第4話 核心をつくロザンナ
「イレーニア・カルカテルラ!」
静かな屋敷に似合わぬ怒号が響き渡る。使用人が驚いて廊下を闊歩する若様を見るが、そんな視線など何のその。
普段は冷静且つ悠然と歩く足取りはどこへやら、乱暴な音を立てて先を急ぐ。そして足音の主は本来は優しく押すべき新婚夫婦の寝室、その扉を勢いよく開けた。
「くっ…!」
続けて部屋全体を見渡すが、そこに人の影はない。そして外された天井の一部とぽっかり空いた穴に、今日の脱出方法を悟った。
(また、逃げられた…!)
そう悔しさで胸をいっぱいにするシルヴェストロは知らない。この数秒後に、すぐ横のクローゼットが開いてムキムキ侍女が飛び掛かって来るとは露程も予想していないのである。
空は高く晴れ渡り、太陽の光は地上に優しく降り注ぐ。ここカルカテルラ領領主のお屋敷、その中庭も例外ではなく、白いパラソルはその陽を一身に受けてきらきらと光り輝いていた。
心地よい風が髪をくすぐり、流れるのはポットからカップに紅茶を移す水音。その合間に、庭師がちょきちょきと垣根を整える音が響く。
「あの、女は…!」
さて、そんなのどかで優雅な昼下がり。パラソルの下で、シルヴェストロは額に青筋を浮かべていた。
「嫁としての自覚が無い上にゴリラが過ぎる!」
机をがんと拳で叩く。白いテーブルクロスに、一瞬皺が寄った。
彼が言っているのは他人のことではない。もちろんゴリラのことでもない。彼の妻、イレーニア・カルカテルラのことである。
シルヴェストロが筋肉男に襲われかけた衝撃的な初夜から、2週間が経った。そう、14日もあったのだ。新婚夫婦が夜の営みを遂げるには充分すぎる期間だろう。
ところがどうしてイレーニアは捕まらない。窓を塞ごうとも鍵を使って閉じ込めようとも、彼女の前では無駄だった。蝶番を弄って扉ごと外したり、暖炉の煙突を伝って逃げたり、この前など勝手に隠し通路を作る始末。思わずゴリラが過ぎるなんて言葉が出てしまうのも致し方ない。
シルヴェストロが寝室に入る頃には、彼女はすっかり綺麗に消えているのだ。
「まあシルヴェストロ」
震える彼の前に、ティーカップが置かれた。かちゃんと小気味良い音が鳴る。
「わたくしはイレーニアさんが来てくださって、本当に良かったと思っていますよ」
本人の性格をそのまま表したかのような、のほほんとした声。これまた柔らかな曲線を描く髪はシルヴェストロより少しだけ淡い紫、大きな垂れ目が何とも愛らしい。
ロザンナ・カルカテルラ。
カルカテルラ領領主夫人であり、シルヴェストロの母親である。彼女は胸を張って、自慢気に口を開いた。
「皆さんからも、素敵なお嫁さんを貰ったわねって言われるのです」
「…具体的にはどのように」
「行き遅れだから浮気の心配がなくて安心ねとか、カルカテルラ家は門が広いのねとか」
「それは恐らく…皮肉です。母上」
ロザンナの周りには、シルヴェストロの妻の座を自分の娘に就かせようと虎視眈々と狙う輩が多かった。今回のこれも、自分達の見合い話を蹴って、イレーニアを選んだことに対する恨み節だろう。ところが残念ながら、相手が悪かった。
真実を聞いたロザンナはきょとんと目を丸くし、睫毛をしばたたかせた。
「あらどうして?彼女は素敵なお嫁さんですよ」
そう言って指を折りながら、嬉しそうに続ける。
「わたくしの椅子を直してくれましたし、あとこの前、訪問販売の方と契約を交わそうとしたら止めてくださいました」
「…また羽毛布団を購入しそうになったのですか?」
「いいえ。今回は新聞220年分です」
「……」
「だって洗剤を付けてくださるって仰るんだもの。イレーニアさんから人間そんなに長くは生きられませんよと言われて、我に返りました」
「…そうですか」
シルヴェストロが息を吐く。今回ばかりは、イレーニアに感謝した。既に読みきれないほど届く新聞が、また増えるところだった。
ロザンナはシルヴェストロの実の母親ではあるが、顔立ちや髪色以外はそれはもう全く似ていない。生まれも育ちもやんごとなきお嬢様である彼女は、世の中の汚いところを知らないと言うか、重度の鈍感と言うか、まあ身も蓋もない言い方をしてしまえば、頭がお花畑だった。出先で忘れ物をするなど日常茶飯事、時にはどういうわけか履いていた靴さえも置き去りにし、勧められるがままに物を購入してしまう。
だから「のんびり屋のロザンナ」とか「カモカモしいロザンナ」とか言われるのだ。彼女の2つ名に関しては実はあまり知られていない別のものもあるのだが、いかんせんこれらの要素が強すぎる。母親の彼女がこんな状態なので、シルヴェストロが小さな頃からやけに大人びて育ってしまったのも、道理なのである。
「ふふ。イレーニアさんが、何かあればすぐに呼んでくださいと部屋に呼び鈴まで設置してくださったのです。毎日様子を見に来てくれますし、あんなに良いお嫁さんはやっぱりいません」
あのシルヴェストロの母親であると最初は警戒していたイレーニアも、彼女のあまりのボケボケぶりにむしろ「私が何とかしなきゃ…!」と決意を固めたであろうことは想像に難くない。そういえばロザンナに付いていた使用人が泣きながら感謝を述べに来たなと、シルヴェストロは思い出した。
「…そうですか」
眉間に皺を寄せる。ロザンナがくすりと笑って指を振った。
「あらあら。呼び鈴はわたくしのものです。そんな顔をしたって、あげませんからね」
「…ひとりでどうにかします。それが復讐と言うものです」
「復讐…」
息子の口から飛び出た物騒な言葉に、彼女がぱちぱち瞬きする。そして身を乗り出して、聞いてきた。
「昔、晩餐会の時に、彼女に怒られたことですか?」
「まあ。そうですが」
シルヴェストロが唇を噛む。
8年前のことは、忘れもしない。彼にとって初めて、女性に怒られた日だった。
「怒りと憎しみのあまり、しばらくは夢に出てきましたよ。あの女に復讐するため、俺は自ずから次期領主になろうと決意したのです」
シルヴェストロがふんと鼻を鳴らす。けれど彼の表情とは裏腹に、ロザンナは嬉しそうに手を合わせた。
「あの後から、貴方は好き嫌いなく残さずに食べるようになったではないですか。わたくしとても嬉しかったのですよ」
「もうあんな女に説教されるのは御免ですから。けれどそんな辛酸を舐めるような日々も、もう終わりです。あの女を地獄に陥れる為に、俺はここまで来たのです」
「貴方は天才な上に淡白な子でしたから、目標を持って努力する姿は新鮮でしたね。やっぱりイレーニアさんには感謝しないと」
「……」
少しばかりズレた返事をするロザンナに、シルヴェストロは無言を返す。彼の目的を思えば、イレーニアに感謝することはないのだ。
「母上。あまり情を移さないでください。あの女は目的を遂げたらお払い箱です」
「まあ。イレーニアさんのことは大好きなのに、それは困りました。どうしましょう。貴方と離婚したら、お父上に第2夫人としてお嫁に取って頂こうかしら。そうすればわたくしの夫人仲間ですね」
「そんな泥沼展開は止めてください」
母の妙案をすぱんと切り伏せ、シルヴェストロは目の前のチョコレートを摘まむ。一粒食べて、口を開いた。
「8年ごしの復讐が果たせるまで、あとほんの少し…!必ずや引導を渡してやります」
震えながらも、ぐっと拳を握る。そんな息子の様子もお構い無しに、ロザンナはのんびり紅茶にスプーンを刺した。
「まあまあ、あれからもう8年も経つのですか」
頬杖をつきながら、くるくる水面をかき回して、情報を整理する。
「貴方は8年間…夢に見るほど彼女を想って。らしからぬ努力までして結婚して。なのにまだ足りないと言う…」
そこで言葉を止めた。今度はロザンナ自身ががくるりと視線を回す。そして父親譲りの花緑青色の瞳と目が合うと、そこで止まった。
「シルヴェストロ。それは…復讐ではなく、初恋と言うのでは?」
スプーンがかちんと音を立てる。あとは、静寂。鳥の声も木々のざわめきも、その瞬間だけ、まるで、切り取ったような静寂が訪れた。
「……え?」
ぽろんと音がして、シルヴェストロの目から何かが落ちた。それが鱗であると理解するのに、だいぶ時間が掛かった。
「シルヴェストロ。好きな女性に渡すなら、引導ではなく素敵な贈り物が良いですよ」
そう広くは知られていないロザンナの性質。少しばかり空気が読めなかったり、相手に遠慮しないからこそ言える、その発言は時に的を射る。
彼女の異名は、「のんびり屋のロザンナ」に「カモカモしいロザンナ」、そしてあともうひとつ。「意外と核心をつくロザンナ」である。
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