第105話 諸君、私は運命的な出会いが嫌いだ


 運命的な出会い。


 何て甘美な響きなのでしょうか。劇的で、情緒的で、浪漫的。「いつかは私にも運命的な出会いが……」そう思うのも無理はありません。それほど強い力を持った言葉だと思います。誰でも特別な存在でいたいですから、自分と誰かが出会うべきだった、宿命的な糸を結ばれて生まれてきた。そんな甘い蜜に浸って恍惚としたい。そう思うのは自然なことです。僕もそうです。


 ただ、僕は運命的な出会いが苦手なのですよね。失礼、言葉が足りませんでした。僕は運命的な出会いが苦手、なのです。


 運命。


 この言葉だけを聞くと抵抗を感じる方は多いのではないでしょうか。全てのものごとが予め決定された結果を辿る未来。因果的決定論に成り立つ世界。全知であるラプラスの悪魔が存在しうる宇宙。

 その言葉にどうしようもない無力を感じる。恐るべき圧力を感じる。形容しがたい恐怖を感じる。かくあるのが決まっていただなんて信じたくない。自分のことは自分で決める――。感覚的にそう思いたくなりませんか。


 しかし、「出会い」という言葉がくっついただけで、何とも抗いがたい魅力を持った言葉になるのは不思議ですよね。これこそが人類が劇的な物語を創り、感動して、自ら刷り込んだ印象操作の賜物のような気がしています。つまり、「運命的な出会い」だけを特別なものにしてしまった。


 もし、己の自由意志が存在し、因果に干渉できると信じるのであれば、「運命的な出会い」は否定されます。一方、運命的な出会いを受け入れるのであれば、運命的な別れも、運命的な苦悩も、運命的な生をも受け入れていくことになります。

 

 その意味で「運命的な出会い」を望む多くの人は何を望んでいるのでしょうか。運命に決定された過去、運命に沿った未来を望んでいるのでしょうか。僕にはそうは思えません。


 だから、運命的な出会いという言葉には注意して欲しいのです。軽々しく望んでいいものではないと思うのです。そこには自由意志と運命論的世界観を真っ二つに分断する深い溝があるように思えてなりません。


 今、確実に言えることは、運命的な死だけです。しかし、それ以外は自分の解釈次第ではないかと思います。運命的な出会いを望んでも良いと思います。逆に、全ては未決定であると結論づけてもいいでしょう。現代でも解明されていない難解な問題の一つですし、凡人、果ては人類には知り得ないのかもしれませんからね。現時点で何に立脚するかは個人次第です。



 さて、今一度、皆さんに問いかけます。

 ――皆さんは「運命的な出会い」がしたいですか?

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