第93話 読むとは、書くとは
醜いよだかは名前が似ているがために疎まれている鷹に言われます。
「お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ」
なんて酷く、理不尽で、的を得ているのでしょうか。よだかの星を読み返す度、この一言が琴線に触れ、宮沢賢治さんの皮膚感覚に、内的視点に舌を巻きます。醜い身体に宿る分不相応な名。言葉が持つ呪いとも言えるほどの強さを感じられずにはいられません。名付けること、名を呼ぶことの重さが浮かび上がってくるようです。
次の一節にも感じ入りました。
「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ」
生物が持つ業に引き裂かれそうなよだかの心情がずしりと響きます。何のために命を食べて生きているのか。命を食べて生き延びた自分は何が出来るのだろうか。自己嫌悪は波のように浸食を続けます。己に出来ないことならば声を高々にして幾らでも数え上げられる不甲斐なさも。才は一閃も光らず、
生の残虐性。醜く命に縋る無益な実体も、生を謳歌し才を
よだかの星は、言葉の重さを、生の残虐性を呼び覚まします。生きることは辛い。この感性の提示が、無言で圧し掛かる幸福への重圧、欠乏への罪悪感をふっと軽くしてくれました。そして、読むこと、書くことの意義がトレース紙を押さえた時のようにふわっと浮かび上がってきたのです。
何かを読むという行為は身体の中に渦巻く不定形の泥に形を与えることがあります。朦朧として判然としない何かを顕然たらしめる力を持っています。そして同時に言葉を綴ることを可能にし、
書くことは欲望であり、執着でもあります。数多の言葉によって醸成されたその人の言葉は、生の発露なのです。巧拙は兎も角、生きていることを体現しているのです。だからこそ、上手く言葉に出来なくても、血を流し身を粉にして言葉を絞りだそうと足掻く人が好きです。あらん限りの表現を探し、試し、捨て去る。幾度と無い試行の果てに織り成された言葉の集まりが好きです。醜くとも生きようとする証ですから。
『本を読め』と耳に
「
「」内は以下より引用
宮沢賢治 よだかの星
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/473_42318.html
底本: 新編 銀河鉄道の夜
出版社: 新潮文庫、新潮社
初版発行日: 1989(平成元)年6月15日
入力に使用: 1991(平成3)年3月10日第4刷
校正に使用: 1994(平成6)年6月5日第13刷
底本の親本: 新修宮沢賢治全集 第八巻
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1979(昭和54)年5月
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