第28回 檸檬


 沢山の人が集まる業界セミナーへ向けて空を飛んだ。


 講義は本当に面白い。元来、座学は性に合っているのだろう。


 しかし、人見知りにとって、となりに座った人に話しかけるだけでたいへんな気苦労である。朝昼晩すべての食事の席で見知らぬ人物とテーブルを囲む。そして、みんな座った時点から笑顔で会話を始める。業界人はこんなことを日々やっているのか……。


 おずおずと話しかけては他愛無い話をして、すぐに話題を変える。

 愛想笑いを振りまく僕。


 少しの沈黙が耐えられず、すぐにカクテルグラスに手が伸びる。

 

 いたたまれなくなって思わずトイレに駆け込んだ。

 

 高級ホテルのタイルに響く自分のブーツの足音に、心なしか気持ちが落ち着いた。


 誰かがオープンバーのお酒をトイレに持ってきたのだろう。


 小便器のセンサーの上に檸檬がそっと置かれていた。


 トイレの上にある檸檬。


 あぁ、この焦燥というのか、嫌悪というのか。

 収まりのつかない気持ちをカットされた紡錘形が吸い込んでくれる気がした。


 レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色が、鈍色にぶいろのセンサーの上で光っている。


 ――あぁ、そうかそうか。


 その檸檬を見下ろしながら僕は心が安らいだ。


 ――このまま出て行こう。


 それは、誰かが仕掛けた時限爆弾に見えた。

 

 もう少しで、あの檸檬が爆発してこの息の詰まるような空間が木っ端みじんになる。そう思うと、不思議と笑顔になった。


 檸檬は静かなトイレでひっそりと佇んでいる。


 僕は檸檬を残して、騒がしい会場へ戻っていった。

 


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