第49話 夢の中

『……嫌われたのかな』

 帰りの車中、私はお母さんにそう言い、あとはずっと泣いていた。


 ギンを傷つけ。

 ギンにあんな苦労をさせ。


 同じ山の仲間として。

 私のことを皆、嫌いになったのだ、と涙が溢れた。


『そんなことないよ。また来週、山に行こう』

 私が泣いている間、お母さんは辛抱強く、何度もそう言ってくれた。私は泣き疲れ、最後にはお母さんの言葉にほだされるように頷き。


 そして。

 次の週にまた山に行き。

 うちひしがれて帰った。


 山は。

 私をただ無言で迎え、意志のない表情に徹しているように見えた。


――― もう、ギンにもカワウソたちにも会えないのかな……


 泣きながら眠ったその日の晩。

 私の夢の中に現れたのは、カワウソと、ひとりの男性だった。


朱里しゅり。ごめんね』

 私の夢の中で、カワウソは泣きながら私にそう言った。


 二本足で立ち、短い腕でぐしぐしと自分の目を擦っている。

 その茶色の掌は自分の涙で濡れていて、黒く艶やかな鼻は、ぷぴー、と鳴っていた。


 不思議と、胸の辺りがぼんやりと明るく、そのおかげで、夢の薄暗い中でも、カワウソを見つけることが出来た。


『どうしたの。なんで泣いてるの』


 夢だという非現実感からか、私は慌ててカワウソに駆け寄り、抱きしめた。

 カワウソの背は小さいから、私は膝立ちになって抱きしめる。ふっくらとした毛の感覚と、しっとりとした温もりに安堵した。ああ。カワウソがいる。私の腕の中にいる。それだけで涙が出そうで、鼻の奥がツンとした。


黒狐くろこさまが、『朱里が来ても無視しろ』って言うから、妖怪たちは誰も朱里に会いにいけなくて……。でも、朱里が山に来て、僕たちを探しているのは知ってたんだよ』


 カワウソは私の胸に顔をうずめ、『ごめんね』と言い、背中に回した手に力を込める。ぷひー、とやっぱり鼻が鳴り、私もカワウソも泣きながら笑った。


『今日はね、狸と野衾のぶすまが結界を張ってくれたんだ。ペンタチコロオヤシは、光をくれた。胸が光ってるでしょ? 夢の中なら黒狐さまも気づかないだろう、って。おまけにね』

 カワウソは私の胸から顔を放し、顎を上げて笑った。


『僕みたいに妖力の弱い子なら、さらに分からないだろうから、って山の妖怪を代表してきたよ』

 私は『そう』と頷いた。カワウソはマズルをふくふくさせて、自慢げに背を逸らした。


『弱いってことも、たまにはいいもんだね』

『そうね』

 私とカワウソは目を見交わして笑う。


『あのね。ギンのことなんだけど……』

 カワウソは目に涙をためながらも、私の目を見据えていった。


『目が、醒めないんだ』

 カワウソの言葉に、私の背中がすぅと冷える。思わずその場にお尻を付けて座り込んだ。


『傷が……。深いの……?』

 お父さんが刺した傷だろうか。そういえば、とめどなく血が流れていた。私はすっかり治ったというのに、ギンはまだ、傷がふさがらないままなのだろうか。


『ううん。傷は治ったんだ。だけど、目が覚めない』

 カワウソは慌てたように私の顔をのぞき込み、首を横に振った。


『黒狐さまも途方に暮れてるんだけど……。でも、プライドが高いから、誰かに頼るとかしたくないみたいで……。そしたら、が山に来たんだ』

 カワウソはちらりと視線を私から移動させる。私も彼のその視線を追って顎を上げた。


 目が合うと、男の人はにこりと笑いかけてくれた。私もおずおずと笑みを浮かべてみせる。


 二〇代前半の、男の人だ。

 髪は五分刈りに刈られていて、肌は小麦色に焼けている。細面なその顔は柔和で、小柄な体格と相まって、他人を警戒させない雰囲気を持っていた。


『この人、ギンの知り合いなんだって』

 カワウソがそっと私に話しかけてくれる。


啓介けいすけだ』

 ふわり、と男性は笑い、名乗った。


『あいつが子どもの頃から知っているよ。じっとしてないヤツだ、ってこともね』

 啓介さんは愉快そうに笑うと、私に手をさしのべた。


『ボクと一緒に、ギンの所に行こう、お嬢さん』

 啓介さんは私にそう呼びかけた。


『お嬢さんとボクとでなら、ギンはきっと目を醒ますさ』

 私は啓介さんの顔を凝視した後、自分に向けて差し出された手を見た。


 ギンのところへ。

 その言葉に導かれるように私は顔を上げる。啓介さんと目が合った。


『ギンに、会いに行こう』


 そう促され、私は彼の手を握った。

 会いたい。

 ギンに逢いたい。

 そう思っただけで目から涙がこぼれ出た。


『ギンに、会いたい……』

 思わず口から言葉があふれる。『うん』。啓介さんは柔和に笑った。


『ギンもきっとそう思ってるよ』

『朱里』

 立ち上がった私に、カワウソが声をかける。私は左手で涙を拭いながら、首を傾げてカワウソを見やった。


『僕達は一緒に行けないんだ。黒狐さまが怒るから』

 もじもじと前足をこすりあわせながらカワウソは私に言う。


『だから、お願い。朱里』

 カワウソは涙に潤んだ瞳で私を見上げた。


『ギンを、起こして。もう一度、僕達に会わせて』

 私は大きく頷いた。拍子に涙が宙に散る。私は首を横に振って涙の残滓を払うと、啓介さんに手を引かれ、共に歩き出した。


 ギンの元へ。

 ギンに逢うために。


 そう思い、一歩踏み出した私の周囲を風が包む。鼓膜を振動させる風の音は、葉がざわめく音に似ていた。


 思わず目を閉じ、身を竦ませた。

 そして。

 再び目を開いたとき。


 そこは。

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