第13話 心の棘

「嫌だ! 放してよ!」



幼い声が辺りに響く。

ここは薄暗い路地裏でも繁華街でもない。

彼女の住まう家であり、本来なら最も安心出来る場所である。

にも関わらず、恐怖に染まりきった、痛ましい声をあげたのだ。


ーーこれは夢だ。


俯瞰するように眺める者の声が脳裏に響く。

そして覚醒しようと目論むが、目覚める事は叶わずに事態は進展していく。

やがて、彼女がこの世で最も憎悪する声が聞こえだす。



「大人しくしろ! 誰のおかげで飯が食えてると思ってやがる!」



のしかかるのは良い歳をした男である。

体重をかけて自由を奪い、力任せに服を剥ごうとしている。


もちろん少女も必死だ。

両手で必死にブラウスを掴み、裸にされてしまうことを懸命に拒んだ。


ーー怖い! 怖い!


純粋な悪意は心が凍りつくほどに恐ろしかった。

かつて経験したことのない暴力に屈してしまいそうになる。

だが、この理不尽な振る舞いに憤る気持ちもあった。

その憤りを反抗心の動力源とし、儚く汚されることを水際で止めた。


ーーお母さんが、お母さんが助けに来てくれるまで!


頼みの綱、唯一の心の拠り所。

それが血の繋がった実の母だ。

長いあいだ真心を込めて育ててくれた、最も信頼するその人である。


戸籍上の、とうとう劣情まで露にした『義理の父』などでは決してない。

彼女は心を許すどころか、初めから敵であると疑っていた。

そしてこの瞬間、確信へと変わってしまったのだ。



「大人しくしろって言ってんだろ!」



武骨な拳があどけない顔を殴り付ける。

体格や筋力差は比べるまでもなく、暴力慣れしていない少女は、それだけで気を失いかけた。

だが、それでも指先の力を緩めない。


ーーお母さん、お母さん。


念仏のように囁いた。

自らを奮起させ、悪と立ち向かう為に。


それからも健気な抵抗を続ける彼女の耳に、物音がひとつだけ届いた。

それは人の気配。

すぐに母親だと察知すると、すかさず助けを呼んだ。



「お母さん助けて! おかあさ……!」



襖の向こうに母の姿を見た。

いや、見てしまったと言うべきか。

僅かに覗いた顔は、軽蔑に染まり、冷ややかな色をしていた。

その瞳にぬくもりはなく、極寒の地を彷彿とさせるようである。



「へへっ。お前は売られたんだよ。あんなババァが欲しくて再婚なんかするかよ」


「お、おかあさん……」


「オレはな、最初からお前の体だけが目当てだったんだよ!」



ブラウスを握る手が解け、腕は床に投げ出された。

少女の心が陥落してしまったのである。

唯一で絶対の壁は、いとも容易く打ち砕かれたのだ。


男は顔を醜く歪め、無造作に手を伸ばした。

少女の口許に指を這わせる。

そのようにして屈服させた美酒に酔おうとしたのだが……。



「ギャア! 痛ぇ! 痛ぇえ!」



男は突如部屋の中を転げ回り、自分の手を握りつつ悶絶した。

畳は血まみれになり、小指が一本忘れ去られたかのように落ちている。

絶望の闇へと落ちた少女とって、悪漢の指を噛み千切る事に抵抗を感じたりはしない。


拘束が解かれた隙に部屋を飛びだした。

成り行きを見守る事も、母の裏切りに文句を言う事もなく。

そして手荷物のひとつさえ持たずに。


ーー死んでやる、このまま誰も知らない場所に行って死んでやる!


心にあるのはそれだけだった。

今日の寝床や食事すら頭にない。

息が切れれば歩き、そして戻ったならまた走り出す、

それをひたすら繰り返し、何かに導かれるようにして、とある山奥へと向かうのだった。


…………

……



「あの夢か……クソ!」



メルは真夜中に目を覚ました。

喉は乾いて皮膚がくっつき、頬はしっとりと濡れている。

寝汗も酷いものだ。



「……まったく、最悪の気分だ」



もう何年も思い出す事の無かった記憶は、時々このようにして彼女の心を掻き乱す。

鼓動は耳に煩いほどに早い。

ともかく水だと思い、呷るようにしてコップを空にした。

胸の不快感も、それで僅かに遠退く。


ーーお前は売られたんだよ。


この言葉は、大人となった今でさえ彼女の胸を突き刺す。

だから思い出さないようにしていた。

強くなろうとした。

命の危険も省みずに改造手術を受けたのも、復讐心と捨て鉢の気持ちによるものだった。



「フォグル……」



実を言うと、彼女の男性不信は根深い。

己の過去を克服するために恋に励む事もあったが、後ろ暗い過去が常に邪魔をする。

その為に、成就したことは1度もない。

そもそも待ち受けたようにケティが横やりを入れるので、本格的な恋愛経験すらないのだ。


だが、不思議とフォグルに惹かれた。

生半可な気持ちからではない。

文字通りの一目惚れと言っても良い程なのだ。

簡単に恋に落ちるほど、トラウマを割りきれていないにも関わらずだ。

この心境の変化は、自身の事ながら理解できていなかった。



「まだ4時か。起きていても仕方ないな」



再び寝入るのは避けたかったが、他にすることもない。

もし再び夢に現れたのなら、今度は別のモノを噛み千切ってやろうと意気込みつつ、再び瞳を閉じた。



…………

……



「あぁ、痛い! 痛いよぉ!」


「アハハ! パパのほっぺたおもしろーい!」


「ねぇ、そろそろ良いでしょ? 痛くて痛くて仕方無いんはほ」


「アッハッハ! へんなこえー!」



痩せた男が少女の玩具となっている。

先程の悪夢とは雲泥の差であり、愛に満ち溢れた光景である。

男は子供の暴力から逃れようとして床に転がるも、追撃の手は加減を知らない。

男の腹の上に跨がり、やはり頬に手を伸ばして引っ張るのだ。



「いひゃい、いひゃい! 止めへぇー!」



少女は父の顔を、どれだけ情けない顔をしているのか見てやろうと思った。

だらしなく緩んだ口、赤みを帯びた頬、細く高い鼻。

見えたのはそこまでだ。

なぜかそれより先は黒く塗りつぶされたようになり、見ることが出来なかった。



「パパ? なんでお顔がないの?」



男は答えない。



「ねぇパパ! わたしのことすき?」



記憶の中の男はやはり答えない。



「ねぇ、パパってば!」



…………

……



「チッ。また妙な夢を」



今日はメルにとって厄日のようである。

どうにも苦い記憶ばかりが甦るのだ。

2度目の方は遥かにマシなものであったが、今度は寂しさに襲われてしまう。


幼き頃に死別した父。

その顔をメルはほとんど覚えていない。

その代わり、頬肉の感触だけは覚えているのである。

これが親不孝に当たるかどうか、メルには分からない。


しばらくすると室内のアラームが鳴った。

朝食の刻限を報せるものである。

半分寝ている体に喝を入れ、制服に袖を通して外へ出た。

早めの移動であるので、通路を行く姿もまばらである。



「イーーッ!」



末端の兵が敬礼でメルを迎える。

それを前にしても気分は晴れず、小さく手を上げて返すだけだ。

ささくれた気持ちを引きずったままでく。

すると、1人で居るフォグルの姿を見つけた。



「メルさん、おはようございます」


「おぅフォグル。おはよう」



簡単な挨拶を済ませると、メルはフォグルの頬を両手でつまんだ。

左右に引っ張る事で伸び代を確認してみる。

それは思いの外よく伸びた。



「これは一体、何の真似へひょうは?」


「割といけるんだな。知らなかった」


「頬の柔らかさに何か意味が?」


「さぁてな。知らん。ところで霧化はしないのか?」


「はい。特別に脅威をかんひははっはほへ」



ここでメルは、とうとう堪えきれなくなって吹き出してしまう。

鼻から上は仏頂面であるのに、下はグニャグニャと変形を繰り返し、放たれる言葉もメチャクチャであるからだ。



「アッハッハ! 変! ほんと変な顔だな!」


「今のは僕のせいでしょうか?」


「いや、すまん。朝から気分が悪かったんだがスッキリした。礼を言うぞ」


「お役に立てたのなら何よりです」



それからは並んで食堂へと向かった。

触れ合いそうな2つの肩が、くっついては離れる事を繰り返す。


心の傷跡が消える事はない。

それでも、痛みを忘れられる日は必ず来る。

新しいものに親しむことによって。



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