第106話 うんこに見る自己愛
家の掃除をしていて不思議に感じることがあります。
「どうして自分の一部だったのに、体から離れた瞬間にゴミになるんだろう」と。
髪の毛や、脇なのかすねなのか背中なのか良く分からない毛に、鼻毛に眉毛。毛ばっかだな。それらを掃除機で吸い込みます。爪、皮膚、風呂垢、トイレのシミもそうですね。綺麗にするために一所懸命にゴシゴシ、ふきふきします。その時に、上記の疑問を抱きます。
これらは僕の一部だったものです。特に髪の毛は将来的にもずっとそこにあって欲しいにも関わらず、体から離れた瞬間、不要なもの、ゴミに成り下がります。この一瞬における奇妙な認識の変移は、いかに自己認識の領域が肉体的なものに縛られているかを示しているようです。
この不思議な感覚を高らかに唄い上げた名曲があります。その全歌詞を引用しましょう。
――
さっきまで体の中にいたのに
出てきた途端
いきなり嫌われるなんて
やっぱりお前はうんこだな
――うんこ(作詞:森山直太朗、御徒町凧)
約1分強の短い曲ですが、切ない歌詞に優美で豊麗な旋律。澄んだファルセットに、歌い切った後の壮大なストリングスが情感を掻き立てます。僕は直太朗が大好きですが、それは日常の不思議を切り取り、人の心を揺さぶるように唄い上げる技量に惚れ込んだからです。何より、芸人並みにトークスキルが卓越していますし。
さて、歌詞に戻りましょう。歌詞をそのまま受け取ると、自分のうんこから距離を取り、可哀想なものを見る目で哀しい運命を背負ったうんこに同情しているように思えるでしょう。確かに髪の毛と同様、僕にとってゴミにしか見えず、排除、浄化すべき対象に他なりません。
しかしながら、他人のそれと、自分のそれでは感覚が全く違う。一般的にトイレ掃除は嫌われますが、一人暮らしのトイレ掃除は学校のものとは異なります。嫌悪感が少ない。これはどうしてでしょうか。
僕はここに「自己愛」を見出しました。そして、直太朗は
かつて自分に向けた問いを、友達に投げかけました。
「同じだけ汚れたトイレがある。一つは公衆トイレ、もう一つは自宅のトイレ。どちらを掃除したい?」
この問いの真意は自己愛がどれだけ強いかを自覚することです。僕は迷わず自宅でした。自己満足主義を掲げている以上、自己愛が強くないわけがありません。
ただ、自己愛が強いと言っても、昔から僕は自己否定的です。自分が大嫌いでした。臆病な自尊心のために競争から逃げ、醜悪な心から目を背け、不甲斐ない自分を嫌悪していました。自己愛が強いことすら侮蔑の対象でした。
しかし、この曲を聞いた時にはっと気づいたのです。僕はうんこでさえ愛しているのだ、と。そこから開き直れた気がします。自分が大好きでいいじゃないか。お前が醜いことに変わりはないが、それでさえ自分にとって愛すべきものと感じてしまっているのだ、と。
キューブラー・ロスの死の受容過程に通じるものがあります。最初は現実を拒否していましたが、もう僕はこの醜さを受け入れるしかないのだと感じています。醜さを彩る努力は止めませんが、醜悪さは受容しました。つまり、僕はうんこを受け入れたのです。
ちなみに、僕の質問に友達はこう答えました。
「どっちも嫌だ」
――そういう話じゃねぇんだよ!
これは、一本取られましたね。
結局その後、仲良く日本酒を飲んでどうでも良くなりました。
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