ACT.6 命の使い道(零戦とF8F)


〇この物語に登場する飛行機(運用者・開発者)


・零式艦上戦闘機五二型(日本海軍・三菱)

 三二型で切り落とした翼端を半円形に成形して二段過給器の栄二一型に推力式単排気管を装着した最多生産型。初期の設計に比べれば、翼面荷重を増して旋回性能を削る代わりにロールが速く、直進速度が向上している。


・零式艦上戦闘機二二型(日本海軍・三菱)

 三二型の翼を二一型の空力設計に戻したタイプ。三二型のパワーと二一型の旋回性能を具有する。一部界隈では最も美しい零戦と評されるが、当初の細長い主翼、減速機の設計変更により長くなった機首がその由来だろう。一一型と二一型は平たい鼻、三二型は角張った翼端、五二型以降は突き出した排気管が物語に登場する飛行機(運用者・開発者)


・零式艦上戦闘機五二型(日本海軍・三菱)

 三二型で切り落とした翼端を半円形に成形して二段過給器の栄二一型(離昇1130hp)に推力式単排気管を装着した最多生産型。初期の設計に比べれば、翼面荷重を増して旋回性能を削る代わりにロールが速く、直進速度が向上している。


・零式艦上戦闘機二二型(日本海軍・三菱)

 三二型の翼を二一型の空力設計に戻したタイプ。三二型のパワーと二一型の旋回性能を具有する。一部界隈では最も美しい零戦と評されるが、当初の細長い主翼、減速機の設計変更により長くなった機首がその由来だろう。一一型と二一型は平たい鼻、三二型は角張った翼端、五二型以降は突き出した排気管が瑕疵にあたるようだ。


・F6F-3ヘルキャット(アメリカ海軍・グラマン)

 後期生産型はF6F-5と同じR-2800-10W搭載で(ミリタリー?)2000hpから水噴射によるWEPで2250hpを発揮できる。デカいエンジン、デカい主翼によって高い上昇力、急降下の突っ込みを手に入れた。主翼がデカいので単純な運動性能は高い。


・F8Fベアキャット(アメリカ海軍・グラマン)

 太平洋戦争に向かった空母にはまだ配備されていなかった。そして朝鮮戦争に向かった空母にはもう搭載されていなかった。アメリカの運用による実戦経験のない不運(?)な戦闘機。ただし短命に終わったのは搭載兵装の種類と量がF4Uに劣っていたからで、純粋な制空戦闘機としてはアメリカ製レシプロ艦上機としては最高のものだったと思われる。大柄なF6Fで置き換えられずに取り残された護衛空母や小型空母のF4FやFMに引導を渡すために寸法と重量を切り詰めたデザインになった。要はF4Fの図体にF6Fのパワーを詰め込んだわけだが、軽快さはその賜物だろう。強いて空戦面の欠点を挙げるなら、高Gによる外翼のスナップオフが上手く機能せず最大旋回荷重を7.5Gに制限されてしまったところ。そもそもこうした機能を設けるのはただならぬ荷重により翼が非対称にもげて墜落するのを防ぐためで、高速域での機動性が高すぎることを暗示している。






(以下本文・15000字程度・横組み推奨)

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 1944年6月、米軍のマリアナ諸島攻勢に対し、海軍はパラオに集結させていた海上戦力を急遽転進させる。我々の飛行隊は装備機を零戦から紫電に更新して再編ののち台湾に展開するという噂だったが、いささか焦燥感に満ちた命令に従って硫黄島進出となった。地上員の随伴もない。外地派遣前の休暇もたった1日、遠方に故郷を持つ操縦員たちは帰省さえままならない。近場の隊員の家に世話になる。私も若いのを2人家に連れて行って母の手料理を食べさせてやった。いい食べっぷりだった。

 進出翌々日には早くも作戦参加、出撃となった。南下して艦攻・艦爆隊と合流、サイパン沖を遊弋するアメリカ機動部隊の空母を叩く。夜闇に紛れつつ逆光で敵艦影を照らす薄明攻撃、夜明けに合わせ午前4時前に零戦五二型可動14機をもって離陸、集合後10分の間に不調で2機が引き返したが、編隊灯と磁方位を頼りに高度5000を進む。やや白み始めた海面の手前に機影を探し、ようやく味方の艦攻・天山5機を見つけて上空につける。艦攻隊なら偵察機の情報を受けて最新の敵位置を掴んでいるに違いない。果たして針路上に目を凝らしているうちに点々と艦影が現れ始めた。空母や巡洋艦の大きな艦影が見える。予定時刻をすでに20分回っている。しかし艦爆隊は? 艦攻隊だってこれだけか? だが天山は味方を待たずに突っ込んでいく。彼我混線の雑音の中に「ト」3連送がはっきり飛び込んできた。3000メートルから海面まで高度を下げ、魚雷を抱いたまま300ノット近くまで加速していく。彼らを守るのが我々の役目だ。加速しないと追い抜かれてしまう。私は第1小隊4機の第2区隊長。左前方の長機に合わせてスロットルを押し上げる。AMC(自動混合気調節器)が作動して吸気音が少し細くなる。

 左手の2番機が小刻みにバンク。やや下方、4000メートル付近に黒い機影が無数に見えていた。敵の迎撃機だろう。燃料コックを切り換えて増槽を投棄。編隊を分けて8機で緩降下して襲いかかる。敵はおよそ20機。第1撃で敵の1機は翼が折れて木の葉のように回り、2機が黒煙を吹く。

 すれ違いざまに機影を確かめる。グラマンの新型(F6F)だ。一航過のあと散開して敵の尻に食いつこうと旋回を始めるが、すかさず別の敵編隊が上空から降ってきてこちらを追い散らす。上空に残しておいた味方4機がその後ろに食いついているが降下では離される一方だ。

 私は自機を狙ってくる敵を見定める。彼らはいつも正面よりもやや腹側を見せる。その旋回の内側に逃げ込む。火線が腹の下を掠める。

 敵はこの一撃では私を仕留められないと悟ったようだ。スピードを使って振り子のように上昇に転じる。

 私はそれを追わない。さらにもう一個編隊が天山隊を狙っているのが見えたからだ。上空からの第2撃がまだ来ないのを確かめて急降下に移る。僚機もついてきている。

 すでに天山隊の後部銃座が撃ち始めている。グラマンは小鳥がタカを威嚇するような調子で10機余りの群れになって天山の後方で上昇と下降を繰り返している。

 我々はそこに後方から追いついて狙撃に入っていた1機に20ミリを浴びせる。1発が運良く尾翼の付け根に当たる。左の水平尾翼が1枚の板のまま後ろへ飛んできた。敵機はバランスを崩して海面ぎりぎりで持ち直す。

 だが追撃はできない。我々に気づいた他の敵機が続々と背後に回りつつあった。

 ピッチアップ、縦旋回に誘い込む。

 追ってくるのはたった4機。残りは天山から目を離さない。天山は防御陣形をぎりぎりまで開いて各機バンクやラダーで巧みに機体を滑らせているがそれでも徐々に被弾している。ついにカモ(最後尾)が火を噴いた。エンジンで起こった炎がキャノピーごと胴体を覆い尽くす。後部銃手は赤い炎に舐められながらそれでも敵機を撃っていた。

 カモの天山は力なく高度を下げて波頭にぶつかり、もんどり打って海中に消える。機体から切り離された魚雷が跳ね上がって手裏剣のように回転する。敵機はそれを避けて反転、そこに他の天山の射撃が集まり、グラマンも燃料の筋を引きはじめる。

 こちらに向かってきた4機のうち2機が旋回の外側に逃げ、一度上昇してカバー位置につく。こちらが狙いやすいところに来るか、味方が危なくなれば飛び込んでくるつもりだ。典型的な連携戦術だった。

 上空の1機が翼を黒く輝かせて反転、私を狙った火線が左に流れる。それを避けた僚機が左に切る。私も追ってラダーを踏みかけたが火線のカーテンがその動きを阻んだ。

 完全に1対2の状況に追い込まれる。

 ローリングシザース気味にスロットルを絞ってまず背後の1機をオーバーシュートさせ、すかさず狙ってきたもう1機をクイックロールで躱す。

 失速、スピン。

 一瞬目の前を通り過ぎた敵機に薙ぎ払いのような射撃を浴びせる。

 頃合いで当て舵を踏んでもう1機が目の前に入るように機首を止める。

 撃つ。

 しかし同時に真上からブローニングの雨を浴びていた。僚機を追った2機のどちらかだろう。

 遅れて射撃音が響いてくる。

 思い切り操縦桿を引いて敵機に対向、すれ違う。

 重力任せに落下していった新手はすでに1000メートル以上離れている。このまま距離を取ろう。幸い薄雲が間に入って視界は切れる。

 敵影なし。戦況を見るために高度をとる。所期の4000から500まで下っていた。

 私はどうやら怪我を負っていない。しかし風防は割れ、エンジンオイルは点々と漏れ出している。数えると主翼の穿孔は14ヵ所。燃料タンクや弾倉が無事なのは幸運だった。

 朝焼けの中に幾筋も黒煙が立ち昇る。どれも細く薄い。早くも風に掻き消されそうになっている。雷撃隊は戦果を上げなかったのだろうか。そうだろう。たった5機では雷撃位置につくことさえ難しい。零戦が20機いればTBFの5機や10機などキジのように一網打尽にできるのと同じだ。

 敵艦隊を俯瞰する。やはりこれといって被害は見当たらない。

 静かだ。耳にはグラマンの凶暴なエンジンの唸りが、網膜には空を跳ね回る太陽の眩しさが、手には一瞬ごとに張り詰める操舵索の痺れがまだ残像のように残っていた。

 味方も敵も見当たらない。私だけがこの空域に取り残されているようだった。みんなどこへ行ってしまったのだろう。撃墜されてしまったのだろうか。僚機は?

 曳光弾が雲に突き刺さり提灯のようにぼんやりと光る。

 まだ誰かが戦っている?

 射点に目を凝らすとずっと下方に機影が見えた。ほぼ海面だ。

 進路を予測して降下に入る。

 近づく、近づく。

 先頭にいるのは天山だった。被弾しすぎて全身の外板が捲れ上がりほとんど骨組みだけで飛んでいる。あれだけやられてエンジンが無事なのはほとんど奇跡だ。銃座が時折光り、かなり正確な狙いでグラマンを追い払っている。追手は3機。そのうち2機は薄雲煙を引いていた。エンジンをやられているらしい。正面から撃たれれば最も被弾しやすいのはエンジンに違いない。

 私が降下していくと2機がふわりと浮き上がって向かってきた。まだ1200メートルほども離れているのに撃ってくる。

 翼を立てて弾幕の間に潜り込み、ラダーで機首を振って撃ち込む。

 敵機は衝突を避けて腹を向ける。

 すれ違う。

 すぐ背後に2機目。

 発射ボタンを押し続ける。

 が、反動が消える。20ミリの弾切れだった。

 残る7.7ミリではかなり長く撃ち込まないと有効打にならない。

 機首を合わせて撃ち続ける。

 また相手が避けるだろう。

 まっすぐ向かっていく。

 だが相手は舵を切らなかった。

 それからのことはよく覚えていない。正面いっぱいに映ったグラマンのプロペラと主翼銃口の閃光だけが強烈な印象になって瞼に焼き付いていた。


 目を開けると海面が見えた。私の体は落下傘に吊られているようだ。高度はまだ1000メートルほどある。

 乗っていた零戦がくるくる木の葉のように回りながら落ちていく。機首がない。重さとバランスを失ってあの動きになっている。天蓋のスライド部分が完全に脱落していて、私はどうやら激突の衝撃で機外に投げ出されたらしかった。

 海面にウェーキが立つ。そうだ、敵は? それは零戦ではなくグラマンの立てる波だった。

 墜落ではない。水上機のような緩やかな着水だった。左翼の外側半分ほどが折れて脱落している。それであの着水だから主翼半分でも飛行はできるのだ。おそらくプロペラが曲がって振動で飛んでいられなくなったのだろう。

 そこまで確認して私はがっくりと首を下げ、全身の力を抜いた。まだ敵が1機周りを飛んでいることに気づいたからだ。生きているとわかれば撃ってくるかもしれない。

 着水と同時に縛帯を切り離し、拳銃が濡れないようにホルスターを肩口に差し込む。航空図を広げて濡らし、できるだけ細かく千切って沈める。航空図には小笠原からマリアナにかけての飛行場の位置が事細かに記されている。ここはすでに敵の領域、捕虜になるとすればそれは相手のパイロットではなく私自身だ。自決、あるいは殺されるにしても死体は回収される。情報になるものは処分しておかなければならない。

 しばらくすると上空のエンジン音は薄れ、大波のかぶるごうごうという唸りだけが水平線に残った。その中に何か動物の遠吠えのようなものが混じった。それは何度か聞こえ、次第に明瞭さを増してくる。

「ヘーイ!」

 それは人の声だった。

 波間にゴムボートが現れる。敵のパイロットだ。そうか、米軍機は救命筏を装備しているのだ。

 私は拳銃を抜いて仰向けのまま構えた。

「無駄だ。下ろせ」パイロットは両手を高く上げつつ英語で叫んだ。「もしお前が俺を撃っても、このボートを奪っても、駆逐艦が追いついて数百人の水兵がお前を殺すだろう。生きてそして国に帰れ」

 端々まで聞き取れたわけじゃないがそんなことを言っていた。

 無駄なあがき、無駄な争いだなんてことは私にもわかっていた。だいたいこんな足場で射撃が当たるはずがない。流れ弾がボートに当たって2人で寒い思いをする羽目になるのが関の山だ。

 私はせめて反抗的にもうしばらく構えて、それから銃を捨てた。相手もホルスターを外して海に放り投げた。

 パイロットはオールを使って上手くボートを寄せ、私の手を引っ張って船上に引き上げた。

「いいガッツだった。お前の方が避けるだろうと思った。お前もそう思ったのか?」彼は訊いた。

「そうだ。そんなとこだ」

 やはりこの男があのグラマンに乗っていたのだ。よく見ると額に切り傷があって、応急キットのパッチを当てているもののまだ流れ出した血液が首筋まで伝っていた。

 私も全くの無傷ではないようだった。縛帯の食い込んだ腰や脇腹がミシミシと音を立てて痛み始めていた。我々にはお互いに聞いておくべきことがたくさんあったのだろうが、怪我と疲れのせいで喋る気が起きなかった。

 パイロットの言った通り、我々を回収したのはフレッチャー級の駆逐艦だった。私はまず素っ裸にされ、痣に軟膏を塗りたくられたまま水兵用の荒っぽい下着を着せられた。脱がされた装備がその後返却されることはなかった。

 30分ほど後、ランチ(内火艇)でエセックス級の空母に移乗した。飛行機屋の面倒はあくまで同じ飛行機屋が見るということらしい。乗船すると私はなぜか士官室に通された。尋問なら営倉ではないのか? 

「アーサー・ハリソン、少佐」部屋の主は握手を求めた。きっちりと制服を決め、帽子まで被っている。態度は極めて慇懃だったが、ならばなぜ私をランニングシャツ1枚などというみすぼらしい格好のままにさせておくのかわからなかった。それはある種の侮蔑に思えた。

 私が心変わりする前に彼は手を下ろした。そして「貴官、名前は?」と訊いた。

「友田」私は用意しておいた答えを口に出した。

「何? また友田か……」

「士官ではありません。曹です。曹長」

「海軍の飛行要員で曹長というとヒソウチョウか」

「はい」

「では友田飛曹長、君は今日何匹の猫を撃墜したのかね」ハリソンは少しユーモアを込めた言い回しで訊いた。猫というのはヘルキャット、つまりF6Fのことだ。

「は、1匹も捕えていません」

「1匹も?」

「はい。何度か命中の手応えはありましたが、撃墜の確認をしている暇まではありませんでした。ここには私とともに戦った味方もいない」

「ではマクレー中尉が証人になろう。彼は君が少なくとも2機は撃墜したのを確認している」

 私をゴムボートに引き上げたパイロットは一緒に新しい作業着に着替えて扉の前に立っていた。額のガーゼも大きなものに替わっている。そうか、マクレーというのか。

 そういえば名前を聞いていなかった。

 マクレーを下がらせた後、ハリソン少佐はその後40分ほど月並みの尋問をしてこう締め括った。

「友田飛曹長、君はこれから本土の収容所に送られることになるだろう。営倉ですまないがせいぜい体を休めてくれ」


 営倉は窓のない狭い部屋だった。それでこそ営倉だ。私が入るとマクレーが真っ先に面会にやってきた。何か困ったことがあったら俺に言えよと言う。

「最後のあの天山がどうなったか仲間に聞いてくれないか」私は少し考えてから最初の願いを言った。

「ああ、あの機体なら、俺も気になってね。もう聞いたよ」

「そうか、それで」

「撃墜だ」マクレーは低い声でそう言って首を振った。「知り合いか?」

「いや、違う。それはわからない。ただ気になっただけだ。自分が何のために1機で3機のヘルキャットに挑んだのか。その意味があの天山にかかっていた。いくらガッツを褒められたところで、負けは負けだ」

 マクレーは何も言わなかった。言葉を探すにはあまりに微妙な話題であり、あまりに微妙な関係の2人だった。

 米軍のパイロットは捕虜と話すのが好きなようだ。それから数日の間に営倉にはたくさんの客がやってきて、思ったほど休めなかったが、思ったほど退屈もしなかった。私も彼らも戦果や戦況の話題を避けて飛行機の性能や操縦法を語り合った。

 彼らは私のことを敵というよりも同じパイロットとして対等に扱おうとしていた。彼らのうち何人かは私の知人を殺しただろう。しかし私もまた彼らの知人を殺したのかもしれなかった。その状況で求められた握手を拒むのはむしろ精神的に私の負けだった。私は握手に応じるようになった。

 数日後私たちは新型の飛行艇(PBM)に乗り移ってクェゼリンに渡り、ダグラス輸送機(C-47)でヌーメアを経由してサンフランシスコに向かった。どうも普通の捕虜と扱いが違うのではないかと気づいたのがこの時だった。「私たち」というのはマクレー中尉とハリソン少佐のことだ。肋骨にヒビが入ったから療養に入るんだ、とマクレーは言った。彼によるとハリソンの方は指揮官の交代らしい。ともかく機内でも全員お構いなしにぶかぶかとタバコを吹かしているのが驚異的だった。引火したりしないのだろうか。

 移動の間私はほとんどマクレーと行動をともにした。話を聞いているうちに彼もまた優秀なパイロットであることがよくわかってきた。私の区隊が天山隊の援護に駆けつけた時、追ってきた4機の中に彼がいた。彼の話は私の記憶ともよく符合したから嘘ではないだろう。

 サンフランシスコの空気は乾燥して埃っぽかった。高層ビルの隙間に敷かれたアスファルトやコンクリートの上をフォードが飛ぶように行き交っていた。空港から海軍飛行場までバスで移動する。エプロンにはB-17やOS2Uが並んでいた。前線ではあまり見なくなった機種だ。だがもっと妙な飛行機が見えてきた。

 それはアメリカ海軍機と同様の塗装を施した零戦だった。二一型から五二型まで4機種が揃っている。二一型は上面が暗い水色で丸に白い星の国籍マーク、三二型は紺・水色・白のトライカラーでスピナーは白、国籍マークには赤枠と横棒がついている。二二型は全身紺色で白星に横棒、五二型もほぼ紺色だが方向舵に白と赤のボーダー柄があり、スピナーが赤く塗られていた。

「君にはもう一度飛んでもらいたい。友田飛曹長、好きな機種を選んでもらって構わない」ハリソンはバスを降りたところで言った。

「飛ぶ? 捕虜の私がなぜ?」

「君は腕がいい。新戦闘機のテストに敵手として加わってもらいたい。実戦さながらの状況でなければ見えてこない問題点もあるだろう。むろん君が操縦ミスをしない限りにおいて生命は保証する。日本は加盟していないがジュネーブ協定に則って報酬も支払う」

「新戦闘機?」

「それを見せられるかどうかは君の返答次第だ」

 実戦テスト――演習ということだろう。つまり彼らは私に零戦の操縦技術、日本の戦法を求めている。平たく言えば私がその新機種を鍛えることになる。その新機種はいつか戦場に出て私の仲間と戦火を交える。到底容れられない。

 だが、待て。私がデタラメな戦法を信じ込ませれば彼らは逆に初陣で意表を突かれることになるかもしれない。少なくとも零戦取るに足らずという驕りを植え付けることには意味がある。

 確かに意味はある。だが私はその場ですぐに頷くことはどうしてもできなかった。

「まあいい。しばらく考えてみるのも悪くないだろう」ハリソンは言った。

 私は捕虜収容所に送られ、そこで他の日本兵らとともにレンガを積み、乾ききったパンを食べ、アメリカ軍の快進撃を伝える生片端な日本語の新聞を読み、汗とヤニの染み込んだ藁のベッドで眠った。同胞たちの多くはソロモンやニューギニア、オーストラリアを経由して船でアメリカ本国まで移送されていた。方々の収容所の滞在も長く、捕虜になってからアメリカ本土に到着するまで1ヶ月以上要したなどざらだった。私は自分だけが飛行機で移動したことは伏せておく方がいいと思って適当に話を合わせておいた。

 同じような毎日だった。1日が終わるごとに、いま日本の戦線はどこにあるのか、今日どれだけの日本機が撃墜されたのか、何人が戦死したのか、その中に知り合いが含まれているのか、当てのない想像が脳裏を巡った。そして2週間経つ頃にはそろそろ家に私の戦死通知が届いているんじゃないかと意味のない心配をした。マリアナ沖で捕虜になってから1ヶ月が経とうとしていた。収容所では家族宛ての手紙を募っていたが、検閲なしに届くことなどありえない。捕虜を出した不名誉を家族らに着せるわけにはいかなかった。

 できることならすぐにでも日本に戻って、長い間遭難していたのだと嘘をついて無事を知らせ、もう一度仲間とともに戦いたかった。しかし脱走したところでアメリカの勢力圏は何千キロも先まで広がっていた。それは我々に絶望を与えるのに十分すぎるほど十分な距離だった。日本兵たちは気力を腐らせて無気力と無秩序に逸脱していった。看守の目を逃れてうたた寝する者、喧嘩して看守に棒で叩かれる者、さまざまだった。

 そして私は時折夢や瞼の裏にあの天山のゾンビのような姿を見た。彼らは決して敵から逃げていたわけではない。もう一度、もう一発魚雷を抱いて戻ってくるために帰ろうとしていたのだ。あんなにボロボロになりながら、それでも帰るということが彼らにとっての最高の戦い方だった。その場で自爆して燃え尽きるよりもその方が敵を苦しめることができると信じていたのだ。戦い方は1つではない。私が今選びうる最高の戦い方とは、収容所に籠ることなのだろうか?


 20日後、ハリソンが私を迎えに来た。見透かされていたのだと私は悟った。だが肯くしかなかった。収容所司令部を出てそのまま部屋には戻らずにゲートをくぐりキャデラックの後部座席に乗り込む。ハリソンは一人で運転してきたようだった。

「収容所は労働のための施設だと思うか?」彼はルームミラー越しに訊いた。「それは産業の要請によるものであって、本質的には、違う。本質的には楽をさせるための場所だ。敵の兵士軍人が敵の戦力として使い物にならない。それだけで十分なんだよ。友田飛曹長、収容所は退屈だったか?」

 私はその質問には答えなかった。

 飛行場に到着する。彼は「もう始まっているな」と言いながら誘導路脇に車を乗りつけてすぐに外へ出た。降りる前から爆音でルーフが震えていたので上空を何かが飛んでいるのはわかった。

 それは見たことのない戦闘機とFw190Aの空戦だった。フォッケウルフは米海軍式のトライカラーで紺と水色が斑のようなかなり不明瞭な塗り分けになっている。もう1機は全身が濃紺でまだ真新しい艶がある。

「あれがXF8Fベアキャットだ。ヘルキャットおよびワイルドキャットの後継機にあたる」ハリソンはよく晴れた空を背景に飛ぶ濃紺の機体を指しながら言った。

「ベアキャット」私は口の中で繰り返した。

「ビントロングのことを我々はそう呼ぶ」

「ああ、なるほど」

「ほう、わかるということは友田飛曹長はスマトラやジャワにいた経験があるのかね」

「なあに、どこの動物園にも1頭や2頭はおります。米国は違うのですか?」

 2機は絡み合うような細かいロールを打ちながら急降下、空に皹が入りそうなほどのエンジン音を上げながら上昇に移る。ロールはフォッケウルフに歩があるが旋回はXF8Fの方がかなり早い。同じスピードで常に内側を回っていた。

 私たちは誘導路脇の芝生の上でその様子を眺めていた。XF8Fが数秒間背後を取って勝負を決め、脚を下ろして滑走路に斜めから滑り込む。低速での安定性も高い。エプロンに入ってエンジンを止める。マフラーから一息白煙を吹き、プロペラは何かに引っかかったようにガクンと止まる。大馬力エンジンに多い止まり方だ。すぐに整備員たちが機体に取り付いて点検を始める。こうした景色は日本でもアメリカでも変わらない。

 私はハリソンに促されてその機体の周りを1周する。全体のレイアウトはF4Fによく似ている。しかし低翼配置やバブルキャノピー、内側引き込み脚がそこはかとなくモダンな印象を与える。横から見ると胴体中央が山のように高くなっていて、抓まれたような妙に背の高い垂直尾翼も合わさって少しひょうきんなシルエットに見えた。

「友田飛曹長、どのゼロを使うか決めたかね?」まだ上空にいるフォッケウルフを見上げながらハリソンが訊いた。

「二二型にします」

「ニイニイ?」

「紺一色のやつ」

「一色? ああ、モデル22か。なるほど、パワーがあって、ロールは遅いがターンは早い。下手に張り合うよりターンに賭けるか」

「いや、そういうわけじゃない」

「なら、なぜだ」

「別に理由などありません」

「強いて言えば」

「色がいい」


 私はまずアメリカ製の無線機の使い方を覚えなければならなかった。紺色の零戦二二型は外装も内装も基本的にきれいに塗り直してあるだけだが、計器の表示は英語の銘板が上から打ち付けられ、九六式空一号無線電話機は撤去されて代わりにAN/ARC-5無線機が据え付けてあった。F6Fなどの艦上戦闘機が標準的に装備している中波帯の送受信機だそうだ。

「いいか、すでに4機のヘルキャットがフル装備で上空を旋回している。もちろん実弾だ。我々は君の命を守るが、それは君に逃走と交戦の意思がない場合に限った話だ。丸腰の君がもし逃げおおせたとして、おそらくその場合には沖合に潜水艦が待機しているのだろうが、西海岸の駆逐艦と哨戒機が総出で君とその海中の仲間たちを迎えに行くことになる」管制塔でマイクを握るハリソンの声はまるで氷の中を伝わってきたかのようにおそろしくクリアに聞こえた。

 久しぶりのコクピットだ。

 新米なら3日、熟練者でも1週間乗らなければ飛ぶ感覚を忘れるという。操縦桿とスロットルレバーを撫でて手に馴染ませ、キャノピーの傷の向こうにある天空を見上げる。夏の太陽がじりじりと機体を熱している。地上員が慣れた手付きでエナーシャを回す。エンジン点火。スムーズだ。振動が私の体を機体に同調させていく。素早く3舵を叩く。いい反応だ。

 テストパイロットのブラッケン大尉が操るXF8Fと並んで離陸。こちらが先に地面を離れる。フラップを閉じたところからみるみる引き離された。速度はともかく上昇ではついていこうと仰角を取る。それでも高度6000メートルまでに1分近い差がついた。

 ゆるい編隊を組んで5分ほど機体の調子を確かめてから互いに背を向けてきっかり30秒距離を取る。

 管制塔の合図で振り向く。まずはまともなヘッドオンでいいだろう。

 すれ違う。

 右旋回。

 相手は左旋回。  

 シザーズ。

 切り返しの速い相手が数回の交差の間に次第に機首を向けてくる。

 切り返すのをやめて単純な横旋回に入る。

 相手が背後につく。

 操縦桿を引きつけて全力の旋回。体が床板に押し付けられ首の自由が利かなくなる。

 相手は零戦の旋回半径にはついてこられない。

 しかし旋回率は互角。速度を保ったまま大回りしてぴたりと同じ角度につけている。エネルギー優位は相手にある。

 相手はフラップを開いて減速しつつ旋回の内側に入る。

 クイックロール。射線を躱す。そのまま操縦桿を引いて相手に機首を向ける。

 相手には零戦がほとんどその場で回転したように見えただろう。

 相手は上昇。太陽の手前で反転して真上から降ってくる。

 速度を失っていて相手の射軸から大きく離れることができない。

「ダダダダダッ」ブラッケン大尉が射撃をコール。

 被撃墜。

「やられた」と私。

 真っ黒な機体が真横をすり抜ける。

 速度優位を維持する敵に対して真っ向から旋回戦を挑む零戦パイロットたちの典型的な負け方だった。

 その後燃料の許す限り何度か空戦を行って、私はすべて旋回偏重の戦法をとった。

 その間私は常に「この試合に何の意味があるのか」と自分に問い続けていた。なぜ実弾を積んでいないのか。なぜここは戦場ではないのか。なぜ相手を捻り倒してはいけないのか。私はまだ戦える。敵ではなく味方のために――。

 いや、冷静になれ。この空も、飛行機も、全て敵によって与えられたものなのだ。だがその事実を私はうまく受け入れられなくなっていた。

「あれはお前じゃない」とマクレーは言った。彼は今の試合を地上で見ていて、着陸後キャノピーを開いて第一声がそれだった。「なぜ全力を出さない?」

「スロットルを思い切り押し、操縦桿を思い切り引く。全力じゃないか」私は言い返した。

「そういう意味で言ってるんじゃない。わかるだろ?」

 私は内心取り乱しながら主翼のウォークウェイから地面に降りる。

 ハリソンが私の前を塞いだ。「来い」と一言だけ言って私を格納庫に連れて行く。中にはF4FとF6F、XF8Fが並んでいた。足を止めるとそこには異様な静寂があった。自分の心臓の音すら聞こえてきそうだった。

 ハリソンがタバコを取り出して火をつける。傷1つない金のジッポだった。

「不格好な戦闘機だとは思わんかね」ハリソンはグラマンの戦闘機らを指して言った。「どいつもこいつもずんぐりして丸くてとても空気を裂くような形とは思えない。潜水艇だと言った方が頷けるじゃあないか。グラマンの戦闘機は洗練が足りない。私はよほどゼロの方が研ぎ澄まされていて好きだ。しかし、だ、いいか友田飛曹長、こいつたちは洗練されないことによって量産性と扱いやすさを手に入れたのだ。それは刀とインゴット(鋼の棒)の関係のようなものだ。刀を鍛えるには時間がかかる。剣豪を育てるにも時間がかかる。10人育てて刀で物が切れるようになるのは1人かもしれない。だが、ただの鋼の棒ならどうだ。10人全員、握り方さえ覚えて手の皮を厚くすれば振り回してターゲットを叩くことができる。確かに棍棒の名手より刀の名手が上手かもしれない。しかし彼も10人に囲まれれば窮地だ。我々が造っているのは1本の名刀ではなく10本の鋼の棒だよ。君は人間としての我々のパイロットたちを見てきた。熱意や若さにおいて君の仲間たちと違うところがあるか? ないだろう。この1年で日本軍パイロットの腕は目に見えて落ちている。だが彼らだってグラマンを与えられれば我々のパイロットと同等の働きができるだろう。君が体験した圧倒的数の不利はこの不格好さがもたらしたものなんだよ。私が何を言いたいかわかるか?」

 私は黙っていた。

「ベアキャットは既に量産が始まっている、ということだよ。君のせいでベアキャットの設計が変わるようなことはない。我々には別に君のようなトップクラスのパイロットに一対一で打ち勝つ必要などないんだ。それでも君をこのテストに招いたのは、だ、たとえ物量で負けていてもガッツや単機の性能なら勝っているという君たちの矜恃を打ち砕き、そして打ち砕いたことを我々のパイロットたちに周知して鼓舞するためなのだよ。君は君なりに祖国のための計略を巡らせているのかもしれないが、それならむしろ君の手でゼロの神話を復活させてみるべきではないのか。違うか?」

 貴様にそんなことを言われる筋合いはない。だがその憤懣を露わにするわけにはいかない。自分が閉ざされている檻の格子を殴るような無様な真似だけは決してしたくなかった。

「わかりました。でも1つ頼みがあります」

「言ってみろ」

「マクレー中尉を相手のパイロットにしてください。彼が相手なら私も手を抜けない。それが筋というものだ」

 ハリソンは煙草を噛んでにやりと笑った。「いいだろう。話を通してやる」

 外に戻るとマクレーは零戦の横で無線手らしい女性下士官と談笑していた。彼は私に気づくと手を上げて何か絞られたかと訊いた。

「中尉、次の試合、君が相手になってくれ」

「何を言ってるんだ。俺は肋骨にヒビが入ってるんだぞ」マクレーは脇腹を手でさすった。

「ひと月経ってまだ治らないのか? ヒビの治療だけで本国に戻ったわけじゃないだろう。治療だけならなぜずっとここに滞在している。F8Fの飛行隊新設に立ち会うためじゃないのか。どうせ機種転換の訓練でも受けているんだろう?」

 マクレーは面白くなさそうに肩を竦めた。「後で驚かせてやろうと思ってたのに、まったく、おまえは勘のいいやつだな」

「それで、やってくれるか」

「わかったよ。ただし本気を出せ。いいな?」

「望むところだ」


 翌日、私とマクレーは飛行服に身を包んで零戦とXF8Fに分かれる。雲量6から7。飛行場の平らな地面の上に雲の影が流れる。フルブーストで離陸、低空で加速をつけてから上昇に移る。マクレーは先に行かずに横についている。それは気遣いというよりも零戦の調子を確かめるための行動に思えた。

 例によって6000メートル(2万フィート)で散開、距離を取って反転したところで私は高度を下げた。右手に大きく迂回して積雲の峰に姿を隠す。

 雲の切れ間、かなり上空にマクレー機が光った。

 素直にヘッドオンを狙った後こちらを探すために高度を取ったのか。

 まだ辛抱。そのまま回り込む。

 何度か雲の陰を渡る間にマクレーが気づいた。きらりと反転して降ってくる。

 雲に沿って上昇、相手のエンジン音を聞いて頃合いで雲に突っ込む。

 視界が晴れる。目の前に黒い機体。

 ドンピシャだ。

 すぐ右に切って背後を取る。

 マクレーはロール、背面から垂直降下で逃げる。

 零戦では追えない。高度を維持して雲に飛び込む。

 フルスロットルのままジグザグに降下。

 マクレーは高度を回復しながら上を取ったはずの私を探すだろう。

 パワーを落として雲から出る。

 やはり上にいた。高度差300メートル。

 進路を合わせて静かに潜り込む。

 真下に入ったところで全力上昇、死角から突き上げる。

 マクレーが翼を立てる。そして私の頭上方向へ旋回。

 もう少しのところで気づかれた。

 横旋回に切り替えて追う。

 マクレーは雲の陰に飛び込む。

 いい判断だ。

 私は高度を下げて迂回しつつスピードを稼ぐ。

 するとほぼ真横からマクレー機が雲を突っ切ってきた。

 雲陰ですぐシャンデルを打って向かってきたらしい。

 少し驚きながら危うく軸をずらして急旋回、背後につく。

 だが速度差がありすぎる。

 マクレーは一度上昇、すぐ機首を返してダイブ。

 横旋回で躱す。

 下に抜けた相手を追う。

 垂直に近いシザーズ。

 速度は600キロ台に乗ってくる。

 ターン自体はこちらが速い。

 しかしロールが極端に重くなる。

 切り返しはマクレーが速い。

 私は4交差目で切り返しをやめて横旋回。

 追われるより先にくるりと回って背中を狙う。

 マクレーには異様な早さの旋回に見えただろう。

 彼はラダーで機体を滑らせてさらに降下。

 高度は500メートルを切る。飛行場が視界一杯に広がる。

 マクレーは単純な水平面の速さで振り切って反転。

 私は追わずに高度を取る。マクレーが戻ってくるのを待ち受ける。

 タイミングを合わせて降下加速で真横に飛ぶ。

 マクレーが機首を合わせようと翼を立てたところで全力旋回。

 零戦は単純旋回に持ち込まなければ勝てない。

 逆にベアキャットは高Gをかけ続けると翼が持たない。

 マクレーもそれはわかっている。コーナーの遠心力に弾かれるようにして通り抜けていく。

 マクレーは距離を取り、私は高度を取る。

 闘牛のような交差を何度か繰り返す。

 旋回の度にハイGが心肺を締め付ける。息が上がる。

 互いに速度を失う。

 マクレーは助走を延ばして加速を稼ごうとする。

 私は後追いして距離が開くのを阻止する。

 5度目の交差、私は旋回のタイミングを1秒早める。

 半径を大きく取ってターン、スピードを保ったまま真後ろにつく。

 速度差はあるが流石に近すぎると感じたらしい。マクレーは左にバンク。

 続いて右、左とフェイント。

 背面側にロールしてそのまま上へ。ループに入る。

 私もループ。少し遅れた。

 内側を回って距離を詰める。

 だが角度をつけ過ぎれば押し出される。

 半径を緩めて後上方につく。

 スピードはまだ相手が速い。

 偏差を取ろうと機首を上げればむしろ引き離される。

 次第に半径の差が大きくなり、敵影は前方から頭上に上っていく。

 エンジンが強い分縦旋回のエネルギー保持は相手が上だ。

 私は上昇で半径を大きく取って相手を真後ろに呼び込む。

 振り向くとXF8Fの正面が見えた。だが射撃を当てるにはもっと迎え角をとらなければならない。

 マクレーの顔がXF8Fの機首に隠れる。ほぼループの頂点で私は一度操縦桿を離す。

「ダダダッ」マクレーが射撃をコール。

 私はその時相手の腹の下を通って背後についている。

 マクレーは私の位置を確かめるためにやや機首を下げる。

 結果私は旋回を維持するだけで絶好の射撃位置についていた。

「ダッ、ダッ」私は言った。20ミリでも必中の位置だった。

 キャノピーの中でマクレーが振り返る。彼は咄嗟に舵を打つこともなくしばらくこちらを眺めていた。

「おい、まさかテレポートしたのか?」マクレーが訊いた。

「違う。日本の戦闘機乗りはみんなこの方法で教官に撃墜されてから空戦を覚えるんだ」

「まさか。それじゃ俺は初歩の初歩にやられたってわけか」

「これだけやりあってからの初歩なら、そいつはもう初歩じゃない。必殺技さ」

 全力疾走した直後の陸上選手がしばらくゆったり歩いて息を整えるのと同じように、それから我々は2機並んで飛行場の周りを周回した。じっとりした汗が全身を冷やしつつある。2戦目をやる体力は残っていなかった。管制塔の問いかけに「いや、もういい。くたくただ」とマクレーが答える。

 高度を下げて管制塔の脇をパス、ガラスの中の人影が透けて見える。

「マクレー、友田、いい試合だった」ハリソンが言った。「ベアキャットのパイロットたちにはこう忠告しておこう。『ゼロには気をつけろ』と」

 ゼロには気をつけろ。

 それだけか。

 私は溜息をついた。

 その言葉にF8Fを一機撃墜するよりも大きな価値があるというのだろうか。

 私の行為は確かにまだ戦場にいる味方をあえて不利に陥れるようなものはないのかもしれない。かといってまたさほど敵を利するものでもないのではないだろうか。

 無意味だ。

 私は自分自身の値段を高くつけすぎていたのかもしれない。

 ピッチアップ、バーティカルクライム、真上を向く。

 フラッター、トルクロール、ストールターン。

 機首が真下を向き、勝手にピッチアップ。地面の表面効果で水平まで持ち直す。素晴らしい安定性だ。

 単なる曲技飛行だと思ったのか誰も私を咎める声は上げない。

 スピードを上げてマクレーに機首を向ける。

 彼も気づいて正面からこちらに向かってくる。

 ヘッドオン。彼は撃つ気配も避ける気配もない。

 このままいくと衝突する。

 マクレー、お前はいったいどちらへ抜けるつもりなんだ?

 なぜ何も言わずに向かってくる?

 私はぎりぎりのところで操縦桿を引いた。

 マクレーは最後まで避けなかった。

 腹の下を黒い機体が弾丸のように通り抜けていく。

 なぜ私は避けた?

 自分の命のためか?

 相手を守るためか?

「友田、お前には生き残ってもらわなければ困るよ。生き残ってベアキャットに勝ったことをできるだけ大勢に話せよ」

「それに何の意味がある?」

「たとえ日本が負けてもそれはお前たちの腕が悪かったからじゃないって胸を張って言えるだろ」

「まだ負けちゃいない」

「なあに、たとえ話さ。それに俺だって、まぁ勝ちはしなかったが、最初にベアキャットをやった日本人と相打ちになったんだ。勲章としちゃ悪くないだろ?」

 ばかばかしい。

 だが悪い気分ではなかった。

 彼の度胸に免じてその勲章とやらを持ち帰ってやることにしよう。

 ライト・ターン。高度を下げてベアキャットに翼を並べる。




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