純情はいらない3

 その翌週、ソウは呆然と立ちすくんでいた。


 合鍵をもらって、しばらく経つ。仕事あがり、夕食の材料をつめた袋を片手に、恋人の部屋に寄った。忙しい家主は、まだ帰宅していなかった。

 ソファに上着が脱ぎっぱなしになっていた。彼女は苦笑をうかべた。しわになってはいけないと、拾った。ひらひらと紙切れが落ちた。


「……」


 黒い紙だった。クーポン券のようである。右下の店名に目をはしらせて、青ざめる。

 紙切れを、まんじりと見る。何度見ても、書いてあることは変わらない。ライトに透かそうが、指でこすってみようが、厳然たる事実である。

 がちゃん、と玄関から音がした。とっさにポケットにしまう。


「あれ、ソウさん!」


 帰宅したアキミアの顔が、輝いた。


「おかえりなさい!」


 くるりとふり返り、わざとらしいほど満面の笑みをうかべる。


「いやあ、来てくれるなら、言ってくれればいいのに……いや、もちろんうれしいですよ。でも、言ってくれれば、良いつまみの一つでも買ってきました」


 でれでれと相貌を崩すのは、いつも通りだ。しかし、今日にかぎっては怪しく聞こえる。


「ふうん」と、笑顔でうなずく。


「ごはん作りますね」


「わあい」


 もろ手をあげて喜ぶ恋人を背に、キッチンに入る。

 ビニール袋から食材を出しながら、深呼吸をする。アキミアが居ないことを確認して、ポケットに手を入れる。紙の感触がした。

 かぶりを振る。たかがクーポン券だ。そういう場所に出入りしているとは限らない。そう思わないと、平静を保っていられない。

 彼女の唇がゆがんだ。怒りと悲しみがまだらになったものを、胸に手を当てて、押し殺す。


 ――――キスくらいで、あんな顔をするくせに。自分は、風俗なんかに行くのか。


 ソウは、悲しみをこらえて料理をした。途中、アキミアが顔を出して「手伝いしましょうか」とか「寒くないですか」とか、たずねてくるのがうっとうしかった。

 食事の最中も、顔に何も出さないよう苦心した。今すぐ思いをぶつけたら、酷いことを言ってしまいそうだった。

 だから、食事を終えてすぐ、バッグを手に立ちあがった。


「ツキヒコさん。それじゃあ、わたし、お暇しますね」


「え!?」


 皿洗いをしていたアキミアが、ぎょっとする。


「早くないですか。なにかありましたか」


「いえ、明日も仕事ですし。今日は、ご飯を作ってあげたかっただけなので」


 完璧な笑顔をうかべ、玄関に歩をすすめる。アキミアは、手に泡をつけたまま、わたわたと後を追ってきた。


「ソウさん」


 呼びながら、ズボンで泡をぬぐい、後ろから抱きしめる。ソウの目が丸くなった。


「ありがとうございます」


 甘えたささやきだった。


「来てくれて嬉しかったです」


 厚い胸板が、背中をつつんでいる。腕のなかで、恋人をかえりみる。


「……本当に?」


「え?」


 とぼけた顔をしている。いよいよ気持ちがおさえられなかった。


「本当に、わたしが来て良かったと思っているんですか」


 強く言ってから、唇を噛む。これでは、わがままな女のようだ。

 アキミアは、ぽかんとしている。


「もちろんです。嬉しいに決まっているでしょう」


「でも」


「なにかありましたか? オレは、貴女の気にさわることをしましたか?」


 彼の表情が曇った。この罪悪感にまみれた肉だるまは、ときおり、こんな子どもっぽい顔をする。


「それなら、謝ります。いえ、謝りたいので、なにがあったか話してくれませんか」


 ソウは、じっとうつむいていた。おもむろにポケットの中身を、眼前にかかげる。


「勝手に見てしまって、ごめんなさい」


 アキミアは、ぼんやりと紙切れを見ていた。そして、数秒後「ああ」と声をあげた。


「これ、同僚が押しつけてきたんですよ。すみません、捨てようと思っていたんですが、持っていることすら忘れていました」


 嘘くさい言い訳に聞こえた。ただ、疑いは、捨てざるをえなかった。彼が、にやつきはじめたからだ。


「すみません、余計な不安を与えましたね。でも……嬉しい」


「嬉しい?」


「だって、貴女が嫉妬してくれるなんて」


「なっ」


 今度は、正面から抱きしめられた。ソウは、怒りとも安心ともつかない気持ちで、顔をあげた。


「嬉しい、じゃないです! わた、わたしは……」


「分かっています。貴女は、黙って家に帰ろうとしたんだ。嫉妬じゃない。でも、そう思わせて」


 抱きしめる力が強くなる。すがるような、支えるような抱擁だった。

 彼女は、はあと息をついた。


「……嫉妬ですよ」


 胸板に頭をあずける。


「このあいだ変な話を聞いたから、ちょっと過敏だったんです」


「そうですか」


 アキミアが、髪をなでた。


「うれしいな」


 顔を見なくても、彼が笑っていることが分かった。顎の下に指がすべりこみ、口づけが落ちてきた。舌が絡まり、離れる。

 ソウの目は、うるんでいた。


「このあいだ、ファーストキスは噛まなかったのかって聞きましたよね?」


 アキミアは、ぎくりとした。


「ええ、それがどうかしましたか?」


「ずるいです。わたし、初めてのほとんどを貴方にあげているのに。貴方は、わたしに初めてを何もくれないでしょう? それなのに、キスくらいで」


 彼女の両腕が、太い首にかけられる。小首をかしげて、上目遣いで見つめる。


「ソウさん」


「男と女で、こんなに違うなんて」


 じいっと目をすえられて、アキミアは視線をそらした。


「……すみません。でも、キスの件は、べつに気にしていません。ちょっと思っただけで」


「そうだとしても、ずるいですよ」と、頬をふくらませる。


 アキミアは、しばらく困惑していた。そして、不意にしゃがみこんで、彼女を抱えあげた。


「ちょ、なにするんですか! わたし、帰りますよ」


 抗議に構わず、ベッドの上にそっと降ろす。むっとしているソウの背中を持ちあげ、顔を近づける。

 静かになる。下唇を這わせ、しゃぶり、舌をそっと忍びこませる。歯列をなぞり、わずかに開いた隙間に、さらに侵入する。上あごにすべらせると、細い肩がふるえた。

 哀れっぽい溜息が、ふたりのあいだに落ちた。


「……初めて、あげますよ」


 大きな手のひらが、ソウの頬を包んだ。美しい顎の形を確かめるように、ゆっくりと指が滑る。

 アキミアは、舌を突きだした。


「唇じゃなくて、ここ、噛んでください」


 ソウは、目を見開いた。アキミアは、彼女の手をとり、湿った舌に導いた。とっさに手をひっこめる怯えた顔を、愛おしそうに眺める。


「ここ、噛まれたことないんです。思いきり、噛んで」


 困惑したように顔をそむけ、横目で陶酔した表情の男をにらむ。嫌悪感と、熱く煮えたぎる欲望が、彼女の右手にやどった。

 黒い後ろ髪をつかみ、頭をそらせる。彼は、被虐の喜びに目をほそめた。

 顔を合わせ、唇をつける。突きだされる舌に舌をからませ、すぐに口をはなした。


「へ?」


 ソウは、いたずらっぽく笑った。顔をかたむけ、思いきり噛みつく。


「痛い!」と、青年がはねた。


「あはは」


 鈴が鳴るような笑い声をあげた。


「はじめては、まだ要らないです」


 アキミアは、しっかりと歯形のついた頬を手でおさえて、あぜんとしている。


「大事にとっておきますね」


 ふたつの手が重なる。青年は、参ったように宙を見て、それから笑んだ。


「寂しいですね。早く奪ってくださいよ」


「いやですよ。待ち焦がれていてください……」


 ソウは、熱い身体にもたれた。

 痛ましい歯形を見上げて、ひたいを肩にうずめる。うとましい。いやらしい。貞操なんて、どこにも存在しなかった。


「待ってます」


 ささやきは、それでも純情な青年のふりで、耳元を汚していく。


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亜獣譚二次創作コンペ参加作品 阿部ひづめ @abehidume

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