第117話 もうこの場所には慣れましたか?
「もうこの場所には慣れましたか?」
僕は社会人になるまで地元を出たことが無かったので、こう聞かれることが殆どありませんでした。むしろ、大学では地元の外から来る人の方が多かったので、聞くことが多かったくらいです。
しかし、社会人になって、数年に一度住む場所が変わるとこの言葉の意味が良く分かるようになってきました。そうか、初めての場所ってこんなに違和感があるんだな。だから、皆、慣れたかどうか心配してくれるんだな、と。
どの状態を持って「慣れた」と言うのかは人それぞれだと思いますが、僕は「行きたい場所に行く」ことが出来れば「慣れた」と言って良いと思っています。
今年、東海岸ニューヨークで、手痛い失敗をしながらも縦横無尽に走る地下鉄を乗り回しました。西海岸サンフランシスコでは、電車に加え、路面電車やバスにも乗りました。また、カナダの国境に近い、アメリカ中央北部にある大都市ミネアポリスでも電車と電動スクーターに乗って移動しました。
見知らぬ土地に行き、システムも乗り方も違う機関を使う度、自分が酷く頼りないものに思えます。
初めて東京に出た時も、JRとメトロと私鉄が絡み合った電車網に四苦八苦しながら、遊びに出かけたのを覚えています。人生初の田舎では電車は無かったので、車でトコトコと散策しました。結果、行き止まりで立ち往生するのもお約束。
その土地の交通機関を初めて使う時はいつもドキドキしながら切符を買い、ホームの方向を確かめ、駅に着く度に路線が間違っていないか確認します。そこまでしても間違うことはままあるのですが……。
でも、次第に勝手を知って、あそこに行きたいのならどうすれば良いか、が何となく分かってきます。モグラが巣穴を徐々に広げていくように、ネコが気ままに塀の上をトコトコ歩いていくように。住みかを中心として行動範囲が広くなり、目的地へ的確に向かうことが出来ようになって行く。それが「慣れ」の感覚なのだろうと感じています。
いわば、慣れの感覚とは、ある地点を中心にして、3次元的な空間の広がりを認識し、そこにある光景を少しずつ連続的に広げていくことです。
逆に言うと、迎えに来て貰うばかりで自分で移動しようとしない人は、その土地に慣れるという感覚は無いのではないのでしょうか。もっと言うと、慣れてきたという嬉しさを感じることは無いのではないでしょうか。
また、どこでもドアなんてものが出来たら、この慣れの感覚は消滅してしまうのでは無いかと危惧しています。
渋谷の横には恵比寿があり、恵比寿の横には目黒がある……。大阪の横には京都や兵庫や奈良や和歌山があり、パラグアイの横にはボリビアがある……。
そんなありふれた距離感覚に意味がなくなります。
新宿の横に香港のスラム街があっても、神保町の横にエチオピアのカレー屋があっても良い。娼婦が働く店の横に幼稚園があっても良いし、整然としたオフィスの横に裸で踊り回る大学生の部屋があっても良いのです。
空間の収斂。距離の消失。
どこでもドアじゃなくても、ハンドルすら必要ないレベル5の自動運転が実現して、移動に注意を向けることが無くなれば、距離感覚が今よりも徐々に途切れ途切れになって行く気がします。テクノロジーが発達するにつれ、その土地に慣れるって感覚が薄まって行くのではないのかなぁ、とぼんやり思っています。
それが少し寂しく思えてしまうのは、旅が好きだからでしょうか。
それとも、人が道に迷うことが無くなるからでしょうか。
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