綺羅星の湖

楢崎硝花

1ー1 豪雨を越えてきた人

ばたばたと、大粒の雨がフードを打つ。はっ、はっ、と荒く息を吐きながら、女は急な山道を登っていた。


山は平野の東、その先にある湖とを隔てるようにある。人の行き来が月に数えるほどとあって、馬が通れるような道らしい道はなく、迂闊に入ればたちまち位置を見失う。それを、赤い短冊が誘う。野心多き行商の誰かが、何とか苦を小さくしようと、およそ倒れないだろう幹に布を結びつけたのが最初だった。以来、その道を使うものは必ず赤い布を持って山に入る。千切れそうなものがあれば、また、木の倒れそうなものがあれば、裂いて、新たな目印とした。


峠へ辿り着いたら、湖が見えるはずだった。浜に立てば対岸が見えないほどのそれを囲むようにして、エルフが暮らす。人間より頭半分以上ある上背に、緑がかった金の髪。どこか作り物めいた、美しい顔。豊かな緑の恩恵を受けながら、木々の合間に彼らはいる。


輝石はドワーフだが、金属はエルフと言われる。欲望に忠実なドワーフたちは、専ら透き通った石ばかりを追いかけ、金属には微塵も興味がないらしい。その点、エルフは全く関心がないとは言わないが、せっかくだから専門に任せる、といった風で、ドワーフの手を出さない領域、冶金からその加工までを一手に引き受けた。実用的な道具から、装飾まで、ありとあらゆるものを揃え、行商は大抵、エルフの作る繊細な金属細工を求めて山に入った。山の麓に潜む追い剥ぎに注意を払いながら、彼らは身一つで峠を越えていく。


女もまた、同様に、大きなリュックを一つ背負うだけの行商だった。湿気が多く、温暖な気候は、頻繁に雨を降らせる。中腹まで、かろうじて保っていた天候はしかし、ぽつりと一滴落としてからは止む気配がなかった。しっかり締めたはずの長靴でさえ、ぐずぐずと雨水を溜め込んでいる。一日中雨に打たれ続ければ体温は奪われるし、何より酷く疲れた。はぁ、と女は息を吐く。支えにした太い枝にすがるようにして、斜面をまた、一歩踏み出した。


「ぅわっ!」


跳ねた水音は、豪雨にかき消された。




きっともう、降ってないのと変わりないわねぇ。


そう言って、妻は台所に引っ込んだ。日がな一日、ザーッという音が鳴るのを飽いて言うのだが、本当に変わりないのなら、食堂に一人くらい客がいてもいい。がらんどうの席を眺めながら、ふぅ、とため息をついた。商売上がったりだ。


客が来なければやることもないと、ユーゲンは誌面を繰る。


黙ってカウンターを温めているのは、もはやそれくらいしかすることが見つからないからでもあり、長雨で備蓄を切らせた隣近所が、食事をしに来るかもしれない、という僅かな希望を持ってのことでもあった。目の前に左右、三卓ずつ並ぶ長机は、本来、どの時間でも二人か三人は座って、お茶をしている。夕食時ともなれば、泊りの客と、食事だけをしに来た客でいっぱいになった。


そうやって、食堂を備えた宿屋『栗鼠の隠れ穴亭』はわりあいに繁盛している。余談だが、店の命名は亭主のユーゲン、本人だ。


相変わらずの豪雨が半ば子守唄と成り果てるころ。がたん、と重い音のした気がして、はっと目を覚ました。鍋でも落としたかな。瞼を擦っていると、もう一度、今度は床板がきしんだ。


「裏口から、すみません。ひと部屋、空いているでしょうか」


ざぁっと、雨音が吹き込む。低く唸るような背景に、アルトは清々しく響いた。


覚えのある声に振り向く。白く濁る水煙を背に、小柄な人影が立っている。それは細い腕を持ち上げ、ばさりとフードを取った。


丸みを帯びる頬。アーモンド形の瞳は薄暗い中でさえ鮮やかに輝く青。雨に打たれて無惨にも紫に震わせている唇が、いつもならふっくらと温かな薄紅色であることをユーゲンはよく知っていた。


「ツユリ!ツユリじゃないか!」


答えて、女はやんわりと口角を持ち上げてみせる。


「お久しぶりです、ユーゲンさん」


言う間にも、濡れた前髪から滴が垂れていた。上着の袖はべっとりと腕に貼りついて、青白い手の甲にせせらぎを作っている。


「挨拶はいい、とりあえずなんか拭くもんを、リッタ、リッタ!」


なぁにぃ。間延びする返答に、タオルを持ってくるよう怒鳴り返す。


戸口に突っ立ったままのツユリは、曖昧に笑んでいる。そう急がなくても、と言いたげだが、体が震えるのを抑えきれていなかった。


「そんなとこいねぇで、入ってこい」

「床が濡れてしまいます」

「んなもん、あとで拭きゃどうにでもなる」


馬鹿なことを言う。


睨めば、渋々、旅人は右足を出した。手はドア枠から離れず、左足を引きずって、ようやく一歩、床板を踏む。


そこへ、リッタが小走りに現れた。両手に山とタオルを抱え、濡れ鼠の上客を見て悲鳴をあげる。


「ツユリ!どうしたの!こんな日に!」

「ちょっと、無茶をしました、わっ」


ユーゲンはタオルを引っ手繰る。力任せに小さな頭を拭けば、男の力に細い体ごとぐらり、ぐらりと揺れた。ついには耐えきれず、はっしと亭主の逞しい腕を掴む。


「お前、足、どうした」


手を止めた男に、低く尋ねられた。


「あ、えっと、少し、滑ってしまって……」


濡れた前髪の合間から、窺うように視線を上げて、行商は口をつぐんだ。切れ長の目が、明らかな怒気を孕んでこちらを射抜いている。すがるようにタオルの端を握りしめたが、雷光のような視線は隠せるはずもなかった。


「それで、無理して山越えてきたって?」


するりと、片腕で両脇を抱えられる。僅かに踵が浮いて、心許なさに、ユーゲンにしがみついた。


「あの、」

「リッタ、荷、持ってやれ」

「え、重いですから」

「あ?」


至近距離で凄まれる。それ以降の言葉を、大人しく飲み込む。


タオルをカウンターに積み上げ、リッタはずぶ濡れのリュックを持ち上げた。頭半分小さい彼女が負うには、重すぎる荷から腕を片方ずつ抜くと、今度は、上着を脱がせにかかる。


もはや、ツユリに自立できるだけの力はないようで、かっちりとユーゲンの二の腕を掴んでいた。シャツ一枚にすると、それにも泥水が染みている。


カウンターに置いた上着から、ぽたりぽたりと水が滴っていた。


「痛ぇところは」

「……あ、足、と、」


逡巡する間があり、か細く声が揺れる。男の固い腕に、折れそうなほど細い指が食い込んだ。


「さむい」


ふいにこぼれ落ちた言葉に最も驚いたのは、発した彼女自身だった。そして、呼び起こされるように、爪先から震えが駆け上ってくる。


はっはっと呼気が荒くなり、大丈夫か、とユーゲンが声をかけようとしたときだった。


「おっと」


細い脚からくずおれる。それを危なげなく受け止めると、ぴしゃぴしゃ頬を叩いた。


「おい、ツユリ」


薄い瞼が震える。しかし、鮮やかな青がそこから覗くことなく、真っ青な唇が翅音ほどの小ささで、謝罪を呟くのみだった。

男は眉根を寄せる。


「リッタ、湯、沸かせ」


声も出せずに、妻は二度三度うなずいた。身を翻し、あ、と立ち止まる。


「た、タオルは」

「そこの大部屋に置いといてくれ」


何枚か取りこぼしながら、タオルを抱える。行き先に迷い、足が二度ほど行ったり来たりして、ようやく部屋の扉を押し開けた。こういう時、妻はあまり当てにならない。


ユーゲンは人を抱き上げる。

エルフから見れば、体の大きさも、歳も、彼女は充分に子供だった。違うとわかっていても、一層の痛ましさに胸が塞ぐ。


台所へ走る後ろ姿を捉えながら、人を運び込んだ。

一階、食堂横の部屋は寝台が六つ並ぶ大部屋だった。相部屋となる代わりに、宿賃は安くしている。地方から来た物売りが大抵、ここを使っていたが、大雨で当然、客一人いない。


一番奥の寝台へ、人を横にする。濡れたままでは寒かろうと、シャツに手を伸ばしかけ、慌てて握りこんだ。子供と同じに扱ってはならないのだった。

せめてもとタオルを何枚かかけ、部屋を出る。


「リッタ」


廊下の先、火の番をしていた妻は、呼ばれるとすぐに走ってきた。


「火代わるから、あいつの服、脱がせてやってくれ」


痛ましげに顔を歪める。そして、黙然とうなずいた。


入れ違いに部屋へ入っていく妻が、旅人の名を呼んでいる。年に一度、夏頃にやってくる人間とは随分親しくしていて、春も盛りを過ぎれば待ち遠しげにしている。日に何度も、玄関を覗きに来ては、今年はいつ来るのかな、などと口にした。


それだけに、動揺も凄まじい。


リッタほどではないが、ユーゲンもまた、彼女に気安くしていた。

耳元で低く打ち鳴らすのは、それが自身の心音でなく、鍋の沸いたためだと気付くのに遅れて、ユーゲンは長々とため息を吐いた。ぼこぼこと泡を吹き上げる湯を手桶に移し、水を差して温めると、台所を後にする。


湯を客室に持って入れば、寝台の傍らに跪く妻が目に付いた。彼女の前には人のか細い身体が横たわっている。上は宿に置いている簡易な白い服を着ていたが、下はそのままだ。


足音に気づいて、一つに束ねた金髪が跳ねる。薄暗い中でも分かるほど、顔を真っ青にして、か細く夫を呼んだ。


「どうした」


寝台脇の棚に桶を置き、タオルを浸す。

リッタが声を震わせる。


「この子……足が……」


固く絞って、切られた湯が跳ねた。

湯気の立ち上るタオルで、汚れた顔を擦る。呻きはするが、目を覚ます様子はない。

ユーゲンは強か頬を叩く。すると、どうにか瞼が震え、うっすらと覗いた青を、突き刺すように見つめた。


「足は、なんだって」

「おりま、した」


医者を、と言った声はもはや意識を失いかけており、先程よりも強く頬を打った。


「すぐに呼んでくる。起きて、待ってろよ」


起きて。強調した意味を汲んで、痛みに顔を歪めながらも、ツユリは大きく息をし、目を開こうとした。それでも、礼を紡ぐ声は掠れている。


眉間に皺を寄せる。寝かせて、固定して、どうにかなる状態ではない。医者を呼んでくれという怪我人の判断は、朦朧とする意識にもかかわらず、どうしようもなく正しい判断だった。


「なんか、話しといてくれ」


妻は青筋が立つほど、掛布を握りしめている。はっと夫を振り仰いだ顔色は怪我人といい勝負だが、恐らく、ユーゲンも同じく、色を失っている。

行くのか、と縋る目を振りきる直前、場違いに明るい声が飛んできた。


「こちらはそろそろ夏ですから、麻の布を持ってきました」


先程のか細さは何だったのかと疑うほど、確かな口振り。行商は胸を大きく上下させて息を吐く。びっしょりと額を脂汗で濡らし、文句を続ける。


「髪が、金色だから、映えると思って、茜染を」


終わりにつれ、声は力を失っていく。それでも、喉から押し出すようにしてでも、行商は話そうとしていた。

リッタは震えながら、枕元にかじりついた。冷え切った手を取り、強いて口元に笑みを浮かべる。


「赤いのかしら」

「はい。夏は、鮮やかな、色が、似合います。赤に、白で縫取りをして」


これが、青空の下、軒で交わされるものなら、ユーゲンも笑みをもって見守ることが出来た。

雨音の陰、女たちの掻き消されそうな他愛無い会話は、半ば切実な祈りさえ帯びている。妻は顔を強張らせたまま、怪我人は呂律も怪しい。


ユーゲンは背を向ける。唇を引き結び、部屋を出た。


食堂は闇に沈んでいる。誰も来ないと高をくくって、灯りは最低限、入り口と、カウンターにしか置いていなかった。中からコートを取り出しながら、ユーゲンは必死に頭を巡らせる。医者を、と言ったが、彼女は恐らく知らないだろう。エルフはめったに病気をしない。骨を折ったとしても、添え木をして安静にしておけば、いつかは治る。人間よりずっと頑丈にできているから、エルフの怪我に対する認識は極端だった。つまり、治るか、死ぬかだ。


医者は希少だ。彼女が思うよりずっと。


袖を通し、ぴったりとボタンを留める。玄関を開ければ、飽きもせず降る雨。向かいの店さえ見えない視界に、しかし、怯むつもりはなかった。

フードを深く下げ、ランプを取る。

城まで行けば、きっと。


男は豪雨に躍り出た。

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