三題噺「缶コーヒー」「PTSD」「御朱印帳」
彼は休日に御朱印帳巡りをするのが好きだった。
教職の傍ら一人でふらりと電車に乗り、名所と共に寺社仏閣を巡るだけ。
彼自身は信仰心と言うよりも旅行の証という程度の認識ではあるが、それでも彼の机には頁が全て埋まった朱印帳が数冊飾られている。
今日は学校が創立記念日のため、朝から電車に揺られて少し遠くの名刹を目指すことにした。
天気予報では朝から雨だと言っていたため、傘を持っていったが、空には雨雲が全くもって見当たらない。
(昼頃から天気が崩れるかもしれないし、傘を持って行って後悔することはあるまい)
自分だけが傘を持っている気恥しさをそう思って紛らわす。
はるか遠くに入道雲が見えた。
じめっとした暑さの中参道を抜け、お参りを済ます。朱印帳に印を押してもらうため受付のところに向かおうとすると、何やら慌ただしい声が聞こえる。只事ではなさそうな緊張感が漂った。
「おい、受付なぞやっとらんで手伝いなさい!」
「あ、はい!すみません、ちょっと……」
受付の人まで駆り出される始末だ。さすがに大問題らしい。
「どうかしましたか?」
「ああ、いえ、少し……」
「何か手伝えることがあるなら手伝いますよ」
「あー、わかりました、じゃあお願いします!」
よく分からないまま部屋に通されると、少女が倒れており、周りで大人たちがあたふたしていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
少女は苦しげに浅い呼吸を繰り返している。過呼吸だろう。
「過呼吸か!ビニール袋被せるんだっけ?」
「ビニール袋こっちになくて、今取りに行ってもらってます!」
「レジ袋あるけど使う?」
「あ、ありがとうございます!」
少女にとりあえずレジ袋を被せ、再呼吸で何とか落ち着かせていく。
しばらくして、少女の呼吸が元に戻ってきた。
張り詰めた空気が弛緩していき、辺りの大人たちもようやく落ち着いていく。
「……あなたは?」
「しがない教師です」
……
「……あれ、ここは」
少女が目を覚ます。泣き腫らし疲れきった顔がとても痛々しい。
「参拝者用の医務室だってさ。というか目がまだ泣き腫らしたままなんだから、タオル外さない方がいいよ」
「すみません」
落ち着いたのを見届けた大人たちのほとんどは散っていったが、医務室のおじさんに「手伝いますよ」と言った彼は少女の看病を続けている。
「にしてもこんなとこで突然倒れたらしいね。呼吸器になんかあった?」
「いえ……その、火が怖くて」
「火?それであんな苦しそうに……」
(あぁ、PTSDってやつか?詳しくは知らないが、大変そうだな)
「この子は迷い込んで護摩行の部屋に来たのよ」
お気の毒に、と医務室のおじさん。
「そりゃつらい。とりあえずしばらくはゆっくりしとこう」
「……わかりました」
釘をさしておいてからおじさんに尋ねる。
「すみません、ここ自販機とかあります?」
「自販機?外の方にあるけど」
「おし。なんか飲み物いるか?俺はコーヒーにするけど」
「え、ここの人じゃないんですか」
(……確かに)
このままだと突然看病だけした不審なおじさんになるやもしれない。さすがにそれはまずいだろう。
「部外者だが、俺は教師だよ。生徒に顔向け出来ないことはしないって」
「……偽善的ですね」
「そりゃそうだ。こんなのだいたい偽善だぞ?じゃ、買ってくるわ」
ちょっと見といてください、と医務室のおじさんに一言だけ言いおいてから自販機を探す。
(御朱印集めに来ただけなんだけどな)
偽善的ですね、と詰った少女の顔を思い返す。
まだ真っ赤な目には、どこか憎悪のような表情が混じっていた。
(あの歳でPTSDなぁ。なんだってもう……)
「げ、雨降ってるし。」
窓の外を見ると割かし激しい勢いで雨まで降ってきた。どうりで微かに肌寒さを感じるわけだ。
「あたたかい奴でいいか」
コーヒーを2つ買い、タバコを持って、少女の顔を浮かべてやめた。
(そもそもここ喫煙OKかもわかんねぇし)
誰にでもなく、自分に言い訳してからタバコを折ってゴミ箱に捨てて少女の元に戻ることにした。
「ほいよ、缶コーヒー」
「あったかい」
「知らんが、雨だしちょっと肌寒いまであるからな。そもそもそんだけ疲れてる時には冷たいのはあんまり良くなさそうじゃないか?」
「暑かったらどうしたんですか……」
「そりゃ熱中症が心配だから冷たいのにするに決まってるだろ」
プルタブを必死に開けようとする少女。
(まさか、開けられないのか?)
「開けようか?」
「………………お願いします」
力を借りるべきかたっぷり迷ってから、少女はしぶしぶ缶コーヒーを差し出す。わかりやすい子だ。
「はいはい、ほれ」
いとも容易く開くプルタブ。
(こんな非力な子が、辛いこと抱え込んでんだな……)
さっきの光景が脳裏に過ぎる。
「ありがとう、ございます。」
「だいぶ落ち着いてきたな。夜まで降るって予報だったが、大丈夫か?」
家に、というのをわざと省いて尋ねる。地雷は踏みたくない。
「それは大丈夫ですよ。もう少し落ち着いたら帰ります。あーでも傘……」
「傘なら貸す、というかやるよ。2つあるし」
これは嘘だ。どこかに寄ってビニール傘を買いに行かねば。
「心配し過ぎですよ」
いつの間にか睨む目は鋭いというよりジト目になっている。
「え」
「私だって何も出来ないわけじゃないんですよ?」
残りの缶コーヒーを煽って立ち上がる。
「すまん」
「でもまぁ……
コーヒー、ご馳走様でした」
少し微笑む少女。
(強いな)
非力でも、何か抱えていても、目の前の少女は確かに強かった。あるいは、実は人はみんなこんなに強いのかもしれない。
(今日のコーヒーは格別だな)
「もう大丈夫なんだな?」
「大丈夫ですよ。じゃ、すみませんでした」
男物の黒い傘で、少女は去っていく。
(やれやれ、傘見つけるまで濡れていくかな……っとその前に)
「あ、御朱印ください」
改めて御朱印を押してもらう。元々濡れないようにビニール袋に入れてきたし問題ないだろう。
と、
「おい兄ちゃん。これ持ってきな」
医務室のおじさんにビニール傘を渡される。
「バレてました?」
「そりゃな。折りたたみ傘があるならそういうだろ」
「それはそうですね。でも返すの後になりますよ?」
「ビニール傘くらい返されても要らないって。持ってきな」
すみません、と会釈してから帰路に着く。
「御朱印帳濡れなくてよかった……」
思いのほか雨足は強く、足元がびしょびしょになったまま家に着く。
とりあえず部屋着に着替えてから、新しい御朱印の頁を開き、過去の頁をめくる。
(……今日の出来事も、御朱印を開けば思い出すのかねぇ)
そうして、御朱印帳をしまった。
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