo1109

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