第5話 シルヴェストロは泣いてなんかいない


「おはようございます。イレーニア様」

「おはよう。今日もご苦労様」


こつこつ靴音を立てながら、イレーニアは屋敷の廊下を歩く。今や彼女もこの立派な屋敷の主人のひとり。頭を下げる使用人に声を掛けつつ、与えられた執務室に向かう。


(新生活が始まって、今日でちょうど1ヶ月かあ…)


目を細めて窓の外を見る。シルヴェストロに会ってからの日々は怒濤のようであった。


相手は次期領主で天才肌の青年。反面、イレーニアは行き遅れな上にド田舎町議令嬢である。この不釣り合いな婚姻にあたっては外部の人間からそれはもうチクチクチクチク嫌味を刺され、その度に応戦していたものだった。だがしかし、嫁入りすればそうはいかない。然しものイレーニアも、心が挫けることも覚悟していた。


何せ舞台はカルカテルラ領領主屋敷。この比ではない極悪非道な仕打ちが待っているに違いない。


『あら、イレーニアさん』


そしてイレーニアはそんな極悪非道な仕打ち、その可能性を前に、びくりと震えた。目の前では紫煙に似た髪がふわりと揺れる。嫁入りに関して最もありきたりで、重要且つ重大な問題。


『ご、ご機嫌よう。お義母様』


そう、嫁姑問題である。


ロザンナのことはよくは知らないが、姑と言うものは往々にして意地悪なものだとイレーニアは本で学んだ。ましてや相手はあのシルヴェストロの母親。あら、どうしてこの家に居るのかしら?と存在を否定する発言から始まり、掃除婦らしく床に這いつくばって掃除でもしていなさいもちろん素手でね!なんて非道極まりない扱いを受けることも有り得る。


『ロザンナ様。ではここにサインを』

『ええと、ここね。分かりました』


しかし幸運なことに、この時の姑は取り込み中であった。これ幸いと頭を下げ、その場を後にしようと踵を返す。ところがほっと息を吐くイレーニアの背中に、とんでもない言葉が降ってきた。


『ではこちら。新聞の購読料。220年ぶんを365日お届けすると言うことで』


(……は?)


『お、お義母様』


貧乏の性とは恐ろしい。思わずイレーニアは、ペンを持つロザンナの手を止めていた。


『新聞を購読されることに反対はしませんが、少し期間が長すぎやしませんか?』


しまったとは思いつつも、そこはやはり貧乏令嬢の悲しき習性。勢いでそのまま、言いたいことを言ってしまった。


(ああ…怒られるかしら…。けど新聞は既に読みきれないほど届いてたし…)


それでも領主家だからこその細かなルールや決まりはあるかもしれない。新聞を契約する時は220年ぶん頼まなくてはならないとか。いやそんな馬鹿なとは思いつつ、人様のお家ルールはたまに予想だにしないものがあるのが現実だ。

部外者が口を出すんじゃないわよ!とかごめんなさいね~このメイド、何にも分かって無いのよ、なんて言われる未来を予測するイレーニアだったが、予想外にもロザンナはぱちぱちと瞬きをして、首を傾げた。


『だって長ければ長いほどたくさん洗剤が付くのよ?ほら。こんなに大きなやつが、220年ぶん』

『……?』


空中で形を作る小さな手を見ながら、今度はイレーニアが首を傾げる。そしてまっすぐな瞳で、それはもうまっすぐな赤い瞳で言った。


『洗剤が欲しいのでしたら私が買ってきますし…まず、人間そんなに長くは生きられません』

『あら…?』


ロザンナが少し考え込む。その後、ぽんと手を打った。


『そう言われれば、そうですね。またお父様とシルヴェストロに怒られちゃうところだったわ』


この前も羽毛布団を20枚ほど買って怒られたところだったし、と続ける姑を見て、イレーニアは思った。


(わ、私が何とかしなきゃ…!)


かくして、姑が騙されないかやらかさないか見張る嫁姑戦争は勃発したわけである。


『まあ!イレーニアさん、椅子を直せるだなんて、凄いのね』


初めは何らかの罠、こちらの油断を誘い背後から殴られるのではと警戒していたイレーニアも、実際にロザンナを前にすれば警戒を解かざるを得なかった。きらきらと尊敬の眼差しを向けてくる彼女は純粋で可愛らしく、なぜあの息子が生まれたのか大いに疑問には思ったが。カルカテルラ領現領主である義父も、寡黙ではあるが別段イレーニアに対しどうこう言うこともなく、それどころか気遣う素振りまで見せる始末。


そう。どうなるかと思っていた新生活は、意外と順調だった。


(おかしい…)


けれどそんな順調な結婚生活を歩みながらも、彼女の頬からはひたりと冷や汗が流れる。


「イレーニア・カルカテルラ」


ビクッとイレーニアの肩が震える。振り向くと、ロザンナによく似た顔立ちがあった。けれど性根は似ても似つかないクソガキ。

彼女の夫である、シルヴェストロその人だった。


「な、何かしら」


イレーニアが腕を組む。彼が言いたいことは、想像はつく。ここのところずっと、と言うか最初から最新まで永遠に、寝室から逃げて逃げて逃げ続けてきた。嫌味や小言のひとつでも言いに来たに違いない。

ところがシルヴェストロから飛び出した一言は、予想の斜め上を行くものであった。


「…何か、欲しいものなどありますか?」

「……え?」


窓枠に乗った鳥が、ぴよぴよと鳴く。それが再び羽ばたいていった音を聞きながら、イレーニアはなんとか口を開いた。


「あ、ああ。もうすぐ母の日だから、お義母様がカーネーション欲しがってたわよ」

「…それは別に手配しておきます」

「そ、そう…」

「……」

「……」


ふたりを沈黙が包む。


(や、やっぱり、おかしい…)


ぴりぴりと鳥肌が立つような静寂の中、イレーニアは今度は背中から汗を流す。


そう。ここ最近、シルヴェストロの様子がおかしかった。復讐と言う単語を使わなくなったし、口から飛び出るのも嫌味ではなく、こちらを探るような質問。復讐の為に相手を知りたいのかと思いきや、その内容が妙なのだ。好きな物やお気に入りの場所を聞いてきたり、何と言うか、まるで、イレーニアに好かれようとしているような。


(まっまさかまさか!)


彼女は慌てて首を振る。何せシルヴェストロは言った。「復讐しに来た」と、そう言ったのだ。

これも策略に違いない。そして目の前の復讐者は、考える素振りの後、気まずそうに口を開いた。


「…貴女の家具など、如何でしょう」

「え…あ、いや。今足りてるし、壊れたら自分で直すから…大丈夫かな」

「…ドレスやアクセサリーは」

「あ。そういえばフランカがブラジャーを欲しがってた気が」

「…買いませんよ」


話を逸らそうとしたが、ぴしゃりと却下される。シルヴェストロは視線を泳がせた後、絞り出すように続けた。


「…貴女は、何が良いんですか」

「……」


そんな彼に、イレーニアは不審な目を向ける。とても警戒したように、たった一言だけ呟いた。


「要らない」

「……」


シルヴェストロの目が細くなった。眉間に皺を寄せ、不機嫌そうに先を続ける。


「何か選んでください」

「嫌よ」


今度はイレーニアがきっぱり拒否の返事をする。


「だってどうせ目の前で壊すんでしょ」

「は?」

「人が欲しい物を買ってきて、くれると見せかけて壊すんでしょ…?」


ふるふると震える。恐怖ではない。怒りでだ。そして顔を上げ、びしりとシルヴェストロを指差した。


「瞳を輝かせる私の前で、せせら笑いながら踏みつけるに違いないわ!最低!」

「俺を何だと思ってるんですか!」

「あんたが復讐しに来たって言ったんでしょ!」


シルヴェストロは言った。はっきりと言った。この結婚は復讐であるとそう言ったのだ。ならばこれも、嫌がらせ以外に何がある。


「っ…」


ところがシルヴェストロと言えば、その一言に変な顔になった。


「え?違うの?」

「……」

「……?」


普段、鉄面皮か悪魔のような微笑みのどちらかしか浮かべない彼が、複雑な顔をしている。


「っ…」


ぽかんとするイレーニアの前で、何か言いたそうに口を開け、そして閉めるを繰り返す。視線が斜め上へと動き、頬が赤く染まった。


「……っ!」


ところがイレーニアがじっと見ていることに気が付くと、急に眉間に皺を寄せた。そして大きく口を開く。


「違いません!」

「え。そ、そう…」


シルヴェストロは早足で去って行った。その顔は耳まで真っ赤だったのだが、彼女は気が付かない。小さくなっていく背中を見ながら、ぽつりと呟いた。


「新しい嫌がらせかしら…?」






「ふう…今日はどこから逃げようかな」


その夜。夫婦の寝室にて、イレーニアは仁王立ちになりながらいつもの通り脱出方法を考えていた。


(脱出したと見せかけて実は部屋の中にって言うのも良いわね)


室内を見渡し、今日も今日とて隙を探す。今日はフランカがお休みなので、あまり時間を稼ぐことはできない。スカートの下から工具を引っ張り出して、それをべっちんべっちん手のひらに打ち付けた。


(それかいっそ扉を付け替えて寝室を偽装しちゃえば、シルヴェストロが来ることもなくゆっくり寝られ、)


「イレーニア」

「ギャッ!」


突然名を呼ばれ、イレーニアが飛び跳ねた。慌てて辺りを見回せば、ベッドの中央。ふとんにすっぽり入ったシルヴェストロが、顔だけ出してこちらを見ている。


(な、何で先に…)


イレーニアがいくら寝室から逃げ出そうとも、彼が先に待機すると言った方法に出ることは無かった。何故なら、そういうものだからだ。特に嫁入りした女性となれば、夫の到着をしずしずと待つのが一般的。あくまで自分が主人であるとこだわり続けたシルヴェストロが、何やらどうして今日は先に現場入りをしている。


「また逃げるんですか」

「わ、悪い?」


イレーニアがふんと鼻を鳴らす。胸を張り、腰に手を当てた。その手には工具。彼がいようがいまいが、自身のすることは変わらない。


「そうですか…」

「!」


シルヴェストロがむくりと起き上がった。とっさに構えるイレーニアに、彼は花緑青の瞳を向ける。


「……」

「何よ!睨んだって怖くないんだから!」

「…酷いですね」


シルヴェストロが息を吐く。そして次の瞬間――泣き出した。


「俺はこんなにっ…あなたのことが、好きなろにっ…!」


彼の口からは、予想外の言葉が飛び出る。


「……え?」


イレーニアの時が止まった。いやだって、彼はあり得ないことを言った。あと噛んでた。思考を停止させる彼女の前で、シルヴェストロははらはら涙をこぼしながら、悔しそうに続ける。


「いつも逃げる上に、男に夫を襲わせるだなんて…。俺は他の女性と関係を持つことだってなかったのに…」

「え?え?」


イレーニアの頭中を混乱が支配する。そんな中、シルヴェストロの口からは嗚咽と、あと特徴的な匂いが漏れる。葡萄とアルコール。


(この人…酔ってるの…?)


室内に目を配れば、サイドテーブルの上には確かに、飲みかけのワインボトルが鎮座している。だが、それにしても、それにしてもだ。


「こ、これは復讐だって、あんたが言ったんじゃない…」

「おれだってずっと、そう思ってたんです!」


シルヴェストロが吠える。普段の様子からは考えられないほど必死な形相である。


「少し形は違ったけれど…8年間、想ってきたのに、拒否されて、逃げられて、酷すぎます…」


イレーニアからすれば濡れ衣である。それはお前が悪いのではと声を大にして言いたい案件だ。けれどこんなに弱っている彼にそれを言えるほど、イレーニアは非情ではなかった。


「ご、ごめんね…?」


思わず謝罪が口をついて出てしまった。シルヴェストロがぱちぱち瞬きをする。ずびりと鼻を啜って、イレーニアの腕を掴んだ。


「なら、いいですよね」

「え」


そのままぐいとベッドに引き寄せられた。工具が絨毯の上に落ち、彼女の口からは悲鳴に近い声が漏れる。


「ちょっ、待っ!待て待て待て!」


蟻地獄よろしく引きずり込まれ、シルヴェストロが覆い被さってくる。が、イレーニアには準備ができていない。そんなつもりではなかったので、色々と準備ができていない。下着だって上下違うし、心の準備だってできているわけがないのだ。

それに何より、これはシルヴェストロの捨て身の罠かもしれない。少々プライドを捨て去りすぎな気もするが、何せ相手は元クソガキ。


(ここは殴ってても脱出しないと!だいたい、急にそんなこと言われても信用できるわけ、)


「イレーニア」


拳を固める彼女の名前が呼ばれた。目の前にはシルヴェストロの顔。幸か不幸か、ロザンナによく似た、中性的で、文句のつけようがなく綺麗な顔立ち。そうしてぐずぐずに濡れた顔で、すがるように聞いてきたのだ。


「おれのこと、きらいですか…?」

「っ…!」


イレーニアが言葉に詰まる。握った拳から、力が抜けてしまったことがわかった。呆然としていると、藤色の髪がするりと下がってくる。初キスはいちご味がする、なんて夢物語は露程も信じてはいなかったが、まさかしょっぱいものになるとは予想外だった。いや、思ったよりしょぼかったとかそういう話ではなく、フレーバー的な意味合いで。



もうずっと前。彼の背丈が今の半分ほども無かった時。「神童のシルヴェストロ」の名が付く前の話。いくら大人になろうが、クソガキになろうが、本質はそうなかなか変えられるものではない。当時付けられた2つ名は、「泣き虫小僧のシルヴェストロ」。


そしてこれは、彼自身もその家族さえも知らなかったことだ。何せシルヴェストロは酒を飲み過ぎることなど無かったし、比較的強かった。だからこんな後日羞恥で死にたくなるような痴態を晒すこともなかった。そう。好きな女性から欲しいものを聞き出せなかったあまりに、ヤケ酒などしない限りは。


シルヴェストロは、泣き上戸だった。

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