第113話 客観主義者は小説を書けない


 僕は「小説やエッセイを書く人間は客観主義者ではあってはならない」と考えています。なぜなら、そのような文章は作者の内的概念や内的衝動、感性の発露に他ならないからです。事実を求められている訳ではない。意味を求められているのです。


 客観主義の場合、事実が一緒であれば同一事項と見做します。例えば、能動態と受動態の関係ですね。「お姉さんはペンギンを生み出した」と「ペンギンはお姉さんに生み出された」は客観的には同じ事実を表現しています。しかし、これは一様に捉えられるのでしょうか。

 もう少し極端にしましょう。「だから、僕は文章を書くのを止めた」と「だから、文章は書くのを止められた」は同一事象ですが、同じ意味でしょうか? 能動態を受動態に変えただけなので論理は通っているはず。ですが、非常に違和感がありますね。

 なぜ違和感を覚えるのか、そこに注目すべきなのです。これは文法云々の話ではなくて、どうして僕たちはのかという問いです。


 僕たちが言葉を使い分けるのは、そこに心的距離を設定するから。若しくは、自己を投影するからですね。ペンギンに自己投影するのはちょっと難しいので、人で考えてみましょう。


 彼女は、彼を振った。 

 彼は、彼女に振られた。


 この二つの文を読んだ時、作者との心的距離が近いのはどっちでしょうか。文脈を意識せずに読むと、僕はどうしても主語に関心があるように感じます。事実は同じなのに距離が違う。僕と異なる感覚を持っていても大丈夫です。それがあなたの距離ですから。


 僕は石を遠くへ投げた。

 石は遠くへ投げられた。


 これも想起されるイメージが異なるはずです。上の文は僕が向いている方向へ視点が向いている。下の文は投げた僕が離れていき、ぽちゃりという音と共に僕の姿が水に飲まれる様まで想像出来てしまう。


 このような違いを見出せるのは僕たちが主観的なものの見方をしており、(無意識であっても)そこに意味を持たせるからです。受動態は主語に目が向いていますし、被害者意識さえも内包することがあります(殴られた、歩かされた、取られた、言われた、など)。


 エッセイのような私的文章を扱う以上、僕たちは心理的な距離や微妙な心中を文章に込めようとしているはずです。だから、客観主義的であってはなりません。自分が持つ感情や表現に意識的に関わろうとしているのなら客観視など必要ありません。

 文章の細部まで見直すべきだとか、そんな陳腐なことを言いたいのではなくて、作者は感情や想いを込めているんだからそれは主観的見地の塊だよね。っていう話です。


 こんな例も考えてみましょう。


 変態が僕に話し掛けます。

 変態が僕に話し掛けてきます。


 この文章も自然だと思うのは下の方ではないですか?

 見知らぬ人は話し掛けのです。そこに、微妙な変態との心理的距離が表されています。変態が僕に話し掛けます、ってなんだか変態のことを知っていたような、友達のような距離感であってもおかしくない気がしませんか?


 いやいや、僕に合うのはどっちか、とかそういうことでは無くてですね。そんなん決まっていますからね。

 変態はAskewに話し掛けます。

「今日のパンツめっちゃ良いと思う」

「ほんと、ありがとう。カンブリア紀意識してみた」みたいなね。


 僕の場合はこれが自然なのは認めますけども……。

 おかしいなぁ。言いたいこと伝わってるかなぁ。

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