第86話 理想の職場を夢想する


 理想の職場には何が必要なのだろうか。

 答えは、うさぎと堅物のおっさんである――。


 自分はしがないサラリーマンだ。どこにでもいるありふれた被雇用者であり、大学を卒業して訳も分からないまま荒波渦巻く社会へ「おんぎゃあ」とその身一つで生まれ出た。高波に流されるまま漂流を続けていたらいつの間にか波は去り、辺りには背の高いサボテンばかりが残されている。僕は初め、寂寞とした荒野の中で己の卑小さにぶるぶると震えた。そんな場所にも次第に慣れ、今では郷土意識すら萌芽しつつある。しかし、こんな場所に160万人以上住んでいるのだから驚きである。福岡や神戸よりも大きいではないか。アメリカ有数の都市を開拓した人類の飽くなき欲求と驚嘆すべき適応能力に思いを馳せながら、今日も車を走らせる。


 幾ばくかの眠気を抱えて会社の正面ゲートをくぐると、太陽と国旗とサボテンが僕を見下ろす。駐車場に続く道の上では、とことこ歩く名も知らぬ鳥たちや、とぼけたような地リスたちがお構いなしに車の前を駆け回っている。日常風景だ。たまにコヨーテが建物の周りをうろつき、オフィスにはコウモリが迷い込む。毒を持ったサソリやヘビも出るらしい。動物王国、ここに在り――。声にならない感想が頭からこぼれ出た。いつもの場所に車を停め、気重なまま外にでると、灼熱の光線がさらにじりじりと心を焼いていく。からっとした快晴とは裏腹に僕の中はどんよりと曇っている。「あー、今日の会議は憂鬱だなぁ……。何か気が晴れるものが職場にあればいいのに……」重い足をオフィスへ向けたその時、一匹の野ウサギが目の前で跳ねた。あっ、そうか。瞬間、頭の中に理想の職場が構成されていった。


 必要なのは「うさぎ」である。


 その愛らしい外見にもふもふとした手触り。声帯が無く声は発しない上、草食で温和だ。彼らが職場にいるだけで噴出しそうな嫌味は引っ込み、引きつった頬はだらしなく緩み、張り付いた空気も弛緩させてゆるゆるになるに違いない。しかし、それだけでは何かが足りない。それは一体、何なのだろう――。

 

 僕はその疑問を抱いたまま、日常業務をこなし、昼食をとり、会議に向けて資料を作る。陽が傾いてきた頃、海を越えた会議が始まる。顔は見えないが、この小型のデバイスの向こうに五十人を超える先輩や上司が座っていると考えると喉が渇いた。やがて、報告の順番が来る。約十五分間、必死に喋った。逸る舌を抑えて、時々飛ぶ冷やりとした質問にも声色を変えないようにして答える。見当違いな回答に自分で自分を叱咤しながら、なんとか報告を終えた。「内容は兎も角、構成がもう一つだ」低い声で痛い所を突かれた助言で締めくくられたその刹那、僕は答えに行き会った。

 

 ――そうだ、もうひとつ必要なのは「堅物のおっさん」に違いない。


 華やかな若い女性社員でも悪くはない。真剣な顔をして仕事をしている女性のもとにうさぎがやってきて、ふっと笑顔が漏れる姿も風流である。愛らしいうさぎに群がり「可愛い~!」と撫でまわす姿をみて「そんな姿もあざと可愛いぞ、こんちくしょう!」と心の中でガッツポーズをするのも、いとおかし。しかし、それだけでは何かが足りない。

 

 落ち着いた中堅の女性社員でも良いだろう。目線はディスプレイから外さず業務をこなすが、うさぎがとひざに乗る姿。新人をサポートしながら、片手はうさぎを撫でる姿。忙しい毎日を過ごしながらも、のんびりとしたうさぎがそこに共存する風情。非常に心が温まる。ただ、もう一声刺激が欲しい。


 そこで、堅物のおっさんである。口数も少なく、淡々と仕事をしているおっさんが最適である。考えてみて欲しい。表情は崩さず、出勤時と退勤時に密かにうさぎを撫でるおっさん。うさぎがもきゅもきゅと草を食べる横で、冷静で的確な指摘をするおっさん。一見、ぶっきらぼうな反応を見せているのに、何故かうさぎが寄ってくるおっさん。いつもより早く出勤したら、膝の上にうさぎを乗せ餌を与えているおっさん。そして、部下に見られたことにも動揺せず、ゆっくりと膝からうさぎを下ろすおっさん。あぁ、いとおかし。


 うさぎが可愛らしい生物であるからこそ、柔らかな女性よりもごつごつした男性が良い。溌溂に跳ね回る習性をもつからこそ、若さ溢れる青年よりもいぶし銀なおっさんが良い。峻厳としたビジネスとゆったりとした自然の融合。愛らしさと仏頂面のコントラスト。相まみえぬ性質がもたらす化学反応。あぁ、これこそが理想の職場に必要な要素に違いない。これこそが現代の社会を変革するものに違いない。賃金の上昇でも、ライフワークバランスの充実でも、労働生産性の向上でもない。必要とされているのは「うさぎ」と「堅物のおっさん」なのである。


 既存の概念を覆すような発見をして、もはや見違えるように広くなった夕焼け空の下、僕は軽やかな足取りで帰路に着いた。今日はどのビールを飲もうか考えながら意気揚々とエンジンを掛ける。ゆっくりとゲートに向かいながら敷地内の交差点を曲がると、低い西日が目を差した。その眩しさに思わず目を細めた瞬間、脇から野ウサギが顔を出した。逆光の中、道路の途中で立ち上がって一瞬こちらを向いた野ウサギは、まるで稀代の妙案を馬鹿にするように跳ね、薮の中へ消えていった。

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