第50話 本殿

 紅葉谷山頂の神社だった。


 紅葉谷山神社。

 祭神は知らない。あの、祭りの夜に子供会、婦人会、自治会で五日間ご馳走を供えた社だ。


 私と啓介けいすけさんは、並んでその本殿前に立っていた。


「じゃあ、行こうか。お嬢さん」

 啓介さんがにこりと微笑む。私はぽかんと口を開けて鳥居を見上げていたのだけど、慌てて口を閉じておずおずと頷いた。啓介さんはそんな私に小さく頷き、手を握ったまま歩き出す。


 鳥居を抜け、それから注連縄が張ってある二本の石柱の間をくぐった。


 びりり、と。

 静電気に似た痛みが首や背中を伝う。

 思わず足を竦ませると、啓介さんが「大丈夫」と私の肩を叩いた。


 途端に。

 皮膚が感じた痛みが、するりと消滅する。


 私は思わず啓介さんを見たけれど、彼は私からの視線をかわし、さっさと拝殿の方に移動した。


「この、格子戸の中だね」


 紅葉谷山神社は、三層の社からなる。

 舞殿。

 拝殿。

 本殿。

 山肌を這うようにその3つの建物は建っている。


 私がヒメミコとして舞を奉納したのは、舞殿だ。

 そして。

 ギンとともに祭りの最終日。座っていたのは、拝殿。

 今。

 啓介さんとともに立っているのは、その先にある、本殿だった。


 目の前には大きな格子戸があり、闇に沈んで中を伺うことができない。


 一生懸命目を凝らすのだけど、うっすらと板敷が見えるだけで、祭壇の様子や室内の様子はぼんやりとかすんで見える。


「結界が張ってあって、中が見えなくなってるんだ」

 啓介さんはそういうと、格子戸に近づき、顔を寄せた。


「もうし。黒狐くろこさま。おさきさま」

 朗とした声が周囲に響く。夜闇を振るわせ、その声はゆったりと広がる。


「もうし、もうし」

 啓介さんの再度の呼びかけに応じたのは、凜とした高い声だった。


わらわを気安く呼ばうのは誰じゃ。く去れ」


 圧すような怒声に肩を竦めた時、本殿の中が一気に明るくなった。

 照明でもいきなりついたかのような明度で光りが溢れ、格子戸越しに現れたのは、黒狐さまだ。


 初めて出会った時のように、黒狐さまは黒い打掛姿だった。

 銀糸をふんだんに使った刺繍が施された打掛をさばき、どん、と私たちの方に一歩踏み出した。


「帰れ、無礼者」


 顎を上げ、黒狐さまは私たちを睥睨する。

 扉は閉じられているが、格子の枠越しにその威圧溢れる姿は見て取れる。


 背が、高い。

 私なんかよりも断然大きいし、啓介さんよりも背が高い。思わず私は後ずさりかける。

 だけど。


「オサキ狐であられる、黒狐さまにはお初にお目にかかります」

 啓介さんは穏やかに頭を下げた。


「ボクはギンの昔なじみの啓介と申します。今日はねぼすけのギンを呼び覚ましに参りました」


 頭を低く下げたまま、啓介さんは言う。「ギンの?」。訝しげに黒狐さまは呟き、ちらりと私を見る。どきりと心臓が跳ねたが、私はぎゅっと肩に力を入れたまま、視線を見返した。反らすもんか。必死にそう思った。


 数秒。

 私達はにらみ合っただろうか。


「こちらのお嬢さんはギンの妻だと、山の妖怪達から伺いました」


 不意に啓介さんが顔を上げてそう言い、黒狐さまは、「ほほっ」と馬鹿にしたように嗤った。

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