第3回 不可能性が僕らを作る

 僕が敬愛する作家の一人は森見登美彦さんです。高校時代から、森見さんが描く捻くれた大学生の考えに何度頷いたことでしょうか。その中でも、おもわず唸った一節があります。


 以下、森見登美彦 「四畳半神話大系」(角川文庫、2005年)より

「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」(150-151p)


「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根元だ。今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。君がいわゆる薔薇色の学生生活を満喫できるわけがない。私が保証するからどっしりかまえておれ」(151p)


 この一節を読んだ時、「可能性は無限に広がっている」のような標語の何とも言えない気持ち悪さを、真正面から笑い飛ばしてくれたような爽快感が突き抜けました。

「んなことはない、可能性の結果がこれだ」ってね。


 成長するにつれ、出来ないことの方が多いと気付いちゃいます。数学が苦手、バスケの代表にはなれないとか。自分で判断出来るからこそ、気持ち悪く感じる。「嘘を吐け」と。


 当たり前ですが、可能性は大きい方が確実です。だったら、出来ない可能性――不可能性を意識する方が、大枠を捉えるのには合理的だろうと納得します。上のセリフは、過去・現在に対する、可能性を示唆していますが、将来の単純な期待にもかかってくると思うんです。だって「キミは何にでもなれる」ってなんか頼りなくないですか? 何にでもなれないことは僕が一番わかってる。


 僕は日記であれ小説であれ、文字を書くことは「出来ること」ではなく、「多分出来ないことはない」という感覚だったので、不可能性に着目したこのセリフは何より信頼でき、その慧眼けいがんに脱帽したのです。


 やっぱり、これは至言だよなー、と。


 ……でも、薔薇色の学生生活を満喫出来ないことまで言い当てなくてもなぁ。

 学生生活は楽しかったですが、色で言うならなんだろう。ねずみ色? くすんだ茶色?

 少なくとも黄色い声がしなかったのは保証されました。

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