第100話 恩人の家で吐いた話


 遂に百話ですね。自分でもびっくりしています。こんなタイトルで至極不安しか感じませんが、頑張って書きますね。また、ここまで読んで頂いてありがとうございます。これでエッセイ執筆前から書きたかった経験は全て文字に出来ました。良かった良かった。今回の話は旅行全体のほんの一部ですが、細かい道程は日記にしかならなさそうなので書きません。何より、書けるほど覚えていません(断言)。仮に書くとしたらその他の旅行も含め、些細な旅行談を喜んで読む人のための別作品にしたいと思っています。今のところ可能性は殆ど無いですが、このエッセイで書くことなくなったら書きます。その時は「あ、ネタ切れしたんやな」と関西弁で察してください。


 前書きが長くなってしまいました。さて、僕はハチクロを読んで北海道に行くことにした訳です。意味が分からなければ、前回、前々回をご覧ください。それでも意味は分かりません。話は札幌のある場所への道中から始動します。しかし、汚い話なので苦手な人はブラウザバックした方が身のためです。僕の痴態を知りたければそのままどうぞ。




 関西から二十日かけて宗谷岬に辿り着き、帰りがてら札幌市内のある場所へ向かっていました。自転車を止めて一軒家が連なる住宅街で住所を確認します。よし、ここらへんだな。あの日からずいぶん経ったような気がします。その手元には小さなメモ用紙がありました――。


 ◆


 宗谷岬に向かう途上、留萌るもいから北に走った「おびらにしん番屋」という道の駅で、僕は陳列されている珍味の味を必死に想像していました。うん、これは美味しい。これは塩辛くてビールに合う、と。一日の生活予算およそ3千円の極貧旅行です。各地の名物を堪能するため無駄遣いは出来ません。毎日安く腹は満たせますが、味は付いてこない。必然的にただことで味覚を満足させる術を身につけます。その日も休憩中に妄想の海で、海の幸と泳いでいました。


「すみません、あのー」

 ふと女性の声が耳に入ります。

「え、あ、はい」

 涎をしまい、挙動不審になりながら現実に帰還しました。目線を上げると若い綺麗な女性と上品な年配の女性が僕を見ています。ちょっと待って、目の焦点合ってたかな。突然のデートで当日の下着を思い出す女性の如く、妄想中の間抜けな姿に若干の不安を感じていましたが、年配の女性はにこやかで気にする様子もありません。

「表に置いてある自転車で来られたんですか?」

 予想外の質問に思わず声が上ずりました。

「はい! そうなんです!」

「神戸から?」

「はい! 宗谷岬に向かっています!」

「へぇー、凄い!」

 北海道では珍しくもない部類の旅行者にも関わらずとても驚いてくれました。そして、出発して早々に思いついたアイデアに心から称賛を送ります。自転車のリア後ろのキャリアに積んでいた銀マットに「神戸→北海道」とマジックで大きく書いたのです。お二人はそれを見て店内に入り、海産物を眺めて涎を垂らす真っ黒な男を見つけ、まんまと話しかけたのでしょう。


「お風呂やご飯はどうしているの?」

「体も服もキャンプ場の水道で洗っています。ご飯はセイコマが多いですね。起き抜けで食パン1斤食べ切るくらいお腹へっちゃうので。それが一番お金かからないんですよ」

「あらまー!」と、心底驚いたように笑ってくれました。

「じゃあ、温かいお風呂とご飯が恋しいわね」

「はい、そうなんですよー! ときどき名物は食べるんですけど、一日4~5食は食べなきゃガス欠するので毎食はちょっと厳しいですね……」

「そうよね。だけど宗谷岬はもうちょっとだから頑張って!」

「はい! ありがとうございます!」


 思いがけず元気を貰いました。所々にチェーンの油を沁み込ませたおよそ綺麗でない格好の男と、和やかに話してくれたのですから。こんなことがあると頑張れるよなー。トイレを済ませて跳ねる気持ちで自転車へ戻ると、先ほどのお二人が自転車のそばで立っています。その手にはメモ用紙が握られていました。

「私たち、札幌から来ているの。これが住所と電話番号だから、もし近くに寄ることがあったら遠慮なく連絡してね。お風呂と美味しいものを用意して待ってるわ」

 お名前、住所、電話番号が書かれた紙を受け取ると、手を振ってご家族を見送りました。車が見えなくなると、すぐに僕も日本最北端に向かって出発しました。


 まもなく、地平線まで果てしなくまっすぐな道が続く光景が現れました。夢に見たオロロンラインです。青に伸びるまっすぐな道の上は、言葉に出来ないほど清々しく、喜びに満ちています。抜けるような青の下、眼前に広がる情景にぶるぶると震えながら、僕はただ足を交互に動かしていました――。


 ◆

 

 住宅街で表札を確認し、インターホンを押します。

 どんなお話しをしよう。どんな風に感謝を伝えよう。しばらく家の前で考えを捏ねていると、ガチャ――とドアが開かれました。


「ようこそ。お疲れ様」


 立派な庭付きの一軒家にお住まいのご夫婦は、まるで帰省した息子のように僕を歓迎してくれました。荷物を置くと「お風呂が沸いてるから入りなさい」と早速お風呂場に案内してくれます。見知らぬお宅で服を脱ぎ、洗濯機に入れる。奇妙な日常感のもとで生まれる緊張と申し訳なさはお湯に全身が包まれると瞬時に増殖を止め、ほろほろと筋肉と共にほぐれていきました。


 ほくほくと湯気を上げてリビングに向かうと、良い匂いが鼻をくすぐります。

「もう少しでご飯が出来ますからね」

 奥さんはにこやかに告げます。僕はリビングに充満した匂いに期待を膨らまし、晩御飯の支度が整っていくのを眺めていました。その間、ご夫婦は色々と話してくれました。帰省されていた娘さんと小旅行に出たら、恨めしそうに干物を見つめる僕を見かけたのだとか。お子さん二人は仕事で東京に出ており、今日はかつて息子さんが使っていた和室に泊まらせて頂けるそうです。ご夫婦と談笑しながらご飯を待つ時間は、とても温かくて、どこか懐かしく、なんだか涙が出そうでした。

 

 しばらくすると、北海道フルコースが目の前に並べられました。新鮮な魚のお刺身とこんもりと盛られたイクラ、炊き立てのお米にお味噌汁、家庭栽培でとれたお野菜のサラダ、カラッと揚がったジューシーなザンギ、これまた庭でとれたお芋と野菜を使った自家製ピザ。

 半端ない、何この貴賓きひん待遇。さちのオンパレード。北海道尊い。母さん、俺、今日召されるかも――。美味しい料理が一口ごとに舌を蕩けさせます。このところパンと羊羹と大福しか食べていなかったので僕の胃袋は片っ端から北海道を堪能し、呑み込んでいきました。


 今迄のひもじい食事を取り返すように食べに食べます。今なら魚卵男子、鶏人、ピザ小僧の名をほしいままに出来そうです。がつがつとお腹を満たす貧相な大学生がおかしみを誘ったのでしょう。ご夫婦もにっこりと微笑んでいました。デザートの濃厚なヨーグルトとアイスもぺろりと完食し、極めつけには甘そうなカットメロンが顔を出します。あぁ、どうしてそんな美味しそうなものが次々と! 僕は二つ返事で「いただきます!」と言って、滴る果汁に酔いしれました。


「ごちそうさまでした!」


 至福の時間はすぐ過ぎていきました。僕はこれ以上ないほどの幸せをお腹に詰めて、満足感を噛み締めています。美味しいものをお腹いっぱい食べるのは、この上ない幸せかもしれない。そんなことを考えました。三


 洗い物を申し出ましたが「いいの、気を遣わなくて。今日は存分に甘えていいから」と押し留められます。お力になれそうもなく、すごすごとリビングルームのソファに座ります。二


 食後のまったりとした雰囲気の中、テレビを見ながら旦那さんと談笑します。この旅のこと、知り合った人のこと、ご夫婦の家族のこと、関西のこと、北海道のこと……。様々なことを話しました。和やかな時は過ぎ、何気なく旦那さんの言葉に相槌を打って笑ったときです。一


 突如、みぞおちに違和感が走りました。零


 うぇっ。


 米津玄師のLemonにインスピレーションを与えたと思われる間抜けな声が出ました。


 ビチャ。


 刹那、何かが食道を勢いよく駆け上り、床に落ちました。目を凝らすと先ほど食べたメロンがごろんと床に転がっています。どうして一口大のメロンがここに? 僕は不可解な現象にびっくりしています。旦那さんも突然の出産劇に目を丸くしています。


 すぐに脳は事態を理解しました。僕はさながら卵を吐き出すピッコロ大魔王の如く、メロンを床にぺろんと産み落としたのです。メロンの名産人。こんな能力が僕にあるとは。そんなふざけた思考が現状理解に追いつくと、理性は素早く全身に指令を出し、僕は口を押さえてトイレに駆け込みました。


 3分後、トイレには綺麗なメロンがごろごろと浮かんでいました。


 初めて上がったお宅で深々と頭を下げたのは言うに及びません。あれほど「恩を仇で返す」という言葉が頭の中を高速でぐるぐると回ったことはありません。恥ずかしさと申し訳なさは、球体の中をバイクで駆け回るサーカスのように縦横無尽に駆け回り、ご飯を待っていた時とは違った意味で泣きたくなりました。


 なぜ食べ過ぎがいけないのか、その意味をやっと理解しました。ピッコロになるからです。


「突然ご飯がいっぱい入ったから、お腹がびっくりしちゃったのかもね」

 ご夫婦は笑って優しい言葉を掛けてくれましたが、僕の真っ青な顔からは火が出ていました。


 ご厚意で丁重におもてなしを享受したあげく、代わりにメロンを産み落とす。そんな、人生でも稀に見る大失態を披露したのは後にも先にもあの時だけです。


 しかし、僕には社交辞令を言葉通りに受け取る才能があるようで、厚顔無恥を晒しながら次の日も息子さんの部屋ですやすやと眠っていました。二泊もお邪魔していたのです。二日目は札幌から小樽に足を伸ばし、お菓子を買って帰りましたがそれだけでは気持ちが落ち着きません。これは地元に帰ってから、なにかお返しを――。そう考えていた二日目の夜。僕はおずおずと申し出ました。

「この二日間本当にありがとうございました。せっかくのご飯をすみません。でも、美味しすぎて止められなかったんです。お詫びというか、お礼をしたいのですが……」


 すると、奥さんはこう切り出します。

「あのね。これは私たちのお願いなんだけど、お返しはしないでちょうだい。帰ってからも手紙とか菓子折りとかは送らないで。困っちゃうから」

「そうは言っても……」

 まさかの言葉に口ごもります。だったら、この気持ちはどうすればいいのだろう。その当惑が表情に出ていたのでしょうか。奥さんは続けます。

「私たちは見返りが欲しくてあなたを呼んだ訳じゃないから。私たちがそうしたいからしただけで、別に何もいらないのよ。自己満足みたいなもの」

 自己満足。その言葉が不意に耳に残ります。


「それでも、もし、あなたが何かしたいというのなら、私たちではない誰かにしてあげなさい。自転車で旅している人でも、困っている人でも誰でも良い。あなたがたまたまあった人で良いから、私たちがしたようなことをしてあげて。私たちへのお返しはいらないわ。でも、私たちはそれで良いの。それが良いの」


 言葉を失いました。


 そして、道中で会った様々な人のことが浮かびました。福島でポカリとおにぎりをくれた大学生、大間でウィダーインゼリーをくれたお父さん、苫小牧でバナナをくれたおっちゃん、小樽でパンをくれたおじさん集団。書き切れないほどの見知らぬ人にご飯と、カロリーと、塩分をもらって、北海道に来たんだと思い出しました。


 記憶と奥さんの言葉を反芻します。あぁ、そうか。そんな自己満足の方法があるんだ。


 彼らは決して見返りを求めて応援した訳ではありません。ただ、たまたま僕がそこにいただけ。もう覚えていないかもしれませんし、仮に今、旅をしていても同じように応援してくれないかもしれません。でも、その時は声を掛けてくれたのです。お水や缶詰を差し入れてくれたのです。その優しさのゆらぎとも言える瞬間に立ち会えました。


 この経験と奥さんの言葉は僕の自己中論を一歩進める原体験となりました。


 僕は今迄何度も「自分が中心」だと書いています。僕の行為は、決して他人のためのものではない。全てはただ自分のためのもの。世間ではそれを偽善だとか、保身だとか、意味のない行為だと言う人もいますが、僕には響きません。世界の中心は自分であっておかしくありません。偽善も情けも大歓迎。情けは人の為ならず、です。


 しかし、その先に、札幌のご夫婦に代表される「ただやりたいからする」自己満足の精神が在るのではないでしょうか。それは決して滅私奉公ではありません。決して奉仕ではありません。あくまで自由気ままでいいのです。必ず気にかける義務もない。常に何かを差し入れる必要もない。それで良いんです。思い立った時に自己満足を果たせるのなら。そして、物理的、風評的な見返りを求めている訳でもない。その行為自体が自分の為になっているのです。


 この世界の誰もがあずかり知らないどこかで自分勝手な自己満足を思い出す人がいて、思い出した人の頬が少しでも緩んでしまう。名前も、場所も、顔すら覚えていなくても、誰かの自己満足が間接照明の仄かな明りのようにその人の過去をほんのりと照らしていく。


 北海道への旅は名前も顔も覚えていない人で溢れています。しかし、全てが僕の記憶の中でぼうっと光って、足跡に貯まった雨水のように得もいわれない輝きを放っています。


 僕もいつか誰かの記憶を照らせたら――恩人の家で吐いたがあるのかなぁ。


 ピッコロ系男子はそう思っています。

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