番外編
番外編 即断のバッティスタ
これは8年前の出来事である。
「シルヴェストロか」
扉を開けて始めに目に入ったのは、巨大な執務机。机上には書類の束が連なるが、その向こうにいる男はそれで覆い隠せないほど大きい。鋭い視線がこちらに向き、シルヴェストロはごくりと喉を鳴らして、口を開いた。
「父上…。今から5分だけ、お時間よろしいでしょうか?」
くるんと動く大きな瞳、今よりも短い髪にあどけない顔立ち。まだ幼いシルヴェストロ少年は、父の執務室に居た。幼いと言えど既に神童と呼ばれるに相応しく、喋り方も振る舞いも、上流階級の大人のそれである。
「構わんシルヴェストロ。この後に晩餐会が控えている。手短にな」
室内に響いた重低音の声に、彼はほっと息を吐く。
バッティスタ・カルカテルラ。
シルヴェストロの父親であり、カルカテルラ領現領主。強い意志が宿る瞳と眉根に深く刻まれた皺は、彼の峻厳な性質を雄弁に語る。大柄な体や纏う雰囲気は、実の息子でさえ直接会って話す際には一定の緊張を覚える。
しかしながら他人に、それ以上に自分に厳しいその姿を、シルヴェストロは尊敬している。この父が狼狽える様を彼は見たことがない。例えどのような不測の事態が起ころうとも、バッティスタは常に泰然自若に構える。重要な決断であろうとも先伸ばしにせず、また多大な責任に怖じ気づくことなく断ずる彼の異名は「即断のバッティスタ」。もちろんカルカテルラ領領主としての働きは申し分なく、領民からの信頼も厚い。
「不躾な質問で、大変申し分なく思うのですが…」
前置きはそこそこに、シルヴェストロは顔を上げる。
「母上とのなれそめを、お伺いしたいのです」
「…そうか」
突然の問い掛けにも関わらず、バッティスタは表情を変えない。短く返事をしただけだった。
さて。何故今回、このような質問をするに至ったのか。単なる好奇心や娯楽ではない。シルヴェストロの疑問はただひとつ。
(この父が何故、あの母親と結婚したのか…!?)
彼の母、ロザンナはボケボケである。シルヴェストロが彼女から生まれた理由が分からない程度にはボケボケである。自宅の屋敷で迷子になるなど日常茶飯事、身の回りの陶器類は大体割る上に人がよく騙されやすい。ついた二つ名は「のんびり屋のロザンナ」と「カモカモしいロザンナ」。
そんな彼女を何故、バッティスタは選んだのか。シルヴェストロは物心つく前から不思議で不思議で仕方がなかった。確かにロザンナは見目は麗しくやんごとない家の出身だが、そもそもバッティスタが家柄や容姿で生涯の伴侶を選ぶような男だとは思えない。脅迫や権力に屈するような人物でもない。
バッティスタは何故ロザンナと結婚するに至ったのか――シルヴェストロはそれが知りたくて仕方がないのである。
「…ロザンナとは見合いで知り合った」
バッティスタは静かに話し始める。なれそめに関しては、先に母にも聞いたのだが、あまり参考にはならなかった。「とても素敵な動物を身に付けていらっしゃったの」と、支離滅裂なことを言うだけであったのだ。
「だが当時の私は結婚と言うものをする気は無かった。先代…お前の祖父からの強い勧めがなければ成り立たなかった縁談で、始まる前から断る予定だった」
「なるほど…」
しかし当時のバッティスタの思惑を外れて、現在のふたりは結婚している。つまりその前提を覆すほどの魅力が、ロザンナにあったと言うことだろう。
それを一体何だと固唾を呑んで見守るシルヴェストロに、バッティスタは語り出す。
「確かあれは…町の一等地にあるホテルだったな。見合いはつつがなく進み、食事を済ませたところだった」
「母上の様子は如何だったのでしょう?」
「今と変わらん。私の名前を終始パッティスタと呼んでいた」
(母上…)
どうやら昔から、ロザンナはロザンナだったらしい。
「ふたりだけで庭でも散歩しようかと言う話になってな。私もそこで、この見合いは辞退が前提であることを彼女に伝えようと思った」
断るならば女性側からの方が体裁が良い。バッティスタはロザンナに話し、彼女から辞退してもらおうとしたのだろう。シルヴェストロが察する。
だがしかし何度も言うように、その予定とは裏腹に、ふたりは結婚したわけだ。そこで何か、彼の鋼鉄の意志が変わるようなことをロザンナが言ったに違いない。
いよいよ核心に近づき、シルヴェストロが息を呑む。バッティスタは静かに続けた。
「その時に何もないところではあったが…ロザンナが、躓いたのだ。その時咄嗟に、目の前にあるものを掴んだのだろうな。私のスラックスを引きずり下ろした」
「…え?」
なんて?
「ちょうど使っていたベルトが古く、衝撃で切れてしまったようでな…。さすがに下着までは脱げなかったが…」
父ははっきりと名言はしなかったが、頭の良いシルヴェストロは察する。それはつまり公衆の面前でバッティスタの下半身がパンツ1枚になったと言うことだろう。大惨事である。
それを想像しながら、シルヴェストロは呆然と声を漏らす。
「それはさぞ…皆焦ったことでしょうね…」
「ああ。仲人や給仕係、皆が皆真っ青になったな」
その場を静寂が支配する。たったひとり、ロザンナだけは目の前に出現したパンツをまじまじと眺めて、言った。
『まあ、パッティスタ様。コアラのお下着を身に付けていらっしゃるのですね』
「…こあら?」
シルヴェストロがぱちぱち瞬きをする。哺乳綱双前歯目コアラ科コアラ属――突然の有袋類の出現に、少々話に付いていけていない。
が、そのコアラで合っていたらしい。バッティスタは頷いて、先を続ける。
「ああ。私の母親…お前の祖母が、旅行先で見ていたく感激してな。グッズを大量に買って来た為に、履かざるを得なかったものだ」
「そ、そうですよね…」
彼の補足に納得する。祖母の話も気になるが、今はバッティスタの話だ。この父にそのような少女趣味はない。印象とも激しくかけ離れている。似合うとしても百歩譲ってゴリラだろう。
「話を戻そう」
さて、そんな衝撃的なコアラパンツを目撃したロザンナと言えば、きらきらと瞳を煌めかせていた。すぐさま両手を合わせ、とびきりの笑顔を浮かべる。
『何と愛くるしいお下着でしょう。可愛らしいパッティスタ様にとてもよくお似合いです!』
その時点でバッティスタがズボンをずり下げられたまま、約3分が経過していた。まるで嵐が通りすぎたかのような出来事であった。
「……?」
そして母の過去を聞かされたシルヴェストロは、もう何と言って良いのか分からない。ロザンナは一体何をしているのか。人の下半身を露出させた上で、口から飛び出したのは反省でもなく謝罪でもなく煽り。どれだけの恨みがあればそこまでできるのか。
(いや…)
ロザンナは皮肉や世辞が言えるような性質ではない。つまるところ心からの言葉だろう。これほど恐ろしい容姿の男のスラックスをずり下げた挙げ句に、呑気にも感想を述べているわけだ。母の異常性を垣間見、シルヴェストロの背中を汗が流れていく。怖いもんなしかよ。
「父上…。それは何と言うか、驚いたでしょうね…」
シルヴェストロが心底、父に同情の目を向ける。バッティスタは静かに頷き、口を開いた。
「ああ。その場で求婚した」
「……は?」
シルヴェストロの口からは唖然とした声が出る。そしてこの父の異名を思い出す。「即断のバッティスタ」。まさか自身の婚姻においてもそれを貫くとは。いや、と言うより何故ズボンを脱がされた相手に求婚したのか。
混乱する息子を置いて、バッティスタは語り出す。
「私は昔から人相が悪く、体も大きい。当然、愛らしいなどと言われたことはない。自分で思ったこともない」
「そ、それはそうかと…」
「だが彼女の目には、今も昔もこの私が愛くるしく映っているらしい」
「……」
確かにあの母親は、夫にプレゼントを贈る時にはいつだって、可愛らしい動物をモチーフにした小物を選ぶ。ロザンナの趣味を押し付けているのだと思っていたが、あれは心の底から似合うと思って渡していたのか。
(い、色々と意味が分からない…)
「シルヴェストロ。ひとつ言っておく」
脳が処理しきれず、すっかり黙ってしまった彼に、バッティスタは話し掛ける。その鋼の体を正し、天に向かって背筋を伸ばした。
「ロザンナと結婚してから今日この日まで、選択を後悔したことなどただの一度もない。彼女はいつも、私に新しい景色を見せてくれる」
「……」
「選ぶべきは、自分の視界には決して映らない景色を見ることができる相手だ」
「……」
シルヴェストロは押し黙る。自身の両親のなれそめは、勇気を出して父に聞こうとも、やはり理解できなかった。分かったことと言えば、自分の父は母に勝るとも劣らぬ変人であるということだけだった。
「では行くか」
「はい」
バッティスタが扉を開ける。それに大人しく付いていくシルヴェストロ少年は、まさかこの1時間後に全く違う世界を見る女性に恋をするとは、夢にも思ってはいないのである。
子供嫌いの町議令嬢はやっぱり子供が苦手 エノコモモ @enoko0303
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