最終話 首ったけのイレーニア


「……」


天高く晴れ渡る空の下、カルカテルラ領領主屋敷。壮麗な建物の中で、次期当主であるシルヴェストロは絶望に包まれていた。


(やって、しまった…)


聡明、秀麗、冷静沈着と名高い彼が何てこと。シルヴェストロは額を壁に付け、廊下で死んだ顔をしていた。


「……」


彼がそうなってしまうのも仕方がない。何せシルヴェストロは、とんでもない初夜を迎えてしまったのだから。


理想はあった。妻が喜ぶ贈り物をした後に、その興奮冷めやらぬままベッドにイン。枕相手に練習した実技をイレーニア相手に発揮、見事想いを遂げる――。


が、実際にはどうだ。泣き落としである。最悪である。まず最初のステップだった、欲しいものを聞き出す作戦が思い切り失敗したことがいけなかった。出鼻を挫かれた彼は自暴自棄になってしまった。ボトルごとワインをがぶ飲みし、へろへろの足取りで寝室まで向かった。そこまでは覚えている。いや嘘だ。全部覚えている。

そう、例え理性が無くなるほど泥酔しようとも、欲望の赴くまま行動してしまおうとも、彼にはバッチリ記憶があった。


(死にたい…)


一番の問題は、目が覚めると横にイレーニアが居なかったことだ。酪農家出身の為か、確かに彼女は朝に強く活動も早い。先にベッドから抜け出していても何の疑問もないのだが、何せ昨夜のことがある。


(会いたいが、絶対に会いたくない…)


何せシルヴェストロはやっちまった。とんでもないやらかしをした。どこの世界に、泣きながら初夜をねだる旦那がいるのか。いや意外とそこかしこにいそうだが、自分はシルヴェストロなのだ。いつだって余裕綽々で格好良い、俺様男だった筈なのだ。それなのにあんな真似をして、絶対に呆れられたに決まっている。


(ほとぼりが冷めるまで、なるべく顔を合わせないように…)


そう絶望に浸るシルヴェストロのすぐ横、廊下の扉がバカッと開いた。


「!」


廊下を進もうとした影が、彼を見てびくりと止まる。


「し、シルヴェストロ」


彼の願いが天に届いてしまったようだ。片方だけ。部屋から姿を現したのは、問題の妻だった。

目を見開いて、彼女はこちらを見ている。その顔から視線を外して、シルヴェストロは床を見た。


「……」

「……」


対面で初めて名前を読んでくれたのではないかと浮き足立つ心もそこそこに、シルヴェストロは絶望に包まれる。確かに確認はしたかった。昨夜の1件を彼女はどう思っているのか。その確認が。けれどさすがにこれは早過ぎる。彼には心が折れる準備などできちゃいない。


「……」

「……」


沈黙がその場を支配する。どうやって逃げようかと画策するシルヴェストロに、彼女から声が掛かった。


「ねえ」


彼の肩がびくっと震える。


「あんたの、あれ。本心なの」

「……」


あれとはもちろん、昨日のことだろう。黙ったままのシルヴェストロに、イレーニアは更に続ける。


「本気なの?あの、泣きながら言ってきたやつ」

「……」

「欲しいものが聞き出せなくてやけ酒したとか、復讐心だと勘違いしてたけど実は好きだっただけとか、本当は8年前のあの時からずっと大好、」

「そうですよ!悪いですか!!」


堪らなくなったシルヴェストロが、カッとなって吠えた。


「笑いたければどうぞご自由に!貴女からすればさぞ滑稽に映るでしょうね!」


やけくそである。そして世間一般ではこれを逆ギレと言うのである。そんな心が半分ほど折れかけたシルヴェストロは、体全体を真っ赤にさせて半泣きで顔を上げた。


「離婚だって言うなら受け入れます!俺だってこんな姿見られて今後やっていけそうに、ない、し…」


尻すぼみになる。声が宙へと消えていき、やがて跡形も無くなった。


「……」


唖然として目の前を見つめる。シルヴェストロの予想を大きく越えた妻の姿がそこにはあった。そこに居たのは、上から下に至るまで、まるで林檎のように真っ赤になったイレーニアだった。


「え…」

「っ…!」


シルヴェストロが小さく声を漏らした途端、彼女は踵を返してその場を後にする。それを追い掛けるのも忘れて、彼はしばしその場に佇んでいた。


さて。怒りんぼだとか喧嘩っ早いなどと評されるイレーニアだが、彼女が人に噛み付く時は決まって先に攻撃を仕掛けられてからだ。相手に敵意を向けられて初めて、自衛も兼ねて彼女は怒る。逆に言えば、彼女自身から人を嫌ったり敵意を持つことはない。

そして今まで復讐だとか雪辱を晴らすとか言われていた敵からの、突然のカミングアウト。しかも彼女が26年間、そうそう向けられたことのない、異性からの強い思慕だったのだ。


何というか、イレーニアは、下手したてに出られると弱かった。






『イレーニア!!』


木箱から伸びたコード、その先にある黒い電話口からは、それはもう大きな声が響いてくる。イレーニアの父、ジャンマリオである。


『やったな!!いや!俺はお前を信じていたぞ!!』

「……」


電話口のイレーニアと言えば、受話器を耳から離して、その轟音が過ぎ去るのを待っていた。こちらまで唾も届いてきそうな大声を一通り聞いた後で、彼女は再度耳を近付ける。そして一言、言った。


「は、はあ?」

『これでいつでも戻ってきて良いからな!まあこっちから行くが!!』

「だ、だから、何の話?」


突然、ジャンマリオから連絡が来たと思ったら、この調子である。先程から父の言っていることがさっぱり分からない。元々主語は足りない男ではあったが、今のこれは昂る気持ちが抑えられないと言った方が正しいか。

ついにボケが始まったかなんて親不孝なことを思っていると、ジャンマリオは意気揚々と続けた。


『お前の名を付けた飼い牛が妊娠したんだ!』


通常ならば、だから何だと言う話である。乳牛が妊娠するのは当たり前の話である。けれど、マエストリ家に伝わる言い伝えを知るイレーニアは、ぴたりと固まった。


「……え?」


そう。マエストリ家に伝わるそら恐ろしい言い伝え。その家の娘と同じ名を付けた家畜が妊娠すると、同時にその娘も妊娠する、と。


まだ諦めてなかったのかとか、勝手に何をしているとか、家畜と娘を一緒にするんじゃねえとか、文句を言うのも忘れて、イレーニアは瞬きひとつせずに停止する。そして電話の向こう、ジャンマリオの声の背後では、クラッカーが炸裂する音や乾杯の音頭が漏れ聞こえて来る。そしてせーの!と口を揃える合図の後、イレーニア!おめでとう~!と彼女に対する祝福の台詞が飛び交った。


『しかも双子!双子だぞ!』


電話口からは、ぱちぱちと盛大な拍手が弾けている。イレーニアはしばしその場で固まって、ゆっくり自分のお腹に視線を落とした。


「え…?」






かくして、その約10か月後に4つの産声は上がったわけである。


「まあ~天使ねえ。見てるだけで幸せだわあ」


太い腕の中ですやすや寝息をたてる赤ん坊を見ながら、フランカは目尻を下げる。


「……」


そしてもうひとり、よく似た赤ん坊を抱えて、イレーニアはベッドから半身を出していた。

おくるみの中の赤ん坊をじっと見つめる彼女は、出産と言う一大行事を終えたばかり。格闘、いや、まさに戦争であった。深紅の髪はあちこち宙に飛び、目の下には大きな隈。明らかに満身創痍である。


「イレーニア様ぁ。アンタも少し休んだ方が良いわよお。難産だったんだし」


フランカの言う通り、イレーニアの出産は自然分娩で双子、計35時間を超える難産となった。その間一睡もせずに気を揉んでいたシルヴェストロは、終戦を迎えたイレーニアを抱き締めて赤子ふたりを1度ずつ抱いた後、倒れるように気絶した。同じく孫の誕生を今か今かと待っていたロザンナと義父、そしてジャンマリオと共に、ソファで重なり合うようにして、眠っている。


「フランカ…」


そんな侍女の気遣いも、イレーニアは聞いているのかいないのか。腕の中に赤ん坊を抱いたまま、彼女は呆然と口を開く。


「私やっぱり、子供が苦手だわ…」


フランカが呆れたようにため息をついた。


「アンタまたそんなこと言って…」

「だって見てよ!こっ、この子達!既にこんなに可愛いのよ!?」


イレーニアが勢いよく顔を上げた。口調は激しいが、赤ん坊を起こさないよう小声である。


「きっと死ぬほど可愛くて優しい子に育つに違いないわ!賢く謙虚で誰にも愛されるようになるのよ!なのに母親が子供嫌いなんて不幸じゃない!?」


はぁあと体を震わせ、彼女は泣きそうな表情で続ける。


「ど、どうしよう!こっこんなに可愛くったって母親が私じゃダメよ!子供嫌いな母親なんて失格だわ!ああもう!やっぱり子供なんて苦手よぉお」


そう叫びながら、髪を振り乱して前のめりになった。絶望に打ちひしがれながらも、腕の中の赤ん坊に体重を掛けないよう、細心の注意を払っている。


「……」


フランカはぱちぱち瞬きをする。そして子供が嫌いでどうしようと騒ぐ彼女に、静かに言った。


「アンタそれ…ゾッコンって、言うのよ」


第36マエストリ地区町議会議長が令嬢、現在はカルカテルラ領次期領主夫人となったイレーニア・カルカテルラ。彼女の二つ名が「子供嫌いのイレーニア」から、「子供に首ったけのイレーニア」になるまで、あとほんの少しだけ前の出来事である。

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