第96話 行き止まりを楽しむ


 僕は今、UC Berkeley(※1)に来ています。世界有数の超一流大学のキャンパスは広く、ノーベル賞受賞者しか停められないParking Lotがあったりと全てのスケールが大きいことに驚きます。


 サンフランシスコは前情報通り、朝晩はジャケットが必須なほど肌寒いですが、お昼はぽかぽかと温かく、絶好のお散歩日和となっています。


 朝方に空港に降り立ち、その足でUCB大学へとやってきました。午後から大学で研究している会社の先輩と会いますが、まだ数時間あったのでプラプラとキャンパスに足を踏み入れたのです。どうして休日の大学はこんなにもワクワクして落ち着くのでしょうか。不思議です。


 ゴロゴロとキャリーケースを引きずりながら、長閑のどかな大学内を歩くと、木漏れ日の中でランニングをする若者や、見学に訪れている人々、談笑する研究生の姿がぽつぽつと見られました。ダウンタウンから山に向かって伸びる広大なキャンパスの中では、木々を縫って小川が流れ、リスが駆け回るほど豊かな緑を湛えています。その緑の中に腰を下ろしているのは歴史情緒溢れる多様で荘厳な校舎群。小高い坂の上には象徴的なゴシック調の高い塔Sather TowerがBerkeleyの街を見下ろしています。山と歴史情緒あふれる建物が共存する風景に地元を思い出して、なんだか嬉しくなりました。


 坂の上からの一望は素晴らしいに違いない、登れるところまで登ってみよう。僕は息を切らして、うんしょと荷物を運んでいきました。


 ずいぶん登ってきたでしょうか。どこに行くにも坂だらけになってきました。古くてお洒落な図書館の如き学生寮Foothillを抜けると、いよいよ人工物が無くなり、道は山の中へ続いています。少し迷いましたが、ふんすと鼻を鳴らしてケースを引きずる右手に力を込め、坂道を登り始めます。片側一車線の道路の右側には木々の隙間からチラチラと街並みが覗き、左側は狭い歩道とすすきのような植物が生えた黄色い斜面が広がっています。


 斜面ではいくつものタンポポが綿毛をつけ、とかげが道の縁でひなたぼっこしていました。僕が近づくと、とかげはちょっとだけ逃げます。道に沿って逃げるので、追い付いては逃げ、追い付いては逃げ……を繰り返しました。なんだか一緒にぽてぽてと散歩しているようで、楽しくなります。しばらく肩を並べて歩きましたが、ついにとかげは草の影に潜り込んで見えなくなりました。


 しばらく登ると道路は大きくカーブを描いて折り返します。歩道はカーブの始まりで途切れ、ショートカットするように木製の階段が折り返し先に続いています。ここまで来たんだしな……。足に少し疲労感がありましたが、荷物を持ち上げて階段を登ります。


 よしもう少し……。と階段の終わりに差し掛かった時、僕は道の先に道路を遮っている厳重なゲートを見つけてしまったのです。


 ……ここまでか。守衛さんに見つかる前にそそくさと階段を数段おりました。僕は進退きわまり、階段の踊り場でキャリーケースに腰掛けて、ぼんやりと目線を投げました。空へと手を広げる大きな木々の緑に遮られ、Berkeleyの街は虫食いのようにちらちらと見えるだけ。海と空の薄い青がその上で溶け、どこからが海でどこからが空かももやがかかって良く分かりません。ここまで来たのでどうにか自分を納得させようとしましたが、良い景色とはとても言えませんでした。それでも、僕の目はその景色を写しています。


 遠くでとんびのような鳥が羽を広げて旋回し、木漏れ日は斜面に落ちています。深呼吸をして一息つくと、小鳥たちの声がそこら中から聞こえてきました。正午を告げる鐘の音が風に乗って届けられます。爽やかな風が新緑の葉と戯れていて、熱を持った身体は涼風に喜んでいます。体の中に溜まった乳酸がしゅわしゅわと蒸発していくように身体が軽くなっていきました。とても気持ちの良い仲夏ちゅうかの昼ひなかでした。


 しばらくなにもせずにそこに座ってぼんやりしていると、ふと、ひらひらと何かが視界の端で揺れます。視線を落とすと、そこには茶色の小さい蛾が頼りなく、でも自由に羽ばたいています。


 ――広がる緑と青の下で、鮮やかな蝶が舞っていたら絵になったのにな。


 僕は目の前の中途半端な眺めと、薄茶色の蛾に苦笑し、自分の無計画性と馬鹿さの帰結に現実を知るのでした。


 ――でも、なんだかこの景色は忘れない気がする。


 同時にそうも感じているのです。行き当たりばったりなんてろくな結果にならない。それは重々承知しています。しかし、たまには気の赴くまま進んでみて途方に暮れる。その行き止まりにあるどうにもならなさをころころ転がしてみる。それが僕なりの一人旅の楽しみ方のひとつです。


 時々通る車の主人はみな不思議に思ったでしょう。こんな辺鄙な場所で大きな荷物に腰掛けた東洋人がぼんやりしているのですから。道に迷い、往生した哀れな旅行者と写ったに違いありません。しかし、僕はその時階段に佇み、取るに足りない景色を目一杯楽しんでいたのです。







※1 UC Berkeley

カリフォルニア大学バークレー校。世界最高峰の大学の一つ。マンハッタン計画に携わる等、原子力開発に大きく貢献。赤茶けたさびれた建物の前で「この建物の中で原爆が開発されたんだよ」と説明してもらった時、説明できない歴史の不思議さを感じました。「生理学系の研究に予算を取られて、今は下火だけどね」。すぐに、先輩はそう続けました。



◆後日談

 その翌日、先輩の研究室に連れていて貰えることになりましたが、僕の行く手を阻んだあのゲートはまさかの研究所への入り口でした。昨日、息を切らして歩いた道をすいすいと車で上り、ゲートを通った時はなんとも言えない気持ちになりました。山の上からみた景色はとても綺麗でした。

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