ACT.5 フォルケル再訪 (テンペストMk.Ⅴ)


〇このお話に登場する飛行機 (運用者・開発者)


 ・テンペストMk.Ⅴ (イギリス空軍・ホーカー)

 ハリケーン、タイフーンに連なるホーカー風戦闘機のベスト版。43年6月に一号機がロールアウト、44年1月から配備が始まった。ネイピア・セイバーⅡBの2400馬力で5トンの機体を振り回す。過給器のセッティングにより低空の高速性に優れ、タイフーン同様、3インチロケット8発を常用して戦闘爆撃機として連合軍地上部隊の進撃を助けた。

 タイフーンとの構造的な違いは特に層流翼(laminar flow)の採用と胴体後部外板の金属化による高速への適応であり、羽布張り(Fabric covering)面はラダーの舵面だけになっている。

 タイフーンの後期型はテンペストと同型のバブルキャノピーに4翅プロペラを装備しているので角度によっては識別が難しいが、テンペストの方が機首が長く、垂直尾翼前縁が滑らかなドーサルフィンになっている。そして何より主翼の平面形が異なり、タイフーンの方が前縁がずっと分厚い。






(以下本文、23000字くらいです)

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「ボウマンは元気?」

「一昨日の迎撃で火傷して入院中さ。メッサーシュミットの双発を仕留めたんだが、その時翼に被弾したんだ。あの忌々しい旋回機銃に撃たれてな。本人は無事だった。でも脚が下りなくなって、胴体着陸のあとエンジンから出火した。ハーネスの野郎がなかなか外れなかったんだ。チキショウメ」

 きっと彼も救助に加わったのだろう、テンペストの主翼にかけたクロムウッドの手は薄い包帯で指一本ずつ丁寧に巻かれていた。その指は妙に細長く見えた。

「ハウナムは?」

「ヘルマーホーク(ヘルメルフク)のV‐1基地に攻撃をかけた帰りにメッサーが突然上から降ってきて撃墜されたよ。きちんと脱出したさ。だがまだ敵の占領地域上空だった」

「捕虜になった?」

「わからない。パラシュートが役目を果たしたのは確かなんだ。司令が救難周波数でドイツ側に問い合わせたんだが、奴さんもわからないらしい。飛行場の上空じゃなかったからな」

「ヘイズは」

「ヘイズは……死んだよ。ライネの飛行場を攻めた時にフラック(対空機関砲)にやられたんだ。低空で左翼にでかい穴が開いて、すぐに機体がひっくり返った。そのまま地面に激突して火の玉になっちまった。脱出なんかしようがなかっただろうな」

「じゃあ、あとは、エクウォーターか」

「神経症にかかって三度もタキシングで失敗したんだ。穴ぼこに足を引っかける、翼端を他の機体にぶつける、終いには二度目の始動でプライムを引きすぎてセイバーを黒焦げにしやがった。もう少しで大爆発を起こすところだったんだ。そのせいで本土に送り返されたよ」

 ボウマン、ハウナム、ヘイズ、エクウォーター、クロムウッド。みんなこの数か月の間にフォルケルで知り合った若いパイロットたちだ。

「ヘイズは死んじゃったか」私は言った。

「ああ、そうだよ。戦死だ」

「この基地で私が知ってるのはあなただけになっちゃったわね」

 クロムウッドは主翼の前縁に掛けていた手を下ろして煙草に火をつけた。私に話しかけた時はいたって陽気だったくせに、その手はアルコール依存患者みたいにぶるぶる震えていた。

「手が震えてるじゃないのさ」

「俺はまだ帰らないぞ。あいつらのカタキのハン(ドイツ人)をこっぴどく叩きのめしてやるまで帰れるもんか」

 航空神経症は馬鹿にできない病気だ。手の震えの他に目がくぼんで瞳が泳ぐようになるのも典型的な症状で、普通はスコードロンの隊長やウイングの司令が様子を見て休ませるものだけど、気づかずに出撃させてしまうとだいたい未帰還になる。それだけ正常な判断力を蝕んでしまうのだ。

 私は彼の震える手をぎゅっと握ってやりたい衝動に駆られた。でもそれはしてはいけないことだった。私自身が禁じたことだ。私が最初の実務でフェリーに赴いた前線基地――たしかクロイドンだった――で握手した五人のパイロットはその後一か月のうちにみんな戦死、あるいは二度と飛べないほどの重傷を負って帰ってきた。結局触れなくたってこうして知り合ったうちの大勢が空を去っていくことになるのだけど、それでも私はそのジンクスを捨てることができずにいた。

 私は黙ってポケットの中のお守りを握りしめた。それは木彫りのサメだった。ちょうど手の中に収まる大きさで、背鰭は折れて手垢とオイルのせいで全体が黒ずんでいるけれど、私には大事なもの、私が実務二度目のフライト以来四年以上ずっと懐に入れているジンクスの化身だった。


 私はATAという組織に属している。正式名称はエア・トランスポート・オグジリアリ。つまり空軍の下で軍用機の回送空輸(フェリー)を行う補助部隊だ。部隊といってもあくまで補助部隊であって、法律上は文民組織にあたる。私は軍人ではなく軍属の民間人だ。私のような女がパイロットをやれる道理もそこにある。さらにいえば枢軸国との交戦国の出身ではない人々も参加できるし、反面、任務中の交戦は厳しく禁じられている。戦闘機動の教程も全くない。英空軍が装備するあらゆる機種――単発戦闘機から四発重爆までメーカー問わずなんでも――に適応するための訓練、航法などはみっちりと教えるのに、曲技飛行だけは絶対に教えないのだ。

 飛行機は前線で消耗する。工場でつくった新しい飛行機を前線に送り出さなければならない。しかし前線で戦うために鍛えた本職のパイロットを後方で空輸のために遊ばせておくのはもったいない。そんなことをさせるくらいなら休ませてやりたい。そこで空軍が考えたのがATAという空輸専門の組織だった。

 順を追って見ていくと、私たちの仕事は工場から出てきたばかりの飛行機のテストフライトに始まる。これはもちろん専門の資格と技能を持ったパイロットだけに任される仕事だけど、個々の飛行機について、すべての機能が問題なく備わっているかを確認するのと、個体ごとの癖を確認しておく意味もある。テストが終わるとぴかぴかの飛行機ちゃんたちは私たちの手でフェリープールのあるATA管轄の飛行場に移される。工場のエプロンもさほど面積に余裕があるわけではないし、あんまりぎゅう詰めにしておくと敵の爆撃機がやってきた時に一網打尽にされてしまう。バトル・オブ・ブリテン(BoB)の時は結構そういったケースもあったようで、その教訓による疎開策でもあるのだ。

 フェリープールでしばらく休んでいた飛行機たちも、行き先が決まると再び私たちに手綱を握られて前線に向かって飛ぶことになる。開戦後数年はイングランド南部、あるいは南東部各地の飛行場ばかりが行き先だったが、ノルマンディー上陸以降はフランスの前線基地までATAの活動範囲が広がることになって、海峡を渡るフライトも多くなった。

 さて、行き先で引き渡しを済ませたら帰らなければならない。BoB期まではロンドンに近い飛行場が多かったから汽車で帰らされることがほとんどだったけれど、次第に連絡機のアブロ・アンソンが私たちの編隊に随伴してそれに乗ってフェリープールまで帰ることが多くなった。あるいは再び自分で飛行機を操縦して帰ることもある。アンソンの担当になればそれはもちろんだけど、そうではなくて、前線基地でひどく傷ついて、工廠では手に負えない、メーカー工場で修理が必要になった飛行機を引き取ることもある。ぎりぎり飛べる状態なら飛ばして工場まで持っていくのだ。

 今日もそういう任務だった。


 四五年一月、今朝の出発地はホワイトウォーザン(ロンドンの真西四〇キロ)のフェリープールだった。空気は北極海のようにじめじめと湿って冷たく、流氷をひっくり返したような雲がぎっしりと上空を塞いでいた。エプロンにはサウス・マーストンのスーパーマリン工場から出てきたばかりのスピットファイアが細長い鼻をつんと空に向けて凛々しく並んでいた。その中からマーク9を四機、マーク14を六機引き抜いてオランダのグラーヴェ前線飛行場までフェリーする。そこではスピットファイアを装備するいくつかのスコードロンが私たちの到着を心待ちにしているはずだった。今回、帰りは全員分損傷機が用意されているのでアンソンは同行しない。

 私がアサインされたのはマーク9の方だった。コクピットは新しいペンキの匂いに満ちていて、計器のガラスにはまだ傷も曇りもない。舵の遊びもほとんどなく、ちょっとラダーを左に当ててやるだけで素直に離陸した。少女というよりは少年のようなまじめで従順な飛行機だ。

 雁行編隊で雲の上を東へ向かって飛び、一度ニューチャーチに降りて燃料補給ののち海峡を越え、オランダの内陸に入る。高度七〇〇〇フィートで巡航していたのだけど、下に雪原みたいにしっかりした雲があって全然地上の地形が見えない。どうにか切れ間を探して高度を下げ、灯火頼みで滑走路を探す。基地のレーダーではこちらを捉えていただろうけど、あいにくこちらは誰もレシーバーつきの飛行帽をかぶっていないので電話は使えないのだった。雲の下は仄暗い景色の中に薄雪が降っていた。こういう日は空気が重い。それに増槽を吊ったままなので機が重い。そのうちどうにか滑走路が見えてきた。スピードを保ったまま降下角を浅めにとってアプローチ。灯火をつけた滑走路は少しだけ聖堂の身廊を思わせる。タッチダウン、雪のせいで地面の摩擦が少し強く感じられる。こういう時にあまりブレーキをかけるとつんのめるから、慎重に操縦桿を引いて減速しなければいけない。誘導路に入ったところで誘導員が翼に飛び乗り、へばりついたまま右とか左とか指示を出す。そして最後にエンジンカットの合図。私はフットバーの右だけ踏み込み、機体をターンさせてエンジンを止める。誘導員が立ち上がると作業着の前がびっしょり濡れていた。

「グラーヴェへようこそ」彼はにこやかにそう言って機体の主輪にチョーク(車止め)を嵌める。

 先に駐機したスピットの後ろを通ってタワーの下に集合する。出発した全機、全員が無事に到着して再び顔を合わせた。この悪天で落伍を出さないのはなかなかの練度だ。

 ただ損傷機はグラーヴェに集まっているわけじゃない。これから各地へ分かれて受領に向かわなければならない。

 私ともう二人、中年のスチュアート夫人、私と同い年のルー・ビゴットは女ばかり三人で南西に十マイルほど離れたフォルケル前線基地へトラックで送ってもらって、その間幌付きの荷台の上でぬかるんだ道に激しく揺さぶられながら、グラーヴェの食堂でもらった温かいスープをどうにかこうにかこぼさないように啜って寒さをしのいでいた。

「ねぇ、こういう天気の時って雲の中から突然ドイツ機が現れることもあるよね」ルーが訊いた。空のカップに残った熱で手を温めていた。

「あると思うよ。それ、鉢合わせるってこと?」私は答えた。

「急に襲われないかと思って」

「雲の中は揺れるし、視界が利かないから、雲の中から襲ってくるとしても、事前にどこかの切れ間からこちらを見てるはずだよ。それに注意しておかなきゃ」

「それに気づけなくていきなり襲われたら、どうしたらいいだろう」

「うーん、角度によって話が変わってくるよ。上からなのか、下からなのか、横からか、後ろからか。どんな状況をイメージしてる?」

「そうだな……、上から降ってくるの」

「ダイブをかけられたら、こっちもダイブで逃げるしかない。スティックを押すんじゃないよ。右にロールして、地面が上になったらスティックを引くんだ」

「フルパワーにして、シャッター(ラジエーターフラップ)を閉める」

「あとプロペラをフォワード(浅ピッチ)にするのを忘れちゃいけない。でもいきなり上からかぶられたら無事で帰るのは難しいかもしれない。相手の方がずっと有利だからね。パラシュートのワイヤーを確認しておいたほうがいい」

「ラジャー、シスター」ルーは陽気に答える。天真爛漫な娘だ。同い年だけど飛行時間は私の方がずっと長い。

 フォルケルにはスピットファイアの他にテンペストのスコードロンが二個駐留していて、私たちが本土へ飛ばすことになっている損傷機は三機ともテンペストだった。制空専科のスピットに対して、対地攻撃を担うテンペストは地上からの銃砲撃にも狙われるからどうしても重傷を受けやすい。往々にして戦闘機の機銃より対空砲の方が口径も大きければ炸裂のエネルギーも大きいのだ。

 飛行場はわりに静かで、敵襲もなければ発着している飛行機もなかった。金網敷きのエプロンの上でエンジンの試運転をやっているのが二、三機あっただけだ。トラックが止まる。降りてみると、予定の三機はどうやらご丁寧に司令部の横に整列させられているように見えた。なんだか熱烈な歓迎を受けたような、早く飛ばしてくれと哀願されているような妙な気持ちになったけれど、まずは手続きを済ませなければならない。建物に入ってウイング(飛行群)の司令に挨拶を済ませる。司令の大佐は私たちを窓辺へ呼んで、案の定、外に見える機体を指しながら状態の説明をしてくれた。

 一機は油圧系に不思議な癖があって、どうしても左脚のロックが悪い。過去三度のフライトで合計一時間、任務から戻ったあと基地上空でロック状態を示す緑ランプを点灯させるための試行錯誤に費やしている。

 一機は冷却系がズタボロにやられていて戦闘で使い物にならない。巡航だと問題ないが、高ブーストに入れるとまるで空焚きのヤカンのようにたちまちエンジンが熱々になってしまう。

 そして最後の一機は二機のテンペストがそれぞれ主翼と胴体を損傷したために互いを入れ替えて健全な一機を仕立て上げた残りの片割れであり、見るからに穴だらけだった。三人で相談して割り当てを決める。はじめの二機は飛行自体にさほど問題はない。どう考えても最後の一機が一番厄介だったけれど、それを私が引き受けることにした。三人の中では私が一番傷ついたホーカー製戦闘機の操縦に慣れていたからだ。

 そのあと一時間ほど休憩をもらった。私はこういう時基地の中を散歩することに決めていた。まずメス(食堂)へ行って、ストーブの周りに集まって休んでいる給仕係の少女たちに話しかける。彼女たちは私とは違って全く地元の娘、オランダ人だったけれど、ほとんどそれとわからないくらいそつなく英語を話した。これは邪推だけど、きっと同じくらい、あるいはそれ以上にドイツ語も喋れるのだろう。フォルケルの基地もかつてはドイツ軍のものだったし、彼らも地元の人々を軍属として雇っていたはずだった。彼女たちの多くは背が高く、金髪で、青い目をしていた。ナチス好みの容姿だった。でもそんなことを気にするイギリス人は誰もいなかった。むしろRAF(イギリス空軍)のパイロットたちは彼女たちの美貌を愛で、野に咲く花のように思っていた。だから彼女たちもまたパイロット一人一人の人となりをよく把握していたし、彼らの死を戦友たちと同じように悲しんだ。彼女たちはまた空襲の経験者でもあった。ドイツ軍の爆撃の様子や、爆弾の爆発の衝撃、シェルターの中の状況をとても写実的に、熱心に語ってくれる。歳も近く、同じ性別、同じ軍属の立場にある私は彼女たちにとってRAFのパイロットよりも少しだけ親しく感じられる存在のようだった。

 ストーブで十分体が温まったので私は外を見て回ることにした。建物を出ると空気は突き刺さるように冷たく、そしてほんの少しだけ雨かみぞれが降っていた。注意すると頬にごく小さな水滴が触れるのがわかる。その程度だった。マフラーを高く巻いて指先を脇に挟む。

 私が飛ばすことになったテンペストはやはり見るからにひどい損傷で、胴体と主翼にまんべんなく大小五十以上の弾痕があり、大きいものは直径一フィート、方向舵は羽布が剥がれて骨組みだけ、右翼前縁が端から四分の一ほど消滅していた。しかも正面に回るとエンジン回りのパネルが何枚か剥がれたままになっていた。四門の二〇ミリ機関砲は全て降ろされているようで、主翼の前縁に開いた砲口が妙にぽっかりしている。増槽もつけていない。さほどの長距離飛行ではないから必要ないのだけど、機関砲然り、使い回せるものは基地に残しておきたいという運用者の気持ちが表れているような気がする。フランス逆上陸の直後に比べれば大陸の物資事情もかなり改善されてきたけど、それでももちろん湯水のように垂れ流せるというほどではない。節約を強いられている。何もかも飽食のアメリカ軍とは違うのだ。

 テンペストの塗装は基本のグリーンとブルーグレイにスピナーが白、胴体後部の下面だけに味方識別用の白黒の縞が描かれている。他の二機も装いは同じだった。

 正面左舷側に立って大きな機体を見上げる。犬のような少し尖った丸い鼻に、楕円形のインテーク。タイフーンとテンペストの顔は大きな口をしたウバザメにどことなく似ている。片側に六つ並んだ排気管だってサメのエラにそっくりだ。だから私は一人ひそかに彼らのことをウバザメ(バスキング・シャーク:日向ぼっこザメ)と呼んでいた。どんなテンペストでも心の中で「バスキン」と呼ぶと少し愛着が湧いてくる。

 今日はよろしく頼むよ、ウバザメちゃん。もう少しの辛抱、ホーカーの工場ですっかり直してもらおう。

 私はこれからの乗機に挨拶を済ませて再び歩き出す。

 飛行場はドイツ軍の爆撃にこっぴどくやられていて、滑走路と誘導路以外の地面はまるで巨大なアリジゴクの巣窟のようにクレーターだらけだった。前線飛行場では滑走路はコンクリート、誘導路は金網で舗装するのが常だったけれど、めくれ上がって破れた金網やコンクリートの瓦礫、崩れた建物のレンガなどがそこら中に打ち捨てられ、積み上げられていた。滑走路の端まで行くと、泥の中につんのめったまま逆立ち状態で放置されている戦闘機もあった。司令部の横の格納庫は屋根が吹き飛ばされて鉄骨の梁だけが門のように空に掛かっていた。

 そしてその向こう、雲の少し薄くなったところに黒い影が横切るのが見えた。ドイツ軍か、と思って身構えたけれど、エンジン音をよく聞くとセイバーらしかった。ドイツにはセイバーほど甲高い音のするエンジンはない。八機のテンペストが四機ずつの編隊を解いて一列に滑走路へ降りてきた。地盤が悪いのか、タッチダウンの度に滑走路がかすかに波打つのがわかる。その波は滑走する機体を追いながら次第に小さくなる。テンペストたちはまるで湖の上に降り立つかのようだ。幸い傷ついた機はない。完全試合だったのか、あるいは空振りだったのか。速度を十分に落とした機は誘導路をバンカーに向かって走っていく。駐機を終えたパイロットたちは荷物を担いでタワーに向かって歩いてくる。

 その中の一人がクロムウッドだった。私は知り合いがいないかと思って損傷機の翼にマスコットみたいに座って眺めていたのだけど、彼の方が見つけて、報告のあと声をかけてくれたのだった。さすがに戦場で鍛えられたパイロットの視力は侮れない。


……


 クロムウッドと話しているうちに午後二時を回り、フライトの準備が始まった。タンクローリーがセイバー専用の一三〇オクタン燃料をタンクに注ぎ込み、ラジエーターの開口部に蛇腹のホースをつないでいた予熱用のトラックが離れる。きちんと予熱しないと低温で凝固したオイルがインテークを塞いでしまってどうあがいても始動できない。セイバーは気難しいエンジンだった。同僚二人もメイウェスト(ライフベストのこと)を閉めてパラシュートを肩に掛けて外へ出てくる。二一歳のルー・ビゴットは空の男たちに囲まれて上機嫌だ。

 私もメスからパラシュート取ってくる。こんなもので本当に人間一人が空に浮くのか、と思うくらい重いのだ。翼の上に担ぎ上げ、シートに押し込んでコクピットに入る。最後のフライトでパイロットが照準器にひどく頭を打ちつけたらしく、照準器は根元から三〇度くらい明後日の方向へひん曲がってミラーガラスは粉々に割れ、その下の計器類には拭いきれなかった血液が茶色い染みになって残っていた。

 私はプリスタートチェックを始める。まず主脚のロックがきちんと効いているか確認。レバーは左の奥にあって、一度捻らないと上下に動かない二重操作になっている。下げ位置、ロックよし。インジケーターの点灯スイッチを入れると左右とも緑色が光る。

 右下の燃料コックを操作して、胴体、主翼両側、左翼前縁のタンクをすべてオンに切り替える。

 プロペラピッチアングル、フル・フォワード(低ピッチ)。ラジエーターフラップ、ダウン。

 カットアウト・レバー(燃料遮断レバー)を「ノーマル」から「スタート」に合わせる。スロットルレバーを「クローズド」から「ストップ」の表示まで押し出す。

 右下のプライムポンプのうち下側、キャブレター用のポンプをふいごのように押し引きして燃圧警告灯が消えるまで続ける。

 シート右横の小さなハンドルを回してスターターのカートリッジを装填する。セイバーには独特のコフマン・スターターという始動装置がくっついていて、散弾銃の薬包のようなカートリッジを爆発させてその爆圧をシリンダーに送り込み、クランクシャフトを強制的に何回転か回してやる。その間にエンジンが自力で回り始めればいいのだが、上手くいかないとインテークに溢れ出した燃料に火がついて火事になるので整備員が――今回はクロムウッドがその役を買って出て機体の前方で消火器を持って構えている。

 他の機種のエンジンはほとんどの場合電気モーターをイグニッションに使っている。対してセイバーがこんな機構を採用しているのはH型二四気筒という化け物じみた構成のせいだといってもいい。水平対向一二気筒を上下に組み合わせたこの鉄製のブロックのようなエンジンは並大抵のパワーでは動き始めない。

 脚インジケータースイッチの横にあるイグニッションスイッチをオン。少し上にあるイグニッション用ボタンのカバーを開いて中のボタンに左の人差し指と中指をかけておく。

 右手でシリンダー用のプライムポンプをゆっくり引く。何度も引く。手応えが来たところで力を入れて素早く動かす。油温はぎりぎり五度。一〇度以下ならポンプはここで五回だ。すかさずスターターボタンとブースターコイルのボタンを同時に押す。機体が跳ね、プロペラがぎこちなく回り出す。スターターボタンはすぐ離してもいいが、ブースターボタンはエンジンが自力で回転して燃料を吸い始めるまでそのままにしておかなければならない。回り始めたらポンプの取っ手を押し込んで、カットオフレバーをノーマル位置に戻すのだが、だめだった。

 プロペラが止まる。爆発で得たエネルギーを使い切るまでに着火しなかったのだ。

 シート右横のスイッチでスターターのカートリッジをリロード、スタートボタンを再び押し込む。二度目。ポンプを動かしたい気持ちを抑える。ここでプライムしてはいけない。エンジンが回り始めるのを待って、そこで一気に動かさなければならない。構える。

 また駄目だ。そしてスターターのパワーが途切れる。プロペラが止まる。

 三度目。今度は発火の手応えがあった。全力で上のプライムポンプを引く。しかしだんだん回転が弱くなる。

 そこで前方のクロムウッドが「ファイア!」と叫んだ。

 私はあわててイグニッションのスイッチを切る。こういう時のために親指を添えておくのだ。すぐにキャノピーの外に両手を出してプロペラが回る心配のないことを外に知らせる。そしてクロムウッドが消火器のノズルをインテークに突っ込んで消火剤を噴射する。コクピットの中まで白い粉が舞い込んできた。

 カートリッジを三つ使ったので一度エンジンを排気してやらないといけない。カットアウト・レバーを「カットアウト」に下げ、スロットル・オフ。イグニッション・オフを改めて確認したあと、整備員たちが肩車をしてプロペラにぶら下がって外側から強制的にシリンダーを動かしてやる。一翅あたり軽く一〇〇ポンドはあるジュラルミンの分厚い板だ。人間一人掴まったくらいでひしゃげるなんてことはない。

 スチュアート夫人とビゴットのテンペストはすでに快調にプロペラを回している。セイバーの爆音も猛々しい。二人とも心配そうにこちらを見ている。

 えっちらおっちら四回転ほど回してブローが済んだので、再びカットアウトレバーをスタートに入れるところから手順をやり直す。四度目。今度は改めてプライムを引く。そしてイグニッション。排気管から黒い煙が飛び出してプロペラが弱々しく回り、何かに蹴躓いたようにがっくりと止まる。

 整備員が一人登ってきて「プロペラが回らなかっただろう。スリーブバルブの滑りが悪くなってるんだ。もう一度暖機してオイルを引き直そう」と言った。私は大人しくそれに従うしかなかった。

 実戦ならスタートにこんなに手間のかかる機体は使い物にならない。一度だめなら放っておくしかない。放っておける、と言ってもいい。他のテンペストが空いているならそっちを使えばいい。でも今はテンペストを飛ばさなければならないのだ。そこは全く事情が異なっているし、整備員たちもこれだけ一機の飛行機にかかりきりになるなんてなかなかないはずだ。

 私はパラシュートをシートに残したまま一度コクピットを出た。待っているスチュアート夫人のテンペストによじ登って、排気の臭いで噎せそうになりながら互いの顔を近づけた。

「暖機からやり直します。待っていたらたぶん到着の頃にはかなり暗くなってしまう」私は大声で言った。

「そう、困ったわね」スチュアート夫人も叫ぶ。

「先に行ってください。次のトライでだめだったら私は今日はここに残ります」

 私たちは組織的に夜間飛行の訓練を受けているわけではなかった。それにスチュアート夫人が視力の問題でとりわけ暗くなってからの飛行に不安を抱えていることを私は知っていた。すでに三時を回っている。目的地のブラッドウェルベイ飛行場までは少し長く見積もると一時間ほどのフライトになるから、到着は日没近くになる。

「あなたの単独飛行にケチをつけるつもりなんてないけど、少しでも危ないと思ったら一泊して明日飛びなさい。決して無理はしないで。いいわね。先に行ってブラッドウェルで待ってるから」スチュアート夫人は私の肩を掴んでそれから頬に手を当てた。でもグローブをしたままだったので頭の片側を包み込むような具合だった。グローブの革が冷たかった。

 二機はパワーを上げる。後流が雪と土煙を巻き上げる。発着士官が滑走路のクリアを確認して合図を出す。二機はランウェイに出て一機ずつ飛び立つ。たぶんラジエーターの弱った方だろう、一機が浮き上がった直後にちょっと白煙を吐いていた。とはいえさすがに離陸の時は全力で回さないと機体が浮き上がらない。林の中に突っ込むよりいいだろう。バリバリと雷のような響きが次第に遠ざかっていく。

 私は二機を見送って自分のテンペストのところに戻る。再び予熱用のトラックがやってきてチューブをインテークに差し込んでいる。機上ではボンネットのカバーを開いてコフマンスターターのカートリッジを取り換えている。この気温だと低温用のカートリッジだろう。エンジン後上部にリボルバー・ピストルのマガジンによく似た五個組の筒がついていて、そこにカートリッジを差し込むようになっている。エンジン始動時にはコクピットのリロードボタンを押すとその筒が一個ずつ回転していくわけだ。

 私は予熱車のフロントバンパーに座って暖を取りながら作業を見守っていた。そしてその間死んだヘイズのことを思い出していた。私はすでに何度かフォルケルに立ち寄っているけれど、ヘイズは比較的古い知り合いだった。彼は空戦の話を聞かせるのが好きで、飛行機の翼やテントの下に座って、手で飛行機の動きを表現しながら独特な擬音をつけて上手く語ったものだ。テンペスト部隊の任務はどちらかといえば対地攻撃が多いのだろうけど、彼は敵戦闘機との戦いを好んで語った。「その時雲の上からドーラが突っ込んできて編隊最後尾の一機を掠めていった」とか、「隊長機が回り込んだのを見て上昇で誘い込んだ」とか、このパイロットは自分以外の周りの状況、大局をよく見ているのだな、と感心することも多かった。経験の浅いパイロットだと、目の前の敵機しか見ていなくて他の敵や味方がどこにいるのか全然覚えていなかった、なんて話はざらにあった。RAFは惜しいパイロットを失ったことになる。けれどその事実は彼ほど腕の立つパイロットにとってもこの戦争を切り抜けて生き残ることは難しい、ということも意味している。空の女神は決して等しく不注意なパイロットから天に招き入れるわけではなかった。日一日、誰が幸運に恵まれ、誰が不運に見舞われるのか、それを知る者はない。熟練者も、新米も、自分の運命の中で最善を尽くすしかない。それだけだった。

 私はその追想をヘイズの死に対する祈りに代えた。短く目を瞑る。

 そうしているうちにもあの分厚い雲の向こうで刻々と日没は近づいている。整備員は時々プロペラにぶら下がってシャフトの滑りを確かめている。空を塞ぐ雲は団子になった蛇のようにのたうち、うねりながら流れている。その向こうに時折飛行機のエンジン音が聞こえたが、いずれも味方機らしく警報は鳴らない。雪の粒は時折大きくなり、また小止みに戻る。予熱車のボンネットに落ちた雪が溶けて車体の表面全体をじっとりと湿らせている。

 三〇分ほどでエンジンカバーを閉める。思っていたよりいくらか長く時間がかかった。インテークからは湯気が立っている。私もコクピットに戻って改めてプリチェックを済ませた。五度目。カットアウト・スタート。再びプライムしてエンジンに燃料を染み込ませる。イグニッション・オン。スタート。スターターは先ほどより遥かに力強くプロペラを回した。機体が揺れた。シリンダー・プライムを思い切り動かして回転を安定させる。さっきの不調が嘘のように素直な始動だった。

 セイバーは威勢良く回り出した。ばちばちと荒っぽい鼻息を立てている。油圧計の針が一〇〇ポンド/平方インチに下がるのを待ってスロットルを押し上げる。二〇〇〇回転を維持。油温は三〇度。四〇度に上がるまで待たなければいけない。その間に各種温度計・圧力計をチェック、左パネルの右下にあるレバーでフラップを上下、油圧の作動を確認する。コクピットからは見えないので外から確認してもらわなければならない。振り返ると整備員が機の後方でOKのサインを出している。

 スロットルを押し上げてブースト計をプラスマイナスゼロに合わせる。回転は二三〇〇。一つ手前のレバーを押し下げて過給器をMギア(低空用)からSギア(中高空用)に切り替える。セイバーがヒューンと息をつく。

 Mギアに戻し、ピッチレバーを引いてプロペラピッチを深くする。後流が強くなって風防を回り込んでくる。目が乾く。空気が冷たいので眼球が痛い。回転数は一六〇〇まで落ちる。再びピッチを浅くして二四〇〇、この操作をもう一度繰り返す。プロペラチェックよし。

 最後にスロットルを一杯まで押し込んで回転数が安定するか確認。排気管に青白い炎が光る。かなり油温が上がった。ここまで来れば不意に止まることはないはずだ。

 スロットルを戻す。フラップレバーが「バルブ・シャット」位置(任意の角度でフラップを固定する)にあるのを確かめる。

 が、そこで一つ気がかりになってフラップレバーを「ダウン」に、フラップ角指示器でフル・ダウンを確認してから再び「バルブ・シャット」。コクピットを降りる。

「どうした?」とクロムウッド。

「フラップを使うかどうか、確認だよ」私は答える。

 主翼が穴だらけになって揚力が減っているから離陸にフラップを使ってもいいなと思ったのだけど、フラップも穴だらけだったら余計に制御が難しくなるだけだ。新品の機体だって離陸でフラップを使うと右傾が強まるのだ。

 後ろから見てみると案の定フラップの縁はまるで近世の古文書のようにボロボロになっていた。これではだめだ。

 コクピットに戻ろうと思った時、フライト司令がコートを着て建物の外に立っているのが機体の主脚越しに見えた。せっかくだから挨拶していこう。

「ブラッドウェルベイまでひとっ飛びするそうだね」と司令。「いま離陸すれば到着は日没頃になる」

「せっかくかかったのに、今さら止められません」

「自信があるなら一向にかまわないが、もし君が私の部下だったら飛行は明日に持ち越させるだろう。決して無茶はさせない」それは大勢の部下を失ってきた指揮官の重みのあるセリフだった。

「いいえ、無茶だとは思っていません」

「了解した」

「あと、第八〇(スコードロン)のクロムウッド少尉ですが……」

「うん?」

「むろん私の立場で指図やお願いをするわけではありません。ただ、事実として、彼は手が震えています」

 司令は少し自分の顎を撫でた。それから答えた。「彼のことは私も心配している。じきに本土へ送り返すつもりだ。先ほどのフライトを最後にしようと思っていたところだ」

「わかりました」

 私は「ありがとうございます」と言いそうになるのを堪えた。私は礼を言う立場ではないし、彼が前線を退いても別の誰かが彼の代わりに前線を越えて飛んでいくことになる。

「アン・ロジャース」司令は改めて私に呼びかけた。「くれぐれも気を付けて、いいフライトを」

「はい」

 司令が挙手の礼をしたので私は文民の礼で応えた。胸の内が少し熱くなった。

 クロムウッドが翼の後ろに立って私を待っている。飛行帽を被り直してシートに収まる。

 フラップ・アップ、バルブシャット。

 クロムウッドは私に続いて翼に登り、右翼前縁の端の方に座る。テンペストは地上姿勢だと前方がまるで見えないのでタキシング中は一人誘導役がつくことになっている。その指定席が翼の上だった。

 ハーネスを締め、シート左横のハンドルでトリムタブを調節、エレベータをやや下げ舵、ラダーを左一杯に。プロペラピッチ、フルフォワード。ラジエーターフラップ、フルダウン。フラップ、アップ。燃料は全タンクのコックを開く。過給器はMギア。

 さあ行こう、ウバザメちゃん。

 ブレーキを踏んで外に合図、整備員がチョークを外す。見送りの男たちに手を振って別れを告げる。右を見てクロムウッドの指示でフットバーを踏みかえ、滑走路の端で転回、微調整して滑走路の軸に合わせる。

 クロムウッドが翼の上を歩いてきて、私の肩に手を置いてから機を降りる。

 周囲、前方よしの合図。フード(キャノピー)を閉めてロック。フルスロットルで滑り出す。

 加速。テンペストのプロペラはコクピットから見て反時計回り。セイバー2Bの二四〇〇馬力の怪力と分間三七〇〇回転の四翅プロペラが生み出す反トルクは凶悪な右傾と右曲がりになって表れる。体全体をよじるように、操縦桿を左に、フットバーを左に踏み込んで機体を直進させる。密閉されたコクピットは少しのあいだ血と男の汗の臭いが籠っていた。それも束の間、すぐに焼けたオイルと排気の臭いが機首の隔壁から漏れ出してくる。

 八〇マイルほどで尾輪が浮く。初めて前方が見える。雪を被った林が壁のように迫ってくる。司令部を横切る前にそちらを向いて片手を上げる。

 一二〇マイルで主輪が地面を離れた。落ち着いて少しずつハンドルを引く(操縦桿の先端が輪っか状になっているのでまさしくハンドルのように両手で握ることができる)。眼下にツリートップが流れる。見かけはスレスレだが地上の観客から見れば十分余裕があったはずだ。

 すぐに脚を仕舞う。もたもたしていると風圧で脚カバーが閉まらなくなるのだ。レバーの頭を捻って押し上げる。上げ位置。動いている間指示器に赤ランプが灯り、収納完了をもって消灯。よし。機速はすでに二〇〇マイルに迫っている。

 後上方を確認。離陸の時と着陸の時、低速の直線飛行で、しかもパイロットが機体の制御に集中している時、これが敵機にとっては一番おいしいタイミングらしい。敵にとっては私もRAFのパイロットも同じ、そこに一機のテンペストが飛んでいるという事実に変わりはない。もしそこにいるならきっと狙ってくるのだろう。

 大丈夫。たぶん、大丈夫。

 ゆっくりと右旋回して基地の上を回る。爆撃痕は地上で見るより遥かにくっきりしている。しかしそれも雪によって次第に白く塗り潰されようとしていた。司令部の前に人影が見える。翼を振って挨拶。

 旋回しながらもう一度周囲に飛行機がいないか確かめ、機首を西に向けてトリムを水平飛行に合わせる。やや右傾が出ているがタブで十分補正できる程度だった。操縦桿を放してもまっすぐ飛ぶ。最初に機体を見た時はまともに飛べるのか不安だったし、飛んでいる間ずっと操縦桿を押さえておく覚悟だってしていたから、それはとても意外だった。

 スロットル・ミリタリー。プロペラピッチをやや深く。時速三〇〇マイル。高度一五〇〇フィート。胴体タンクのコックを閉め、翼内の三つのタンクで飛行する。まだ雲の下だ。風防はすぐに雪でびちゃびちゃに湿ってきた。風圧で溶けた水滴が何本もの筋になってフードを凍らせながら後ろへ流れていく。

 ふと右の方から「ババババババ……」と壊れた扇風機のような特徴的なエンジン音がうっすら聞こえてくる。いままでも何度か遭遇したことがあった。V‐1飛行爆弾だ。小さな翼の生えた緑色の巨大な座薬がジェットエンジンを背負ったような恐ろしい姿をしているのだが、目がついているわけではないのでこちらに襲い掛かってくることはない。針路は北から南、私とほぼ直交している。一〇機編隊二個の梯団で私の翼の下を通り過ぎていく。通過すると特徴的なエンジン音は「ゴー」という伸びた音に変わる。どうもあの振動音はインテークについたシャッターが小刻みに開閉して立てるものらしい。使われ始めた頃はフランス沿岸からロンドンに向かって撃ち出されていたが、最近では連合軍の一大物流拠点となったアントワープに向かってオランダ北岸から発進している。間もなく英米空軍の迎撃を受けるだろう。フォルケルからもテンペストが上がっていくかもしれない。ジェットエンジンといってもテンペストが追いつける程度のスピードなのだ。あるいは悪運強く生き残った数発は目標上空でエンジンを止め、エレベーターをいっぱいに下げて地面に突っ込んでいくかもしれない。

 私は上昇に移る。頭上に分厚い雲、まるで氷山に突っ込むような気持だ。勇気がいる。視界は真っ白になり、乱気流で機体が振動する。操縦桿もぶるぶると震える。下降気流にひゅうっと一気に二〇〇フィートも下へ引っ張られる。腰が浮き上がり肩にベルトが食い込む。そんな状況が一分間も続いたように思えた。

 突然視界が開け、真っ白に染まる。白は白でもそれは光の白だった。そして目が慣れると自分が素晴らしい景色の中にいることがわかった。雲海はコテで均したケーキのように平たく、空はレモン色に輝いていて、その中に乾いた刷毛でさっと引いたような巻雲がたなびいていた。

 水平飛行に戻す。

 周囲、左手に機影ひとつ。やや高位、反航。双発機。胴体が太い。輸送機のようだ。たぶん味方のダコタ(C‐47)だろう。操縦桿を左右に傾けて翼を振ると相手は翼端の航法灯を点滅させて応えた。

 緊張が解けたらしい。少し寒さを感じた。計器盤の左右にある温風の吹き出し口を掴んで風が手先に当たるように調節する。

 機速二〇〇マイル。針路二七〇、定針。高度八〇〇〇フィート、雲海を這うように飛ぶ。ラジエーターのシャッターを閉め、回転数を下げて過給器をSギアに切り替える。エレベーターのトリムを少し調節。セイバーはとても大人しく回り続け、熱い排気を機首の両側に吐き出している。左の前から三番目のパイプがちょっと黒っぽい煙だが、メーターも音も全く問題ない。

 私はテンペストという飛行機が好きだ。大きな機体は頑丈で安定感があるし、セイバーの狂暴なパワーもびりびりする振動も気持ちがいい。地上視界は悪いけど、一度上がってしまえばフードは丸くて枠もないし、眺めはとてもいい。自分の周りに全天が広がっている。スピットファイアのような機敏で繊細、気品のある感じとは違う。愚直で、おおらかで、合理的だ。

 二〇分ほど雲海の真上を飛んだ。ロッテルダムの西、ちょうど海岸線を越える頃だろう。分厚い雲も、その上にあるレモン色の空も、依然そのまま。空の色はまるで熟したように少し赤みがかかってきただろうか。その色が翼の弾痕を避けてまだ平滑な外板の上につやつやと映っている。

 そして左翼の先に目をやった時、ガラスについたシミのような黒い点が雲の波間から現れるのが見えた。太陽の光のせいか、かすかに点滅しているようだった。

 その点は右へ行くでもなく、左へ行くでもなく、その場に留まっているように見える。

 たぶんこちらへ近づいてきているのだ。

 距離は三マイルくらいだろうか。黒点は雲海面から飛び出た雲の間に見え隠れしている。次第にそれが四つ並んでいることがわかってきた。

 四機編隊。戦闘機かもしれない。連合軍機だろうか。ドイツ軍機だろうか。

 機影はまだ左にも右にも逸れない。やはりこちらに向かってきている。たまたま針路が重なったわけではない。彼らも私のテンペストを見ている。

 とすれば敵だろうか。

 このまま飛ぶか、スピードを上げるか。

 私が逃げ腰になれば相手は追ってくるだろう。それはたとえ相手が味方であっても、敵ではないか、という疑念を抱かせることになる。それに、セイバーは今のところ快調だが、あくまで損傷した飛行機、あまり長い時間出力を上げているとどうなるかわからない。テンペストは足の速い飛行機だから新造機なら全力で逃げるという選択肢も全然ありだが、今は得策ではないかもしれない。

 あまり長く悩んでいる時間はない。

 私は左手に入れかけた力を抜いた。このままのスピードで飛ぼう。

 操縦桿を左右に倒して翼を振る。味方だ、という合図。

 もし相手がドイツ機だったとしても味方だと誤解してくれるかもしれない。騙せなかったとしても下に雲がある。逃げ込める。

 四つの機影がふわりと浮き上がる。

 しめた、引き返していく、と思ったのも束の間、四機はそのままの針路で上昇にかかった。私の頭の上を押さえようとしているようだ。上から襲い掛かるつもりなのだ。

 距離一マイル。相手の平面形が見えてくる。太い胴体に翼端の丸い大きな翼。アメリカ軍のサンダーボルト(P‐47D)のようだった。味方だ。でも私を敵だと思っている。影の長い夕暮れ、国籍マークも視認しづらい。危険な時間帯だ。

 私のフライトはATAからGSU(グループ・サポート・ユニット:航空団支援部隊)、その上部組織であり、大陸派遣のRAF部隊を統括する第二TAF(タクティカル・エア・フォース:戦略空軍)に通知されているし、フォルケルからも第二TAFに私の離陸を伝えてもらっているはずだ。私のテンペストが今ここにいるということはちょっと調べればわかるだろう。それを彼らが認識していないということは、彼らは管制に問い合わせるのを忘れているのかもしれない。あるいは連絡・通達のちょっとした行き違いなんてものはよくあることだ。

 私はもう一度翼を振ってアピールした。

 しかし相手から返事はない。

 もういまさら逃げるという選択肢に戻ることはできない。攻撃に入られたら躱すしかなかった。ATAは戦闘機動の訓練はしてくれなかったけれど、でも私は前線でRAFのパイロットたちから空戦の話をたくさん聞いてきたし、単独飛行の時、飛行機の調子がいい時は空の上でこっそりアクロバットや失速を試してみたことも一度や二度ではなかった。バトルオブブリテンの最中には何度かかなり危ない経験もしたから、それは決して好奇心による遊びなどではなく、必要に駆られた自主的な訓練だった。

 操縦桿とスロットルをしっかり握り、上空を見てタイミングを計る。距離はすでに一〇〇〇ヤードを切っている。

 撃ってくるならそろそろだ。

 そう思った矢先、どういうわけか編隊後尾の二機が立て続けに火を噴いた。

 それは機銃口の閃光などではなかった。一機は機首のエンジン部分が火の玉のようになって燃え盛り、一機は片方の主翼を根元からもがれてくるくる回りながら墜落しつつあった。

 先頭の二機は一瞬その状況に気づいていない様子だったが、間もなく反転、私の針路とほぼ真逆に向かって旋回を始めた。胴体の下から切り離した外部タンクが遠心力に従ってまっすぐに落ちていく。

 旋回の方向を見ると、また別の戦闘機が一機、ものすごいスピードで上昇にかかっている。光の反射で翼が金色に輝き、次いでそのあとに黒い十字のマークが見えた。

 ドイツ機。それはフォッケウルフ(Fw‐190A)であるらしかった。彼もまた降下の最下点でタンクを捨てていた。

 おそらく四機のサンダーボルトが私のテンペストに夢中になっているのを見かけたので、じわじわと太陽の方へ回り込んで奇襲をかけたのだろう。西から東へ抜けたということは、たぶんそうだ。

 先頭のサンダーボルトがまだ一マイル近い遠距離で主翼の機銃を撃った。針のような光の筋が空に向かって散らばっていく。フォッケには当たらない。悠々と旋回を続けている。

 しかしフォッケは四機に対してたった一機で挑みかかったのだろうか。そうは思えなかった。上空に目を凝らすと、やはりもう一機、控えのように翼を立てて旋回しているのが見える。

 それに気づいたサンダーボルトの二番機が編隊を崩して長機の上をカバーするような位置に向かって上昇する。

 しかしそれはむしろ一瞬自分自身を無防備にする選択でもあった。

 上空のフォッケが翼を畳んだハヤブサのように真っ逆さまに急降下する。彼が狙ったのはサンダーボルトの二番機だった。

 先ほどのサンダーボルトのばらまきとは違う、槍のようにまとまった機銃の雨がフォッケの鼻先から伸びていく。再び一航過でサンダーボルトは木っ端微塵になり、飛び散って落ちていく破片の中から白いパラシュートが開く。

 そういえばさっきの二機からは脱出は認められなかった。パイロットたちは飛行機と運命を共にしたのだ。

 残る一機のサンダーボルトは果敢にも一機で二機に立ち向かう。いや、立ち向かうしかない。もう逃げられないのだ。下方に抜けたフォッケを追って切り返すが、その直上では最初の一機が旋回を終えようとしている。

 その時私はようやく自分の置かれた状況に気づいた。

 あの一機が墜とされたら次は私の番だ。

 プロペラピッチを浅く、スロットルを押し込む。機首を下げて雲の中に飛び込む。過給器が「キュウウン」と音を立てて空気を吸い込む。セイバーは猛獣のように唸り、震え、エギゾーストから青白い炎を吐き出す。加速が私の体を乱暴にシートの背凭れに押し付ける。視界の真ん中が遠くなり、世界が前後に引き伸ばされていくように感じる。ものすごいパワーだ。

 雲の中に視界はなく、暗く、風防を水滴が走り、まるでオフロードのように機体が震える。主翼が撓り、スパーが軋む。

 そうして乱気流に揉まれたまま二分も飛行した。もしフォッケとサンダーボルトがまださっきの空域に留まって戦っているなら一〇マイルは距離を取ったことになる。いくら目を凝らしたって捕捉できないだろう。一秒が生死を分ける戦場では一分でも十分すぎるほど長い。

 恐る恐る高度を上げて雲の上に出る。頭上、後方、機影なし。

 ふう、と前方に目を戻した時、視界の左側に何か大きな影があるのに気づいた。

 一機、左、至近距離で私に並航している。

 空冷、太い機首。スリットに縦一列に並んだ排気管、割り切った三角形側面の風防とフード、尾翼のハーケンクロイツと黄色く塗ったラダー舵面。全体に濃いグレーとグリーンの斑点迷彩。

 フォッケウルフだった。

 敵機だ。

 すぐ離脱の操作をしなければ、と思った。

 けれど体が動かなかった。真横にいるフォッケウルフの落ち着きはそれくらい堂々として、不気味だった。彼が私を撃墜しようとしているようには見えなかった。その態度は殺気に満ちた先ほどのサンダーボルト編隊とは明らかに違っていた。

 そしてもう一機はどこへ行ったのだろう? 私の死角になっている後下方にいて、私が少しでも交戦の意志を見せれば直ちに撃墜するつもりでいるのかもしれない。私はもうすでに彼らの鳥かごの中に飛び込んでしまったのだ。その直感が私に急機動を思いとどまらせた。

 私は今まで全速力で逃げてきた。低中高度でテンペスト以上の高速を発揮するレシプロ機はドイツにはない。しかし私の飛行機は重い損傷を負っていたし、雲の中では気流にぶつかってスピードが落ちる。雲の上を飛べばフォッケウルフの全速でも十分追いつけるようなスピードだったらしい。

 それにしてもぴたりと真横につけられたのはなぜだろう。直線で飛んできたから、あるいは針路は察しがついたかもしれないが、あの厚い雲の下にいる私の機影を目視できたとは思えない。厚い雲に入った飛行機はレーダーでも捉えられないというし、それなら、勘だろうか。勘だとするなら、相手は生半可なパイロットではない。

 フォッケウルフのパイロットはフードの中でこちらを見ていた。少し顎を上げ、私の動きをつぶさに観察している。「さあ、どうする?」まるでそう問いかけているようだった。その頬の皺、日焼けして乾いた肌は彼が長く多くの経験を積んだパイロットであることを物語っていた。私のテンペストがひどく損傷していることは彼の目にも明らかだろう。私が女であるということも、つまりRAFの実戦パイロットではないということも、もしかしたら気づいていたかもしれない。

 私のテンペストと彼のフォッケウルフは翼端が触れそうになるほどの近距離で並航していた。その距離が互いに心を持った人間としての探り合いを探り合いを可能にしていた。してしまっていた。

 さあ、どうする?

 ふと西日に照らされてフォッケの側面風防がきらりとオレンジ色に光った。

 私が瞬きしたあと、彼は右手を額に当てて挙手の礼をしていた。私に向かって敬礼していたのだ。そしてそのポーズのままで乗機を左にバンクさせ、かつ高度を保ったまま左へブレイク(離脱)していった。左手か膝で操縦桿を操っていたのだろうけど、全く滑らかでブレのない旋回だった。すごい。

 低いエンジン音が遠ざかる。

 そして視界の左下からもう一機のフォッケが現れ、彼の機を追って優雅に旋回していった。やはり後下方にいた。私の直感は当たっていたことになる。二機のフォッケウルフの機体には弾痕のひとつもなかった。きっとサンダーボルトは最後の一機も撃墜されてしまったのだろう。四機に二機でかかって全部撃墜、しかも全く無傷。彼らの完勝だった。

 二機のシルエットは間もなく雲の峰に隠れて見えなくなってしまった。あとには茫洋とした空が残っている。空はもはやレモン色のような優しい色合いではなくなっていた。血とハチミツを混ぜたような、濃く、赤い、少しグロテスクな様子に変わっていた。日没が迫り、背後の空は冥界のような漆黒に染まりつつある。

 改めて周囲を警戒。けれどそれは全く虚しい行動のように思われてならなかった。

 左手を伸ばして計器板の血痕に触れる。

 私はどうするべきだったのだろう。私自身の身を守るためには正しい選択をしたのかもしれない。でもこのテンペストの中で傷ついていったパイロットたちに――付け加えるなら私に付き纏ってきたP‐47のパイロットたちにも――面目が立たないような気がした。かといって立ち向かうことが許されるのだろうか。私の判断も、また軍属の民間人という私の肩書きも、今はもどかしいだけだった。腹立たしいといってもよかった。

 左手で握り拳をつくって、けれどコクピットの中にはそれを叩きつけられるようなものは何もなかった。

 グローブを外し、ポケットの中のお守りのサメを握りしめる。私にはただそうして自分を落ち着かせ、宥めることしかできなかった。

 フライトは続く。グローブに手を入れる。スロットルを戻し、ラジエーターを開いてエンジンを冷やす。逆光で計器が見づらくなってきたので計器板のトップにある左右のスイッチを捻ってライトを点ける。その横についている電球が計器板に光を落とす。完全に日が落ちてから明かりを点けると目が眩んで外が見えなくなってしまうのでライトを点けておくのはこの時間帯だけだった。

 やがて雪に覆われた白い大地が井戸のような雲の切れ間に見えた。赤黒く夕暮れに染まっているのは同じなのだけど、雪原の微妙な光沢は雲の透き通るような感触とは少し違っている。そこに見えるのは確かに大地だった。いつの間にか本土の上空に入っていたようだ。私はその穴を目指して翼を立て、スロットルを絞って降下していく。エンジンのオーバークールを避けるためにラジエーターを閉め切る。

 薄雲を突っ切る主翼に張った薄氷がすぐに剥離して後流に巻かれながらきらきらと火の粉のように輝く。

 雲の下はすっかり暗くなっていた。紫色の邪悪な光がわずかに地平線の位置を示しているに過ぎない。計器板の明かりを消して夜間飛行に備える。水平儀、コンパス、旋回計を確認して水平飛行で一度定針。それから右にバンクして大きく旋回する。やがて薄明りの中に海岸線や川の輪郭が見えてくる。私の見立てが正しければ期待より北に出たようだった。ブラッドウェルベイは海辺の飛行場だから、一度海岸線まで戻って南へ飛ぼう。

 回転数が三一〇〇以下になっているのを確認して過給器をMギアに。油温五〇、液温七〇度。翼内タンクの残りはいずれもほぼ半量。

 やがて右手にブラックウォーター河口の入り江のようなエスチュアリが見えてくる。飛行場はその南岸だ。灯火管制のせいで街も畑も牧草地も見分けがつかない。当然滑走路も同じだ。私は見当をつけて旋回しながら右手の配電盤のスイッチをパチパチと切り替えて翼端の航法灯を点滅させた。左翼が赤く、右翼が緑色に照らされる。

 すぐに反応があった。半マイルほど西で滑走路の輪郭を示す灯火が光った。ブラッドウェルベイの滑走路は三本、それが篝火のように三角形に組んである。私一機に案外賑やかな歓迎をしてくれるものだ。しばらくするとそのうち二本の灯火が消え、一本だけが残った。そこを使え、ということらしい。

 私はスピードを絞ってフラップを下げ、低空で飛行場の上空を一度パスした。左下に滑走路を見て路面の状態をじっくりと確認する。爆撃の痕や擱座している飛行機がある時は何も考えずに突っ込むわけにはいかないのだが、どうやら大丈夫だ。

 旋回のためにスピードを一八〇マイルまで戻して着陸コースに乗る。ブレーキ圧確認。胴体タンクのコックを開いて全タンクをフロー。プロペラピッチを一杯まで浅く。ラジエーターを少しだけ開き、フラップを最大下げ位置で固定。左手で脚レバーを捻って引き下げる。重たい主脚が垂れ下がった反動で機体が揺れる。作動ランプが赤く灯り、まず尾脚の固定を示す緑色が光り、少し間があって主脚の右、左と順に緑色のランプに移り変わる。

 よし、これで降りられる。左手で前照灯のスイッチを切り替える。コクピットからは見えないが両翼の下でリトラクタブルのライトが開いたはずだ。

 右手のレバーを引いてシート位置を高くする。滑走路を左に見ながら旋回、高度二〇〇フィート、速度一三〇マイルで軸線を正面に捉える。着陸態勢だと機体はいささか機首下げの傾向が強くなる。加えて損傷のせいで機体左側の方が少し揚力が強い。操縦桿を少し左寄りに引いて、しかも左からやや風が吹いているのでペダルを踏んで流されないように機首を風上に立てて、速度と降下率に注意しながらスロットルを調節する。滑走路から私のテンペストを見ると向かって右にかなり傾いて滑りながら進入してくるように見えただろう。

 前照灯の光芒の中にコンクリートのパネルがくっきりと見えてくる。そして一二〇マイル弱で接地。しかしバウンドしたので機体が叩きつけられないように操縦桿を両手で押さえ、二度目でしっかり着地。機首を滑走路の軸線に合わせて滑走しながら少しずつ尾部を下げる。そして今さら主翼が失速するバフェットが操縦桿を震わせる。

 浮力が完全に消えたところでフラップを上げ、ラジエーターを最大まで開く。過給器を一度Sギアに切り替え、Mギアに戻す。エプロンにはアラート待機のテンペストが何機か並んでいるが、図体の大きなハリファックスやランカスターの方が目立った。海辺に長い滑走路を持つブラッドウェルベイは爆撃機の不時着場でもあった。

 駆けつけ地上員の誘導でタキシング、スポットでブレーキを踏んで機体を止める。回転数を一〇〇〇に合わせ、余ったオイルを焼き切る青っぽい白煙が消えるのを待つ。

 カットアウトレバーを「カットアウト」に合わせる。セイバーがぶるっと震え、ぎこちなくプロペラの回転が止まる。スロットルを「クローズド」まで引き、イグニッションスイッチをオフ。全タンク、コック・オフ。カットアウトレバーを「ノーマル」に戻す。

 スロットルレバーを掌で軽く叩いてテンペストを慰撫する。傷ついた体で君はよく飛んでくれたよ、ウバザメちゃん、お疲れさま。

 時計はほぼ十八時を指していた。予定の倍近い二時間ほどのフライトになった。暗くなってから飛行場を探したせいだ。

 ハーネスを外し、フードを開ける。海風が冷たい。機体を降りると基地司令直々の出迎えだった。ウールのロングコートの中で体を縮こませて白い息を吐いていた。

「もう一機とは一緒ではないのかね」労いの言葉も省略して彼は私に訊いた。あまりになおざりじゃないかと思ったが、しかしそれは彼なりに心配があったからだった。

「もう一機?」と私。

「B‐80(フォルケル前線飛行場のコード)から十五時に二機、十六時過ぎに一機離陸したと聞いたが……」

「それなら私は一機の方です」答えながら私は自分が青ざめていくのを感じた。「先の二機は到着していないんですか?」

「うん。周りの飛行場に不時着したのかもしれないとも思って問い合わせてみたんだが、どこもうちには来ていないということでね」

 結局その晩はそれ以上新しい知らせが入ることもなく、状況が進展することもなく、私はブラッドウェルベイの宿舎に一泊させてもらった。しかしもちろん熟睡などできるはずもなく、翌朝夜明け前に起きて外で影の中を飛ぶガンの群れを眺めていた時、再び司令に呼ばれて彼の部屋で話を聞いた。

 昨晩飛行群司令部に問い合わせたところ、ノースフォアランドのレーダーサイトがどうやら一部始終を捉えていた。セクターの管轄を跨ぐので通達が遅れたらしかった。同じセクターにも何か所かチェインホームのレーダーはあるのだが、雲が厚かったので上手く方角が合わないと捉えられなかったのではないだろうか。司令によると、昨日十六時頃、ノースフォアランドの北、沖合約二十マイルのところでオランダから飛んできたらしい所属不明の数機の小型機が合流。うち二機は雲の下まで降りてきたので比較的はっきり捉えられたが、そのまま高度を下げて間もなくロストした、ということだった。

 無線を扱わないATA機は電話・電信の呼びかけに応じないから、新しいIFF(味方識別装置)装備機を除けば所属不明と判定される。フライトプランと照合できれば味方機と判定されることもある、というレベルに過ぎなかった。

 早朝、捜索のための戦闘機が何機か飛び立った。けれど彼らが見つけるより早く、潟に飛行機が一機墜落している、パイロットを引っ張り出して救急車を待っている、という近くの住民からの通報があったようだった。幸いなことに現場は基地からわずかに二マイルほどの距離だった。バスに同乗させてもらって現地に着いた時にはすでに救急車は去ったあとで、不時着機のパイロットがスチュアート夫人なのか、それともビゴット嬢なのかはやはり確認できなかった。ただ、酷い怪我だとか、瀕死の重傷だとか、そんな話が集まった人々の口から聞こえてきた。

 テンペストは遠浅の干潟の上に滑り込んでいた。その姿はまさに打ち上げられた大ザメかクジラを思わせるものだった。さすがの頑丈さで主翼はほぼ無傷だが、大顎のようなラジエーターは泥を掻き分けて完全に埋まり、プロペラは着地の衝撃で湾曲して機首の周りに撫でつけられ、そして胴体後部の国籍マークから後ろは衝撃で吹き飛んでどこかへ消え去ってしまっていた。したがって胴体側面に描かれた記号や番号で二人のうちどちらの乗機なのかを判別することも不可能だった。

 私は片手で額を抱えた。出発前に私の頬に触れたスチュアート夫人のグローブの感触、若いヒコーキ野郎に囲まれたビゴット嬢の溌剌とした笑顔をフラッシュのように思い出した。

 そして傷ひとつないフォッケウルフの機体を思い出した。

 記録上、ATAの飛行機、パイロットの喪失原因トップは悪天候による機位喪失だとされている。けれど実際にはドイツ機に撃墜されるケースもおそらく少なくない。私の経験から言って、悪天候だって恐いけれど、そんなものはドイツ機に見つかった時の絶望感に比べればまったく大したことはなかった。ATAの任務にはドイツ機と接触する恐れの全くない、完全な後方のものも多いから、天気による被害の方が多い、というのは本当かもしれない。けれど行方不明になった本人から確認が取れるわけじゃない。その原因が悪天候による機位喪失なのか、敵機の襲撃なのかなんて、判別しようがないのだ。ATAは建前として交戦を禁じているのだから、詳細がわからない時は天気のせいにしておく方が都合がいいはずだった。

 レーダーサイトが捉えた所属不明機は数機が合流したというけど、それは実際には空戦だったのだろう。私はあの手錬のフォッケウルフたちが二人を撃墜したのだと思った。何の確証も証拠もない。けれどそれが一番辻褄の合う考え方だった。

 二人のテンペストが抱えていた損傷は見かけにはわからないものだし、二機編隊というのは戦闘部隊でも使う。だからきっと民間機だなんて思わなかったのだろう。でもあまりにあっさりと、ほとんど抵抗も受けずに墜とせてしまったので彼らは何かおかしいと思った。それが戦闘飛行でも哨戒飛行でもなく、単なる空輸であったことに気づく。空輸だから、とか、民間人の操縦だから、とかいった理由で敵の戦闘機を撃墜してはいけない、なんて道理はむろんドイツ軍にもないだろう。それはRAFの戦力に他ならないし、ATAは戦争遂行のために比較的直接的な任務を負った補助部隊なのだ。けれどそれでも無抵抗の相手を狩るのは騎士道に反するという信念を貫くパイロットもいるらしい。RAFにもそういうタイプのパイロットは少なからずいる。そして私は現にフォッケウルフのパイロットがそのタイプであることを経験したばかりだった。彼らは後味の悪い帰途に私とP‐47を見つけ、そして二機のテンペストを墜としてしまった罪滅ぼしのつもりで私を見逃したのかもしれない。複雑な気分だった。二人が見つかっていなければ私が彼らの手にかかっていたかもしれないのだ。

 私はポケットの上からお守りのサメを確かめる。四年もこの仕事をしていれば周りの人々がただ運命、不運としか言いようのない状況で失われていくという経験は何度もあった。なぜ彼らが死に、私が生きているのか。そこに理由などない。それは運命なのだ。であれば悩むより祈る方がまだずっと有益だった。私は静かに黙祷を捧げる。やるせない悲しみに苛まれた時、それが私のジンクスだった。






 ------


 テンペストMk.Ⅴのパイロットノートは以下。

 離陸の手順、コクピット内の描写はこのノートに従って書いています。

http://www.avialogs.com/index.php/en/aircraft/uk/hawker/tempest/a-p-2458c-pilot-s-notes-for-tempest-v-sabre-iia-engine.html


 コフマン・スターターについては以下の動画10:50付近から解説があります。スタートボタンを押すとカートリッジが発火、そのガスがシリンダーに流れ込んでエンジンを捻る、と言ってます。タイフーンの解説ですがエンジンの構造はテンペストも同じです。

https://youtu.be/qexMo-2ZLos?t=640


 油圧系、および着陸脚(Undercarriage)の詳しい解説はこちら。インジケータの表示や点検方法がよくわかります。

https://youtu.be/XsQZjkn5qLs


 テンペストの識別方法やエンジン音はこちら。

https://youtu.be/BKq51LdJ-ZU


 フォルケルで130オクタン燃料を使用していること、冬はこまめな暖機が必要なことなどはピエール・クロステルマンの回想から。以下のサイトを読みました。「5. RAFの指揮下で」の部分です。

http://matsumat.web.fc2.com/hero00/page1.htm

 『撃墜王』で省かれた部分の和訳ということですがとてもありがたかったです。ただ僕は『撃墜王』は未読なので早く入手したいのですが……高い。原書もやっぱり20ドル弱なのでなかなか手が……。



 ATA(Air Transport Auxiliary)はGSU(Group Support Unit)の隷下で間接的に第2TAF(Tactical Air Force)の指揮下に入り、44年半ばから海峡を渡る任務にも組織的に参加、まず男性パイロットが、次いで女性パイロットも参加するようになったようです。この時拠点となったのがロンドン西部のホワイト・ウォーザン(White Waltham)とアストン・ダウン(Aston Down)のフェリープールで、インベージョン・プールと総称されていたと以下の書籍にあります。

 その他無線装備などの状況は劇中で触れたとおりです。

Sisters in Arms (H.P. Schrader, 2006), pp.78tt.

https://books.google.co.jp/books?id=H_QyAwAAQBAJ&pg=PA79#v=onepage&q&f=false


 ATAについて最初に読むなら以下のページがおすすめです。

http://www.airtransportaux.com/history.html


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