第102話 意味のないことに興趣を見出す

 

 全てのことに意味はあるのでしょうか?

 

 ロマンチストなら「意味がある」と答え、虚無主義者なら「意味がない」と答えるのでしょう。僕は不可知論者に近いので、「意味があるかどうかなんて分からない」と考えています。


 先日、何の機能も無いように思える大きな塔を見かけました。この塔を何のために作ったのだろう。やぐらでもなく、煙突でもなく、山のふもとでただ聳える塔。その巨大な建造物を目の当たりにして、その存在に意味を見出せませんでした。まるで建てたかったから建てたような恣意性にぽかんと口を開け、不思議な感情が沸き起こったのです。何の役にも立っていない塔にも存在価値があるようです。そして思い至りました。意味がある、意味がない、それとは独立して、興趣は自然と生まれ得るものだと。


 質問に戻ります。皆さんは全てに意味を見出せますか。僕は自分の行動ですら意味を見出せません。


 子供のころ、積み木やレゴが好きだった人は分かると思います。ブロックを組み合わせていったら結果として意味ありげなが出来たという感覚が。塔を作ることもあるでしょう。壁を作ることもあるでしょう。幾何学的構造をもった謎のオブジェが出来上がることもあるでしょう。が、意図しない限り出来上がったものは偶然の産物です。そこに作り上げた意味もありませんし、目的もありません。


 しかし、出来上がった構造物にヒトは後から意味を付け加えます。情味すら感じるのです。この感受性は言わずもがな人間の想像力に支えられています。


 例えば、このエッセイで「おっぱい」とだけ打ち込んだ記事を公開したとします。親切な読者の皆様は目を疑い、画面を前後にスクロールし、この四文字に含まれた作者の意図を汲み取ろうと思考を巡らせるでしょう。


「Askewはついに発狂したのか」

「いや、卒業の時が来たのではないか」

「言葉にならない感動の表象に違いない」

「文字を尽くしても表現しきれない絶望に行きついた結果であろう」

「わかる。おっぱいには呟かざるを得ない魅力があるのだ」


 想像力に支えられた解釈はあらゆる方向に触手を伸ばします。そこに何の意味も持たせていない気紛きまぐれによる発言であっても、ヒトは意味を見出すに至る能力があるのです。


 大学時代、趨勢を占めていたSNSであるmixiで、おっぱいについて手紙形式で熱く語った私見を公開しました。あまりに文字を重ねた手記が今後の大学生活へ与える影響を考慮し、公開範囲は男友達に限定しましたが、嬉しいことにその記事は過去最高のコメント数を記録しました。公開翌日、学生が大勢いる大学の食堂で友達に囲まれ「おっぱいの記事、良かった」「おっぱいを語る文才がある」と口々に賞賛を受けます。ちょっとした辱めを受けている気がしながらも、はにかんでいました。人生で最も可愛らしいはにかみだったと自負しています。今ではアカウント名すら分からないので、主人の下を離れた文字列は限りなく広がるネットの荒野の片隅に転がっているのでしょう。発掘されないことを祈ります。

 さて、上記のように言葉を尽くしたならともかく、おっぱいという単語だけではそこまでの意図を感じられるとは思いません。にも関わらず、ヒトはそこに趣を見出すのです。


 この世の全てに意味があるかなんて分かりません。


 意味よりも大切なのはそこに勝手に情味を見出す主観なのです。人生の意味なんて分から無くてもいいのです。そもそも意味など無いかもしれないのですから。


 おっぱい。人生。自分の存在。


 その言葉だけでは何の意味も意義も見出されないようですが、そこに興趣を見出す能力がヒトには備わっています。それこそが、ヒトをヒトたらしめる重要な能力なのではないか。僕はそのように思っています。

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