三題噺「上毛かるた」「ヒポクラテスの誓い」「ガスパチョ」
「じゃあ、この部屋片付けます」
「悪いねぇ」
おばさんに許可をとって彼の部屋に入る。ここ数年は忙しくて全然来れてなかったっけ。
机の上に置いてある雑誌はもう埃を被り始めていた。
彼は私が働いている病院にいる。そして、今月退院が決まった。
完治では無い。いわゆる、ホスピス……自宅で最期を過ごしてもらうためだ。
病気が特定された時には既に進行が激しく、もう回復の見込みはないという。
目つきの悪い医学部の教授がうわごとのように言っていた「ヒポクラテスの誓い」を思い出す。
……―自らの能力、判断に従い、患者に有益な治療法を取り、患者を害すると知っている治療法は決して取らないこと。
―これは今では議論が分かれますが、安楽死や意図的な流産をしないこと。
私は安楽死は反対です。患者が病院にいる限り、私たちは力を尽くさねばならない。……
彼は病院から見放され、この静かな墓場へと向かおうとしている。
先生の言葉が、見放した病院を、私を責めているような気がした。
「畑はもう手放すんですか」
「そうね。あの子の治療費とかもあるし、私も働かないと。あ、でも今うちのトマトがちょうど熟してるのよね……トマト、大丈夫だったよね?」
「あ、大丈夫です。いただきます」
「群馬のトマトは美味しいのよ」
何も考えたくなくて、他愛もない話をしながら部屋を片付けていく。
「これは何です?かるた?」
「あ〜これは上毛かるたよ。群馬っ子なら誰でも覚えてるのよ?」
東京生まれ東京育ちの私にとっては馴染みがなくて当然だろう。
「彼が戻ってきたら、少し教えて貰おうかな」
「あなたも優秀なんだからすぐ覚えられるわよ〜」
部屋の中には色んなものがあった。別の女の子と手を組んでる昔の写真、大学時代に一緒に旅行に行った時のお土産、農学の教科書。
時間はある。この謎のかるたを教えて貰うことも、この写真に写る女の子がどういう子なのか問い詰める時間も、お土産を見ながら思い出話をする時間も、まだあるのだ。
まだ涙は流さない。彼が帰って来る場所が悲しいわけが無いのだから。
ただただ悲しいのは、見放した私の浅ましさだけだ。
「はい、ハンバーグ。こっちは庭でとれたトマトのガスパチョ」
おばさんの厚意に甘え、晩御飯まで頂くことになった。
お世辞にもおばさんは料理がうまいわけではない。パサついたハンバーグ、ザラりとしたガスパチョ。全てが彼を見放した私を責めるように思える。
ガスパチョの冷たさが、私は冷たい女であるとでもいう風に血潮を冷やしていった。
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